『素問』陰陽応象大論「九竅為水注之気」について,『素問記聞』に「因竊意之,気必器」といい,『素問考』には「或曰:気,疑応作器」という。そしてどちらでも,気と器は同音であるとしたうえで,『外台』引「刪繁論」では「九竅為水注之於気」(『素問考』では「於」は剥落の模写)だという。「九竅は水を為し,これを器に注ぐ」というつもりではないか。
もつとも,『素問記聞』も『素問考』も,さらに『五行大義』に引かれた本経を引いて,そちらのほうを評価している。ところが『素問識』はまたまた再考して,やっぱり『類経』の説のほうが穏当だという。ころころ変わる。やはり難問なんだろうなあ。
なんにせよ,藍泉斎蔵書『素問考』の前言に,「将『愚案』二字改為『因竊意之』,示為於己意,実為掩善也」などと言うのは気が知れぬ。愚案は『類経』の案語であって(愚は張介賓の自遜),そこには気は器,などとはいってない。『素問考』「或曰:気,疑応作器」の前に,ここまでが『類経』の説という意味で,「以上張氏」と明示してあるのに,なんとしたことか。
2018年3月17日 星期六
鼇城公観(金窪七朗)とは何者か
本当に、知られざる偉人なのか?
『素問記聞』と『素問考』
桂山先生口授の『素問記聞』と鼇城公観輯の『素問考』がある。『素問記聞』は、多紀元簡が『素問』を講義したときの内容を、弟子が記録したものということになっている。つまり多紀元簡が『素問』を研究しはじめた初期の水準を示すものであって、『素問識』に至る道程を窺わせる貴重な資料と考えられている。現在は、武田の杏雨書屋に蔵される。『素問考』の由来は、本当のところあまり明かではないが、一本がやはり杏雨書屋に蔵され、多紀元堅の『素問紹識』や森立之の『素問攷注』に一定の影響を与えたと評価されている。
両書の内容はそっくりである。そこで、今回の話は一言でいえば、両者の関係は如何なるものか。
多紀元簡が剽窃したのか
中国の学苑出版社から、北京中医薬大学の銭超塵教授が主となって校正したものが、最近になって「藍泉斎蔵書」などと称して出ている。その前言に、「『素問記聞』は丹波元簡(多紀元簡のこと)が親しく撰したものではなく、金窪七朗(鼇城公観のこと)の『素問考』を過録したものである」といわれる。
鼇城公観輯『素問考』→ 多紀元簡の講義 → 桂山先生口授『素問記聞』
つまり、鼇城公観のノート『素問考』を借用して、多紀元簡が『素問』の講義をし、それを事情をよく知らない受講生が書きとめて、先生から聞いた話として『素問記聞』ができた。
はたしてそうだろうか。確実に言えるのは、そっくりということまでである。どちらかがどちらかの引き写しなんだろうとは、まあ言えるかと思う。では、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観のものを写したのか、無名な鼇城公観が有名な多紀元簡のものを写したのか。どちらの可能性も有るだろうが、常識的にいえば、有名な者が無名な者の為事を取った(奪った)というためには、逆の場合よりもさらに多くの証拠を要する。教授は、鼇城公観という埋もれた大学者がいて、多紀元簡の江戸医学館における『素問』講義は、その鼇城公観輯の『素問考』を無断借用して為されたに過ぎないと言いたいようである。しかし、そこまで言うに足るだけの証拠が有るのか。
藍泉斎蔵書の前言から窺えば、その主張の重要な論拠は、以下の二点であろうと考える。
①『素問考』首頁下に「鼇城公観輯」と署名があるから、鼇城公観の為事に違いない。
② 多紀元簡の説を引くのに、桂山先生でなく、桂山である。これは、朋輩(同輩)として扱っているからだ。
証拠不十分
先ず、署名が有ることを重視しすぎるのは誤りである。そもそも「輯」は、書き手が全責任を負う作品であることを意味しない。
著とか輯とか、記とか考とか、いかなる違いが有るのか。江戸時代の日本人の常識としてはどうであったかを見るために、『和本入門』(誠心堂書店店主・橋口侯之介 平凡社 二〇〇五年)を開いてみた。
「記」は、書きとめる、書きとどめる、ありのまま記す。だから、『素問記聞』という書名は、口授された内容をそのまま記録したということだろう。
「輯」は、集とほぼ同じで、「集」は、文章や詩歌などの材料を集めてまとめることだが、「輯」にはもう少し編集に近く系統立てるという意味がある。もつとも、『素問考』の場合は、末尾には「庚戌之夏集之」とあるから、巻頭の署名の下だから「集」より「輯」という字を選んだだけとみていい。「考」は、他者の文に自分の意見を加えるときにもいう。してみると『素問考』という書名の由来は判る。鼇城公観としては、多紀元簡の『素問』講義の内容の他に集めて併せたものが有り、いくらかは自分の意見も添えたつもりなのであろう。確かに、『素問考』には『素問記聞』に無い按語が有り、そのうちのいくらかは鼇城公観のものかも知れない。他から集めて併せた内容の主なものには、張介賓の『類経』注、馬蒔の『素問註証発微』がある。
次いで、桂山先生と「先生」をつけないと無礼なのか。それほどでも無いと思う。号で呼ぶこと自体がそれなりの尊敬の現れである。
また、弟子でなく同輩、さらには先輩であっても、多紀元簡の『素問』講義を聴くということは有っただろう。講義をしたのが、『素問識』の序にいうところの、「庚戌の冬に侍医に擢でられ、公私に鞅掌、呼吸に遑なく、遂にこれを橱中に投じた」のより以前とすれば、三十代前半のころで、当時としては中年であったにせよ、未だ雲の上の人というわけではなかったはず。だから、聴講者であっても、必ずしも桂山先生と書いたりしなくてよい立場のものもいただろう。
またそもそも、当時の講義はどのように為されていたのか。聴きながらノートを取るなどということは可能だったのか。特殊な才人はともかくとして(小川環樹の中国語学講義を、尾崎雄二郎がそっくりそのまま筆録したという本が、臨川書店から出ている)、一般には難しかろう。講義用ノートを書き写させてもらったのではないか。その場合、ノートが多紀元簡がおのれの為に準備したものであれば、当然ながら「桂山先生云」などとは書かなかった。ただ「按」とか「云」とか、あるいは「桂山云」とだけ記した。それは確かに、『素問記聞』の場合のように、抄者が「先生」を加えるほうが鄭重だろうし、『素問考』のようではいささか粗忽なのかも知れない。しかし、声を荒げて叱責すべきほどのこととは思わない。
多紀元簡が自分で書いたノートがあったはず、ということのついでに言っておくが、現存する『素問記聞』の筆者の教養レベルはお話しにならない。誤りだらけである。そしてその誤りの大部分は形誤である。聴講した内容を速記した場合とは誤りかたが違う。
故に、二点の証拠は、いずれも確たるものとは言い難い。
継承関係の異見
書名と署名の意義から推測すれば、継承関係のあらましはむしろ次のようなものではないか。
多紀元簡の講義ノート → 桂山先生口授『素問記聞』
↘
鼇城公観輯『素問考』
「類注」・「註証」etc. ↗
多紀元簡は『素問』の講義の為に、何らかのノートは用意したはず。そのノートは恐らくは受講生、あるいは少なくとも受講生の一部には書き写すことを許されていた。次々と転写されて、抄本はいくつかできていたのではないか。その内の一つは(あまりできのよくない受講生の書き写した)桂山先生口授『素問記聞』として残った。別の一つは、鼇城公観の手に入り、彼は省略されたりして不足と感じた『類経』注や『素問註証発微』を、ながながと書き足した。鼇城公観には、そうしたことができる程度の教養と資料の持ち合わせがあった。
その他の差異をどう判断するか
さて、『素問考』と『素問記聞』の内容の違いには、見方を変えればむしろ私の考える筋道を支持するものが有る。
『素問記聞』上古天真論の「故美食數然也 也猶邪」について、この条は誤りが甚だしく、『素問考』では3条であるものを合成して1条としたものであり、あまつさえ厳重な抄誤が有るのは、『素問記聞』が『素問考』から出たものである確証といわれるが、どうしてそんな理屈になるのか。単に『素問記聞』の書き手の粗忽さを露呈するに過ぎなかろう。
金匱真言論「故冬不按蹻」条について、『医学綱目』が「按蹻」は衍文かどうかをいうのに対する元簡の按語が、『素問考』にはあるのに、『素問記聞』にないのも、なんの不思議もない。『素問記聞』も『素問考』も同一のノートからの抄写であるとは認めているはずであるが、元のノートが改変と増補を繰り返す過程で写されているはずである。原著者の理解は日々に進んでいたと想像される。それが反映されていても何の不思議もない。一方にあって、他方にない内容があるのも、むしろ当たり前である。そもそも『素問考』は、『医学綱目』が衍文説なのかどうかの根本を誤っている。「桂山云:『医学綱目』以按蹻二字為衍文者、妄也。其言有衍文錯簡者、可也。」(按蹻の二字が衍文だというのは思い違いである。どこかに衍文もしくは錯簡が有るという意見なら、まあ良い。)『素問識』ではきちんとした引用をしている。「楼氏『綱目』云:按蹻二字非衍文。其上下必有脱簡。即冬不蔵精者、春必温病之義也。」(按蹻の二字は衍文ではない。ただその上下に何かを脱しているはずだ、云々。)これなどはむしろ、『素問記聞』は『素問考』を書き写したものではない証拠といえそうである。『素問考』の緝者は、多紀元簡の講義を聴きまちがえて記録した可能性がある。
また、陰陽離合論の厥陰に関する項、どちらにも「漢書・貨殖志:天下之財産、焉得不厥足。師古註:厥足、盡竭也」とある。この貨殖志は食貨志の、厥足は蹷の誤りである。これらは(多紀元簡の『素問』研究の集大成)『素問識』では修正してある。ところがもう一つ、『漢書』を調べると、師古註は応劭註「傾竭也」の誤り。やはり、最初の多紀元簡のノートの誤りを、『素問識』として整理したときに正したと考えたい。貨殖志を食貨志と訂正した。蹷はもともと誤ってなかった可能性も高い。誰の註であるかの誤りはそのまま。訂正が中途半端なのは、常識によって処理したからで、それはもともと(多紀元簡)自身の按語だからであろう。もし他人の為事から取ったのであって、短い引用の中に二つもの誤りを見出せば、残りの部分についても直接『漢書』を紐解いて確認しそうなものではないか。応劭註を師古註と誤るなどということは、どうしておこったのか。『康煕字典』ではない。誤りのもととなった書物を突き止めれば、『素問識』成書の秘密にまた一歩近づけそうなんだが。(以前、井上雅文先生から、『素問識』はすごいけれど、『康煕字典』が有ればかなりのところまではできる、神業というほどのことではないらしい、と聞いた。伊沢棠軒『素問釈義』は幕末の戦に従軍中に書かれた。どうしてそんなことができたのか。実は『素問識』と『素問紹識』が有れば、その他の資料は行李一つにも入ったかも知れない。別に牛に負わせて汗をかかせるには及ばない。)
またあるいは、陰陽離合論の「陰摶陽別謂之有子」の条、『素問考』に桂山曰と有りながら、『素問記聞』に無いのは、『素問記聞』が『素問考』から出る確証といわれるが、何のことやらさっぱり合点がいかない。『素問考』は上に類註を引いたから、ここからは張介賓の考えではなく多紀元簡の説と、はっきりさせたいから「桂山曰」を途中に必要としただけのこと。紛れそうにないところでは、ほとんど誰の按語であるかは記すことはない。上古天真論「分別四時」の按語でも、『素問記聞』はわざわざ桂山曰などとはしない。無くともわかるはず。
『素問記聞』も『素問考』も、同系のノートを元にしていると仮定して、どちらがより後期のものに拠っているかははっきりしない。ただ、『素問考』には汚れか剥落の痕を模写したと思しい箇所が有る。陰陽応象大論「九竅為水注之気」の条に、『外台』十六引刪繁論に云うとして「九竅為水注之○気」とある。『素問記聞』ではキチンと「九竅為水注之於気」になっているから、『素問考』抄写の対象となる講義ノートのほうがより後期のもの(汚れてしまってからのもの、あるいは墨で塗りつぶされた後のもの)だからと考えられる。もし、『素問考』のほうが、多紀元簡の講義ノートの源であったと仮定すれば、『素問考』の集め手と書き手は別人(つまり書き手は鼇城公観ではない)で、しかも現存のものは、汚れてしまった後のものからの書き写しということになりはせぬか。鼇城公観とその弟子もしくは朋輩によるサークルのごときものの存在が必要になりはせぬか。もしそうだとしたら、鼇城公観の周囲にも、そこそこ事情を知る人がいたはずで、しかも江戸の学界には半世紀もの間、誰もその書物の存在を知るものがなかった、ひょっこり「偉大な先学の為事」として出てきた、というのは異様ではないか。
喜多村直寛の酷評
どうも学界は、多紀元簡に対して厳しすぎるように思う。これには、喜多村直寛の言い分からくる悪印象の影響が有るのだろう。『黄帝内経素問講義』の跋文の中に、多紀元簡の『素問識』は偉大な著作には違いないが、先人の為事を剽窃したところが有ると批判されている。すなわち目黒道琢に十の七を、稲葉通達に十の二を負うている、その他にも芳邨恂益などというのもいる。こんなことを言われるのは、多紀元簡の身から出た錆(他にも人格に問題が有るとする評判が残っている)でもあろうが、いささか酷に過ぎるとも思える。『素問識』の業績のほとんどが、目黒道琢や稲葉通達に由来する、明記しないのはけしからんと言うのであれば、どうして『黄帝内経素問講義』に、「劉(多紀元簡のこと、多紀氏は後漢霊帝の後裔を称している)云」が多いのか。とても十に一どころではない。喜多村直寛の主張するところに叶うには、おおもとを確かめて、片端から「驪(目黒道琢のこと)云」や「稲(稲葉通達のこと)云」に改めるべきだったのではないのか。我々としては、平心につとめ、初めから色眼鏡で見るのは控えるべきだろう。
校正本の粗忽
名高い多紀元簡の為事にだって、それは粗忽は有るだろう。例えば、『素問記聞』も『素問考』も、張志聡を張思聡と書き間違えるのは共通している。こういうのは多紀元簡のノートにすでにあったことかもしれない。
藍泉斎蔵書にだって粗忽は有る。前言に取り上げられていることのいくつかは勇み足である。例えば『素問記聞』の抄者のレベルをあげつらって、「侖」は「訛字である、当に論に作るべし」というのには同意しがたい。なるほど見慣れない文字ではあるが、これは古字もしくは略字というべきものである。『漢語大字典』にも、「侖」は「論」と同じとちゃんと載っている。
この他にもいろいろなことを言われているが、藍泉斎蔵書自体それほどの精校とはいえないし、継承関係の証拠とされるものもさして確かとは思えない。かつて、『霊枢識』が『素問識』より劣るのは、『素問考』に相当するものが無かったからだと言われたことも有るが、それは主観的な感想であって、論拠には為しがたい。藍泉斎蔵書には、さすがにこんなのは載せてはいない。
はっきりしているのはそっくりということ。どちらがどちらを剽窃したかを確言できる証拠は、未だ見つからない。だから、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観の為事を奪ったなどと、誹謗し、常識を逆転させるに足るだけの証拠は無い、と無名な粗忽者が有名な学者に抵抗するだけのことである。
鼇城は稲葉氏の居城
ただ、教授の、鼇城公観のほうが先輩であるという意見を、後押ししかねない些細な情報なら、実は一つ見つけてある。
「鼇城公観 後改姓名為金窪七朗」とあるのを、七朗の字は公観、号は鼇城と解するのには疑問が有る。当たり前なら、鼇城という姓を金窪に、公観という名を七朗に改めたという意味の注記だろう。
確かに鼇城というのは日本人の苗字(姓と氏と苗字の違い、などというややこしい話は省く)としては異様であるが、豊後臼杵の城の異名に亀城というのがある。さらに巨きな神話的な亀ということで、鼇城という場合もあった。出身地を苗字代わりとするのは、むしろ伝統的である。してみると、豊後臼杵の(藩主)稲葉氏の出のものが、鼇城という戯れの苗字を称する可能性はある。(亀城という異名を持つ城は、全国にいくつも有るが、確かに鼇城と呼ばれたものは、他には知らない。)思い起こせば、『素問研』の稲葉通達は、豊後臼杵の人らしい。確かに稲葉氏の通字の「通」を用いている。稲葉通達の係累が、稲葉の一族とあからさまに名乗っては拙い場面で、鼇城公観と戯称するのはそう突飛、不可思議ではない。医家としての稲葉一族の端くれであれば、家学の発露としての『素問考』を集する能力くらいは期待できそうである。得体の知れない者が、得体の知れない学識者でありうるのかという疑問は払拭できる。
あるいはまた、鼇城というのは署名における、ひそかな矜恃の表現に過ぎなかったかも知れない。それで、誰にも存在を知られなかった。時がたってさすがに鼇城公観という異様な名では通らなくなって、金窪七朗となった。あるいは世間にはもともとそう称していたのかも知れない。稲葉氏を名乗らなかったのは、そちらの方面にもはばかるところが有って、母方の氏でも採ったのかも知れない。ただ、そもそも金窪某としても、受講生仲間に記憶されるほどの存在ではなかったらしい。
だから、結局のところ鼇城公観とは何者か、よくわからない。桂山先生の聴講生中のオッチョコチョイか、あるいは稲葉通達の係累のはぐれものか。
『素問記聞』と『素問考』
桂山先生口授の『素問記聞』と鼇城公観輯の『素問考』がある。『素問記聞』は、多紀元簡が『素問』を講義したときの内容を、弟子が記録したものということになっている。つまり多紀元簡が『素問』を研究しはじめた初期の水準を示すものであって、『素問識』に至る道程を窺わせる貴重な資料と考えられている。現在は、武田の杏雨書屋に蔵される。『素問考』の由来は、本当のところあまり明かではないが、一本がやはり杏雨書屋に蔵され、多紀元堅の『素問紹識』や森立之の『素問攷注』に一定の影響を与えたと評価されている。
両書の内容はそっくりである。そこで、今回の話は一言でいえば、両者の関係は如何なるものか。
多紀元簡が剽窃したのか
中国の学苑出版社から、北京中医薬大学の銭超塵教授が主となって校正したものが、最近になって「藍泉斎蔵書」などと称して出ている。その前言に、「『素問記聞』は丹波元簡(多紀元簡のこと)が親しく撰したものではなく、金窪七朗(鼇城公観のこと)の『素問考』を過録したものである」といわれる。
鼇城公観輯『素問考』→ 多紀元簡の講義 → 桂山先生口授『素問記聞』
つまり、鼇城公観のノート『素問考』を借用して、多紀元簡が『素問』の講義をし、それを事情をよく知らない受講生が書きとめて、先生から聞いた話として『素問記聞』ができた。
はたしてそうだろうか。確実に言えるのは、そっくりということまでである。どちらかがどちらかの引き写しなんだろうとは、まあ言えるかと思う。では、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観のものを写したのか、無名な鼇城公観が有名な多紀元簡のものを写したのか。どちらの可能性も有るだろうが、常識的にいえば、有名な者が無名な者の為事を取った(奪った)というためには、逆の場合よりもさらに多くの証拠を要する。教授は、鼇城公観という埋もれた大学者がいて、多紀元簡の江戸医学館における『素問』講義は、その鼇城公観輯の『素問考』を無断借用して為されたに過ぎないと言いたいようである。しかし、そこまで言うに足るだけの証拠が有るのか。
藍泉斎蔵書の前言から窺えば、その主張の重要な論拠は、以下の二点であろうと考える。
①『素問考』首頁下に「鼇城公観輯」と署名があるから、鼇城公観の為事に違いない。
② 多紀元簡の説を引くのに、桂山先生でなく、桂山である。これは、朋輩(同輩)として扱っているからだ。
証拠不十分
先ず、署名が有ることを重視しすぎるのは誤りである。そもそも「輯」は、書き手が全責任を負う作品であることを意味しない。
著とか輯とか、記とか考とか、いかなる違いが有るのか。江戸時代の日本人の常識としてはどうであったかを見るために、『和本入門』(誠心堂書店店主・橋口侯之介 平凡社 二〇〇五年)を開いてみた。
「記」は、書きとめる、書きとどめる、ありのまま記す。だから、『素問記聞』という書名は、口授された内容をそのまま記録したということだろう。
「輯」は、集とほぼ同じで、「集」は、文章や詩歌などの材料を集めてまとめることだが、「輯」にはもう少し編集に近く系統立てるという意味がある。もつとも、『素問考』の場合は、末尾には「庚戌之夏集之」とあるから、巻頭の署名の下だから「集」より「輯」という字を選んだだけとみていい。「考」は、他者の文に自分の意見を加えるときにもいう。してみると『素問考』という書名の由来は判る。鼇城公観としては、多紀元簡の『素問』講義の内容の他に集めて併せたものが有り、いくらかは自分の意見も添えたつもりなのであろう。確かに、『素問考』には『素問記聞』に無い按語が有り、そのうちのいくらかは鼇城公観のものかも知れない。他から集めて併せた内容の主なものには、張介賓の『類経』注、馬蒔の『素問註証発微』がある。
次いで、桂山先生と「先生」をつけないと無礼なのか。それほどでも無いと思う。号で呼ぶこと自体がそれなりの尊敬の現れである。
また、弟子でなく同輩、さらには先輩であっても、多紀元簡の『素問』講義を聴くということは有っただろう。講義をしたのが、『素問識』の序にいうところの、「庚戌の冬に侍医に擢でられ、公私に鞅掌、呼吸に遑なく、遂にこれを橱中に投じた」のより以前とすれば、三十代前半のころで、当時としては中年であったにせよ、未だ雲の上の人というわけではなかったはず。だから、聴講者であっても、必ずしも桂山先生と書いたりしなくてよい立場のものもいただろう。
またそもそも、当時の講義はどのように為されていたのか。聴きながらノートを取るなどということは可能だったのか。特殊な才人はともかくとして(小川環樹の中国語学講義を、尾崎雄二郎がそっくりそのまま筆録したという本が、臨川書店から出ている)、一般には難しかろう。講義用ノートを書き写させてもらったのではないか。その場合、ノートが多紀元簡がおのれの為に準備したものであれば、当然ながら「桂山先生云」などとは書かなかった。ただ「按」とか「云」とか、あるいは「桂山云」とだけ記した。それは確かに、『素問記聞』の場合のように、抄者が「先生」を加えるほうが鄭重だろうし、『素問考』のようではいささか粗忽なのかも知れない。しかし、声を荒げて叱責すべきほどのこととは思わない。
多紀元簡が自分で書いたノートがあったはず、ということのついでに言っておくが、現存する『素問記聞』の筆者の教養レベルはお話しにならない。誤りだらけである。そしてその誤りの大部分は形誤である。聴講した内容を速記した場合とは誤りかたが違う。
故に、二点の証拠は、いずれも確たるものとは言い難い。
継承関係の異見
書名と署名の意義から推測すれば、継承関係のあらましはむしろ次のようなものではないか。
多紀元簡の講義ノート → 桂山先生口授『素問記聞』
↘
鼇城公観輯『素問考』
「類注」・「註証」etc. ↗
多紀元簡は『素問』の講義の為に、何らかのノートは用意したはず。そのノートは恐らくは受講生、あるいは少なくとも受講生の一部には書き写すことを許されていた。次々と転写されて、抄本はいくつかできていたのではないか。その内の一つは(あまりできのよくない受講生の書き写した)桂山先生口授『素問記聞』として残った。別の一つは、鼇城公観の手に入り、彼は省略されたりして不足と感じた『類経』注や『素問註証発微』を、ながながと書き足した。鼇城公観には、そうしたことができる程度の教養と資料の持ち合わせがあった。
その他の差異をどう判断するか
さて、『素問考』と『素問記聞』の内容の違いには、見方を変えればむしろ私の考える筋道を支持するものが有る。
『素問記聞』上古天真論の「故美食數然也 也猶邪」について、この条は誤りが甚だしく、『素問考』では3条であるものを合成して1条としたものであり、あまつさえ厳重な抄誤が有るのは、『素問記聞』が『素問考』から出たものである確証といわれるが、どうしてそんな理屈になるのか。単に『素問記聞』の書き手の粗忽さを露呈するに過ぎなかろう。
金匱真言論「故冬不按蹻」条について、『医学綱目』が「按蹻」は衍文かどうかをいうのに対する元簡の按語が、『素問考』にはあるのに、『素問記聞』にないのも、なんの不思議もない。『素問記聞』も『素問考』も同一のノートからの抄写であるとは認めているはずであるが、元のノートが改変と増補を繰り返す過程で写されているはずである。原著者の理解は日々に進んでいたと想像される。それが反映されていても何の不思議もない。一方にあって、他方にない内容があるのも、むしろ当たり前である。そもそも『素問考』は、『医学綱目』が衍文説なのかどうかの根本を誤っている。「桂山云:『医学綱目』以按蹻二字為衍文者、妄也。其言有衍文錯簡者、可也。」(按蹻の二字が衍文だというのは思い違いである。どこかに衍文もしくは錯簡が有るという意見なら、まあ良い。)『素問識』ではきちんとした引用をしている。「楼氏『綱目』云:按蹻二字非衍文。其上下必有脱簡。即冬不蔵精者、春必温病之義也。」(按蹻の二字は衍文ではない。ただその上下に何かを脱しているはずだ、云々。)これなどはむしろ、『素問記聞』は『素問考』を書き写したものではない証拠といえそうである。『素問考』の緝者は、多紀元簡の講義を聴きまちがえて記録した可能性がある。
また、陰陽離合論の厥陰に関する項、どちらにも「漢書・貨殖志:天下之財産、焉得不厥足。師古註:厥足、盡竭也」とある。この貨殖志は食貨志の、厥足は蹷の誤りである。これらは(多紀元簡の『素問』研究の集大成)『素問識』では修正してある。ところがもう一つ、『漢書』を調べると、師古註は応劭註「傾竭也」の誤り。やはり、最初の多紀元簡のノートの誤りを、『素問識』として整理したときに正したと考えたい。貨殖志を食貨志と訂正した。蹷はもともと誤ってなかった可能性も高い。誰の註であるかの誤りはそのまま。訂正が中途半端なのは、常識によって処理したからで、それはもともと(多紀元簡)自身の按語だからであろう。もし他人の為事から取ったのであって、短い引用の中に二つもの誤りを見出せば、残りの部分についても直接『漢書』を紐解いて確認しそうなものではないか。応劭註を師古註と誤るなどということは、どうしておこったのか。『康煕字典』ではない。誤りのもととなった書物を突き止めれば、『素問識』成書の秘密にまた一歩近づけそうなんだが。(以前、井上雅文先生から、『素問識』はすごいけれど、『康煕字典』が有ればかなりのところまではできる、神業というほどのことではないらしい、と聞いた。伊沢棠軒『素問釈義』は幕末の戦に従軍中に書かれた。どうしてそんなことができたのか。実は『素問識』と『素問紹識』が有れば、その他の資料は行李一つにも入ったかも知れない。別に牛に負わせて汗をかかせるには及ばない。)
またあるいは、陰陽離合論の「陰摶陽別謂之有子」の条、『素問考』に桂山曰と有りながら、『素問記聞』に無いのは、『素問記聞』が『素問考』から出る確証といわれるが、何のことやらさっぱり合点がいかない。『素問考』は上に類註を引いたから、ここからは張介賓の考えではなく多紀元簡の説と、はっきりさせたいから「桂山曰」を途中に必要としただけのこと。紛れそうにないところでは、ほとんど誰の按語であるかは記すことはない。上古天真論「分別四時」の按語でも、『素問記聞』はわざわざ桂山曰などとはしない。無くともわかるはず。
『素問記聞』も『素問考』も、同系のノートを元にしていると仮定して、どちらがより後期のものに拠っているかははっきりしない。ただ、『素問考』には汚れか剥落の痕を模写したと思しい箇所が有る。陰陽応象大論「九竅為水注之気」の条に、『外台』十六引刪繁論に云うとして「九竅為水注之○気」とある。『素問記聞』ではキチンと「九竅為水注之於気」になっているから、『素問考』抄写の対象となる講義ノートのほうがより後期のもの(汚れてしまってからのもの、あるいは墨で塗りつぶされた後のもの)だからと考えられる。もし、『素問考』のほうが、多紀元簡の講義ノートの源であったと仮定すれば、『素問考』の集め手と書き手は別人(つまり書き手は鼇城公観ではない)で、しかも現存のものは、汚れてしまった後のものからの書き写しということになりはせぬか。鼇城公観とその弟子もしくは朋輩によるサークルのごときものの存在が必要になりはせぬか。もしそうだとしたら、鼇城公観の周囲にも、そこそこ事情を知る人がいたはずで、しかも江戸の学界には半世紀もの間、誰もその書物の存在を知るものがなかった、ひょっこり「偉大な先学の為事」として出てきた、というのは異様ではないか。
喜多村直寛の酷評
どうも学界は、多紀元簡に対して厳しすぎるように思う。これには、喜多村直寛の言い分からくる悪印象の影響が有るのだろう。『黄帝内経素問講義』の跋文の中に、多紀元簡の『素問識』は偉大な著作には違いないが、先人の為事を剽窃したところが有ると批判されている。すなわち目黒道琢に十の七を、稲葉通達に十の二を負うている、その他にも芳邨恂益などというのもいる。こんなことを言われるのは、多紀元簡の身から出た錆(他にも人格に問題が有るとする評判が残っている)でもあろうが、いささか酷に過ぎるとも思える。『素問識』の業績のほとんどが、目黒道琢や稲葉通達に由来する、明記しないのはけしからんと言うのであれば、どうして『黄帝内経素問講義』に、「劉(多紀元簡のこと、多紀氏は後漢霊帝の後裔を称している)云」が多いのか。とても十に一どころではない。喜多村直寛の主張するところに叶うには、おおもとを確かめて、片端から「驪(目黒道琢のこと)云」や「稲(稲葉通達のこと)云」に改めるべきだったのではないのか。我々としては、平心につとめ、初めから色眼鏡で見るのは控えるべきだろう。
校正本の粗忽
名高い多紀元簡の為事にだって、それは粗忽は有るだろう。例えば、『素問記聞』も『素問考』も、張志聡を張思聡と書き間違えるのは共通している。こういうのは多紀元簡のノートにすでにあったことかもしれない。
藍泉斎蔵書にだって粗忽は有る。前言に取り上げられていることのいくつかは勇み足である。例えば『素問記聞』の抄者のレベルをあげつらって、「侖」は「訛字である、当に論に作るべし」というのには同意しがたい。なるほど見慣れない文字ではあるが、これは古字もしくは略字というべきものである。『漢語大字典』にも、「侖」は「論」と同じとちゃんと載っている。
この他にもいろいろなことを言われているが、藍泉斎蔵書自体それほどの精校とはいえないし、継承関係の証拠とされるものもさして確かとは思えない。かつて、『霊枢識』が『素問識』より劣るのは、『素問考』に相当するものが無かったからだと言われたことも有るが、それは主観的な感想であって、論拠には為しがたい。藍泉斎蔵書には、さすがにこんなのは載せてはいない。
はっきりしているのはそっくりということ。どちらがどちらを剽窃したかを確言できる証拠は、未だ見つからない。だから、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観の為事を奪ったなどと、誹謗し、常識を逆転させるに足るだけの証拠は無い、と無名な粗忽者が有名な学者に抵抗するだけのことである。
鼇城は稲葉氏の居城
ただ、教授の、鼇城公観のほうが先輩であるという意見を、後押ししかねない些細な情報なら、実は一つ見つけてある。
「鼇城公観 後改姓名為金窪七朗」とあるのを、七朗の字は公観、号は鼇城と解するのには疑問が有る。当たり前なら、鼇城という姓を金窪に、公観という名を七朗に改めたという意味の注記だろう。
確かに鼇城というのは日本人の苗字(姓と氏と苗字の違い、などというややこしい話は省く)としては異様であるが、豊後臼杵の城の異名に亀城というのがある。さらに巨きな神話的な亀ということで、鼇城という場合もあった。出身地を苗字代わりとするのは、むしろ伝統的である。してみると、豊後臼杵の(藩主)稲葉氏の出のものが、鼇城という戯れの苗字を称する可能性はある。(亀城という異名を持つ城は、全国にいくつも有るが、確かに鼇城と呼ばれたものは、他には知らない。)思い起こせば、『素問研』の稲葉通達は、豊後臼杵の人らしい。確かに稲葉氏の通字の「通」を用いている。稲葉通達の係累が、稲葉の一族とあからさまに名乗っては拙い場面で、鼇城公観と戯称するのはそう突飛、不可思議ではない。医家としての稲葉一族の端くれであれば、家学の発露としての『素問考』を集する能力くらいは期待できそうである。得体の知れない者が、得体の知れない学識者でありうるのかという疑問は払拭できる。
あるいはまた、鼇城というのは署名における、ひそかな矜恃の表現に過ぎなかったかも知れない。それで、誰にも存在を知られなかった。時がたってさすがに鼇城公観という異様な名では通らなくなって、金窪七朗となった。あるいは世間にはもともとそう称していたのかも知れない。稲葉氏を名乗らなかったのは、そちらの方面にもはばかるところが有って、母方の氏でも採ったのかも知れない。ただ、そもそも金窪某としても、受講生仲間に記憶されるほどの存在ではなかったらしい。
だから、結局のところ鼇城公観とは何者か、よくわからない。桂山先生の聴講生中のオッチョコチョイか、あるいは稲葉通達の係累のはぐれものか。
(2014年1月12日 日本内経医学会 新年研究発表会)
『季刊内経』No.194 に公開済み
☞『内経』No.55 『素問考』について
2018年1月21日 星期日
『太素』の人迎脈口診
なぜ人迎脈口診が気にかかるのか
なんだかうしろめたさがつきまとうから。『霊枢』は人迎脈口診というけれど、そして、『素問』は三部九候診というけれど、周囲を見渡しても、そんな脈診をやっているのは、いない。古典を宣揚しておきながらこれでは、それはまあ、うしろめたい。
もともとの三部九候診はすでに変質してしまって、通行本の『素問』にはない①。『霊枢』は、その根本理念からすれば、「五蔵に疾有れば、応は十二原に出る」の原穴診でいいはずなのに、人迎脈口診が導入された。
導入するには、それだけの必要があったのだとしても、『霊枢』経脈篇のものを標準として考えたのでは、間違いの素ではないか。経脈の連環には流注と病症があり、それは馬王堆の陰陽十一脈を祖型としているとして、治法とカンジンの脈診はどこからきたのか。『霊枢』禁服篇あたりからかと思われるが、そんなところから持ってくるべきではなかったろうし、持ってきかたも拙かった。経脈篇にとっては余計な付けたしであり、また、その人迎脈口診そのものが、おそらくは失敗作にすぎない。
もう少しマシな人迎脈口診はないものか
『太素』巻14の診候之一に、ずばり人迎脈口診という篇がある。
L48禁服(人迎/寸口)
L49五色(人迎/脈口)
L05根結(脈口)
S11五蔵別論(気口)
L09終始(人迎/脈口)(一部はS09六節蔵象論に類文)
S46病能論(人迎)
L74論疾診尺(人迎/寸口)②
『霊枢』を経典として尊重するのなら、これらの人迎寸口診のすべてを総合し採用すべきなのか。そんなことはなかろう。無理だし、ただ混乱を招くだけ。そもそも最初に、人迎脈口診なんてやっているものはないと、貶したのだし、経脈篇の人迎寸口診は、失敗作ではないかと、疑ったのであるから、むしろ『霊枢』の中に「本来の人迎脈口診」を探し求めるべきである。『素問』『霊枢』の中に完成されたものの如く記述される、言い換えれば行き詰まった方式に、拘ることはない。
『霊枢』禁服篇の人迎寸口診
経脈篇の人迎寸口診が禁服篇から持ってこられたとすると、禁服篇のもののほうが、まだしも発想の原点に近いことになる。もっとも、ここには実は二つの異なった脈診法がある。
一つは、人迎と寸口の脈動を比較して病処を判断する。「人迎大なること寸口より一倍なれば、病は足少陽に在り、一倍にして躁なれば、手少陽に在り」などと、陽を診る人迎と、陰を診る寸口の、どちらが何倍大きいかで、病が三陰三陽のどこに在るかを割り出す。
もう一つは、外を人迎に、中を寸口に分担させて、脈状によって病状を判断する。
人迎(外 寒)
|
寸口(中 食)
|
|
盛
|
熱
|
脹満,寒中,食不化
|
虚
|
寒
|
熱中,出縻,少気,溺色変
|
緊
|
痛痺
|
痺
|
代
|
乍甚乍間
|
乍痛乍止
|
人迎が盛んなのは、身内に陽気が盛んなのであって、したがって熱を病む。人迎が虚しているのは、身内の陽気が虚しているのであって、したがって寒を病む。寸口が盛んなのは、身内に陰気が盛んなのであって、したがって腸胃が冷えて、脹満し、食物が化さない。寸口が虚しているのは、身内の陰気が虚しているのであって、(それに陽気が乗じるから)したがって腸胃が熱して、便は粥状になり、気が乏しく、溺も色を変ずる。緊と代は、痛痺あるいは痺と乍甚乍間あるいは乍痛乍止で同じようなものだろうが、治法に微妙な違いがあるようだから、病症の実際にもいささかの差はあるのかもしれない。ただし、治法の記述には文字の疑問(衍?奪?)が多くて、どうにも解釈に自信がもてない。人迎(主外)の代になぜ飲薬なのか、なぜ寸口(主内)の緊にだけ施灸なのか。さらには、後文に「大数」といい、その内容も前文と微妙に異なるのか。そもそも、ここの病症と治法も、出自が異なるのではないか。なににせよ、治法は脈状に拠って判断した病状に対するもので、病処を判断する脈診とセットにして、L10経脈篇に持っていくべきものではなかった。
『霊枢』五色篇に与後をいう
脈口と人迎の脈状を診て病状を判断することは、五色篇にもあって、予後の見立てをいう。
脈(右)
|
人(左)
|
||||
滑小緊沈
|
病益甚
|
在中
|
気大緊浮
|
病益甚
|
在外
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滑 浮
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病日損③
|
滑 沈
|
病日損
|
||
滑 沈
|
病日進
|
在内
|
滑盛 浮
|
病日進
|
在外
|
脈の滑は新病か、そうでなくともまだまだ病勢は盛んであることを意味する④。それでも、脈口が浮、人迎が沈となれば、病は日に日に衰えるだろう。脈口が沈、人迎が浮となっては、ますますひどくなる。
次いで病因の大略として、気口(『太素』は脈口)の盛堅は食に傷なわれたのであり、人迎の盛堅は寒に傷なわれたのである。これはむしろ禁服篇の、寸口が中を主り、人迎が外を主るというはなしと呼応する。中から食に傷なわれると、腸胃が冷える。外から寒に傷なわれると、発熱する。もともと、診るのは、食なり寒なりに傷なわれての、その結果として身体の内に、何が起こっているかである。あたりまえのはなしだが、人迎が外を主るといっても、脈にふれることで、外界の気象を知ろうとするのではない。
脈診でわかることは、もともと病処(どこに)ではなく、病状(どんな)である。そうはいっても、他に方法、器具がないのであれば、病処も脈診で知りたい。
『霊枢』終始篇で「どこで」を診る
人迎で陽の量、脈口で陰の量を診て、その程度に拠って病処の三陰三陽を割り出そうとするのは、陰陽学説を利用した新たな工夫としては評価できる。それにしても、終始篇に見えるもののほうがより古いと思われる⑤。「人迎が一盛であれば。病は足少陽に在り、一盛にして躁であれば、病は手の少陽に在り」という。別に人迎と脈口を比較、検討するわけではない⑥。平常時との違いを感じ取る。
類文が、S09六節蔵象論にも見える。同じような人迎脈口診が、『素問』『霊枢』の双方にあるわけで、結局、これが(「どこで」を診る)古来の方法(工夫)ではなかったか。
脈口だけ診ていても人迎脈口診か
『霊枢』根結篇の、脈口を持して、何十動かに一代すれば、五蔵のうちいくつかに気が無いと判断するのは、人迎は診ないのに、『太素』の人迎脈口診に在る。なぜか。おそらくは、診者は人迎脈口診をやっているつもりなのであろう。ただ、今、問題にしているのは中(五蔵の気)であるから、中を主る脈口を診る。人迎はひとまず棚上げになる。別に否定し廃止したつもりはない。
変は気口に見れる
『素問』では五蔵別論にみえる「気口何以て独り五蔵の為に気を主るか」云々も、気口だけしか登場しないのに、『太素』の人迎脈口診に在る。これが一番わからない。
「凡そ病を治するには、必ずその上下を察す」とある上と下とを、楊上善は説明なしに人迎と寸口とする(上は人迎を察し、下は寸口を診る)。しかし、経文に人迎という詞は出ないのだから、にわかには同意しがたい。
上下で察する気を、口から入って胃に蔵される気と、鼻から入って心肺に蔵される気であるとすれば、飲食の気は足の太陰の気口で、呼吸の気は手の太陰の気口で診るのかもしれない。わかりやすいような気もするが、手足の太陰の気口を診て、それを人迎気口診というのは、いかになんでも無理ではないか。
窮余の一案として、あるいは胃に蔵された気については、「胃脈の気口としての人迎穴」を診るというつもりなのかもしれない。確かに、脈の端の拍動処を、気の発する口=気口と呼ぶことも、その詞の原義からすれば不可能ではないだろう。結句、楊上善の説でいいのかもしれない。
人迎だけを診る
逆に、『素問』病能論の胃脘癰の診には、人迎だけしか登場しないのに、これも『太素』の人迎脈口診に在る。
楊上善のつもりとしては、胃脘癰であれば胃脈を得て、この胃脈とは寸口の脈のことであって、その脈状は沈細であり、下の寸口が沈細であれば、気が逆している、逆していれば、上の胃脈すなわち人迎の脈は甚だ盛んとなり、それは熱が胃口に聚っているということだから、つまり胃脘の癰である、ということらしい。しかし、経文に「人迎は胃脈なり」といいながら、注文に「胃脈を得るとは、寸口の脈なり」はおかしいだろう。多紀元簡の『素問識』にも、楊上善の説は否定されている。
そこで、清の尤怡『医学読書記』(多紀元堅『素問紹識』に引く)には、沈細である胃脈を足の趺陽とする。趺は足の甲、衝陽穴である。つまり、胃脈とは足陽明の脈であり、その下の趺陽と上の人迎を診る。あるいは、そうかもしれない。
副次的にわかったこととして、妙な脈診が『太素』の人迎脈口診という篇に在って、楊上善は解釈に苦労している。これから推せば、前からあった『太素』に対して、辻褄合わせの注を施したことになる。楊上善が『太素』を撰して注したのではない。ただし、楊上善は経文に人迎、脈口が登場しない箇所で、しばしば注に人迎、脈口を持ち出す。当時、実際に診るのは脈口に限られるようになりつつも、人迎と対であるという意識も相当に根強かったらしい。
人迎の脈を診ていても、必ずしも人迎脈口診というわけではない。『太素』巻19脹論(L57水脹)に「水(水湿痰飲の類)の始めて起るや、目果の上微かに癰し、臥して新たに起きるの状の如し、頚脈動じ、時に欬し、陰股の間寒え、足脛癰し、腹乃ち大なるは、其の水已に成るなり」とあり、楊上善の注に、頚脈とは「足陽明人迎の脈」という。他に『太素』巻15尺寸診(S18平人気象論)にも「頚脈動疾喘欬は水と曰う」とある。特定の病症を診るべき特定の脈処という知識は集積されつつあった。ここでは頚脈の動なら、水という病症である。いわゆる人迎脈口診とは関わらない。本当は、頚の人迎で胃脘癰を診るのだって、同じことではなかったかと思う。
人迎と寸口の大小浮沈が等しい
『太素』の人迎脈口診の篇末の一段(L74論疾診尺)には、病んでいるのに寸口と人迎の脈の大小および浮沈が等しいものは、已え難いという。脈状は四時に応じて変化すべきであり、人迎と寸口では応じかたも異なる。同じになるはずがないものが同じだとしたら、事態はより深刻である。それに、病んでいるとは陰陽バランスが崩れているということであり、治療とはその回復をはかることのはずなのに、そのバランスに崩れがみえないとあっては、調整の方針もたたない。
これで『太素』の人迎脈口診という篇を構成する文章の、そこに在るべき理由の穿鑿は一応終わった。ただし、実のところ、何故そこに在るのかわからない断片はまだまだ残っている。『太素』の編撰は基本的には鋏と糊である。人迎脈口診を説いているとみられた文章を集めてくるのに、ついてきてしまっただけというものも多いのではないかと思う。
左人迎 右気口
普段は、独り気口を取って、中のことだけを気にすればよいとして、特に外をも探りたければどうするか。やはり頚の人迎脈を診るべきなのか、それとも左の腕関節部で代用できるのか。
ダメだという意見としては、『太素』巻09脈行同異の楊上善注に、人迎、寸口は、黄帝の正経(『素問』『霊枢』)にきちんと上下といってあるのに、近ごろの人は憑りどころもなく、かってに左右に持ってこようとする、と嘆いている⑦。
しかし、左右の脈には違いがあって、そのどちらがより敏感に外界と相い応ずるかを、考えていた可能性は有る。『太素』巻16雑診(『素問』では病能論だが、『太素』の文字のほうがわかりやすい)に、黄帝が、右の脈を診たら沈、左の脈はそうではなかった、病主はどこに在るのかと問うて、岐伯は、冬に診たのであれば、右の脈が沈で緊なのは当然のことであって、これは四時に応じているわけだが、左の脈が浮いて遅いのは、四時に逆している云々と答えている。おそらくは、右脈は、気象のより大きなサイクルに応じていて、寒いはずの季節なのに、妙に温かくて反ってそれに傷なわれたなどというときは、その応は先ず左脈に診える。未だ正解を得たという自信はないが、左人迎、右気口もあながち無理では無いのかもしれないとは思う。
『史記』倉公伝に付録する診籍にも、斉郎中令循、斉中尉潘満如、済北王侍者韓女などの病に、脈の左右をいうが⑧、上下(人迎、脈口)の陰陽を左右に代行させて大丈夫かについて考えるには、やはり『素問』病能論のほうが適当であろう。うまくいけば、両手左右を以て人迎、寸口とするのにも、正経に憑るべきところがあると、なるかもしれない⑨。
結論として 人迎脈口診は 比較脈診ではない
比較しないで、どうして大小や浮沈がわかるのか、という人がいるかもしれない。しかし、ちょっと考えてみてほしい。例えば、電線に雀がとまつているとする。何羽かと問われたらどうするか。端から数える、というのが科学的な態度というものかもしれない。しかし、一目見て、直感的に答える態度、比較しないでも四羽や五羽は、勘でわかると主張する態度も、伝統医学というような世界においては、案外と貴重なのかもしれない。努力して、より多くを一目で把握できるように修行せよ、と(西洋の)魔法入門書にあった。
人迎脈口診は 脈状診である
『霊枢』編著者が、首篇で「五蔵に疾有るや、応は十二原に出る」と宣言しておきながら、人迎脈口診を導入したのは、かれ(原穴診)は「どこで」であり、これ(人迎脈口診)は「どんな」であるべき、ということなのかもしれない。人迎脈口診にとって「どこで」とは、分担した「中か外か」だけである。
①通行本の『素問』三部九候論で、診脈処をいう一段はもと篇末に在った。どうして「義不相接」な、そんなところに置かれたのか。後世の人が工夫して、書き加えたものだからではないか。そもそも,上部では現場の脈状で現場の病状を診るのに、中・下部では,本(ねもと)の脈状によって、標(こずえ)の病状を診る。これではチグハグではないか。
②脈口か、気口か、寸口か。どう違うのか、どれを標準とすべきか。よくわからないが、しいていえば、寸口はより新しく、かつ腕関節部に限定されるのだろう。この稿では原則として、話題にする篇での表現に拠る。
③脈口の滑浮は、『霊枢』では病日進だが、『太素』は病日損。劉衡如は拠って改めるべきだといい、柳長華主編の精校叢書は改めている。
④類似の文(滑だと病が日に進む)が、L19四時気に「気口人迎を持して以てその脈の堅、かつ盛かつ滑を視れば病は日に進み、脈の軟なるは病将に下る」とあるが、『太素』では巻23雑刺に置く。明らかに「持気口人迎」というのに、なぜ人迎脈口診と名付けた篇に取り込まなかったのかはわからない。
⑤もっとも、より古いといっても、利用された陰陽学説はすでにかなり成熟している。例えば、陽明と太陽の、どちらの陽がより盛んであるかも、すでに解決ずみである。
⑥そうでなければ、脈口と人迎と倶に少とか、俱に三倍、四倍以上とは表現しえないはず。もともと、脈口と人迎のどちらが大きいかという問いは、ナンセンスだったおそれもある。清の何夢瑤『医碥』に、「人迎の脈は、恒に両手寸口の脈より大なること数倍、もとより寸口の反って人迎より大なるもの無し」という。
⑦これを教えてくれたのは、原塾の初めのころの井上雅文先生。「だって使えるんだからしかたがない」と笑ってみえた。
⑧五蔵を、左右の手首に配当するらしい。むしろ三部九候診の系統か。
⑨ただ、つらつら考えるに、人迎脈口診には、何らかの意味で上下を取るという一面がありそうである。最も代表的なものは無論のこと頚と腕だろうが、頚と足甲もありそうに思う。腕と踝の関係だってわからない。もともと、本の脈状によって、標の病状を診るということがあったはずである。それが原穴は五蔵の診断兼治療点であるという方向にまとまっていくのと同様に、標は人迎に、本は脈口に代表させるという方向にも整理はすすんだのではないか。左右に持ってきたのでは、上下の関係の重視という路線からは逸脱になる。
2018年1月12日 星期五
2017年11月16日 星期四
比較しない脈診
……十一ないし十二の脈の一つ一つには、「動脈」と呼ばれる搏動部がある。ある脈の状態を計測するうえで最もシンプルで確実な方法は、この一つ一つに触れてみることだろう。十二経脈脈診(『足臂経』と『陰陽経』の場合は、十一経脈脈診法)とはこうした脈診法である。しかし、この脈診法は確実だが煩瑣なうえ、十二脈すべてを比較するとなると現実にはかなり困難であったため、より簡略な方法にその座を奪われたらしく、医経(『素問』などの医学の経典)のうちにはわずかな痕跡を残すだけである。……(『中国医学思想史』)なんで「十二経すべて」を気にするのか。医学のまなざしを保持しているほどのものであれば,おおよその雰囲気は,触れる前に,つかんでいるのじゃないか。疑わしい幾経かに触れてみれば十分だろうに。
なんで「比較」しようとするのか,何と「比較」しろというのか。触れたその動脈自体に違和感を覚えれば,それに素直に対応すればよかろうじゃないか。
結局,意外とシステマチックな,明快な医学を考えているのと違うか。
2017年11月12日 星期日
『内経』の鬼神について
『外経』第九号 1992年8月23日発行
日本内経医学会 夏季合宿 に於いて
日本内経医学会 夏季合宿 に於いて
夏に相応しく幽霊の話をしよう。漢語では幽霊のことを「鬼」と言う。『説文・九下』には「人の帰するところを鬼と為す。儿に从い甶は鬼頭に象り厶に从う。鬼は陰気賊害す,故に厶に从う」とある。白川静は「鬼はもと人屍の風化したものを称する語であろう」と言い,鬼神の鬼には示に从い,その手に祝祷の器である口を加えたものが有ると言う。つまり幽霊をお祭りするのである。また,『説文・一上』には「神は天神なり,万物を引き出すものなり。示に从い申の声」というが,白川静は「神」の初文が「申」であり,「電光が斜めに屈折して走る形で,神威のあらわれるところ」と言い,幽霊に対する自然神であると言う。後に祖霊が昇天して上帝の左右に在ると考えられるようになってからは,「神」に祖霊をも含むようになった。つまり,上等な幽霊はまた「神」とも言う。合わせて「鬼神」と言う。
『内経』には,鬼神が五次出現する。即ち:
拘於鬼神者,不可与言至徳。(『素問・五蔵別論』)『素問・宝命全形論』に,「末世の刺法」は,ただ虚するものを補(実)い,実(満)するものを瀉(泄)すという当たり前のことしかしないと罵っているが,だからと言って「鬼神」に縋れと言う訳ではない。天地に法則し,その変化に随って針を施せば,響きの声に応ずるが如く,影の形に随うが如き療効が得られる。「何も神秘なことが在るわけではなく,独自の境地に到達する」ことが出来るのである。
道無鬼神,独来独往。(『素問・宝命全形論』)
狂者多食,善見鬼神,善笑而不発于外。(『霊枢・癲狂』)
唯有因鬼神之事乎。(『霊枢・賊風』)
其所従来者微,視之不見,聴而不聞,故似鬼神。(同上)
『霊枢・賊風』では,黄帝の「その邪気に遇うことなく,また怵惕の志なくして,卒然として病む者は,その故は何ぞや?これ鬼神の事に因る有るか?」つまり「祟り」ではないかという疑問に対して,岐伯は,これも邪が留まって未だ発しない時に,情志に悪むところ,あるいは慕うところが有って,血気が乱れたことに,有発されたのであって,「その従来するところは微にして,これを視れども見えず,聴けども聞こえず,故に鬼神に似る」に過ぎないと答えている。また,こうしたものを祝由して治すことが有るのも。古代の巫は元々病の相互の克制を知っており,病の発生した原因を理解してアドバイスするからなのであって,ただ闇雲に「鬼神」に縋り,お祈りすれば良いというものではない。
『霊枢・癲狂』に「多く食し,善く鬼神を見,善く笑う」狂人が出てくる。巫女を頼んで,御祓でもしてもらえば良さそうなものなのに,先ず足の太陰、太陽、陽明を取り,後に手の太陰、太陽、陽明を取れと,指示している。
思うに,中国超古代に於いても,医と巫は共通する処が多い存在であったであろう。だから,「巫」に従う異体字「毉」が有る。しかし,戦国の諸子百家争鳴の時期を経て,医学が大いに発展し,『内経』の成書を準備する頃には,既に医学の巫術からの独立が行われていたと思われる。『五蔵別論』の「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」は,その宣言である。
『史記・扁鵲倉公列伝』には,「巫を信じ医を進ぜざるは,六の不治なり」の句が有る。篇首の部分に,長桑君に貰った薬を「上池の水」で飲んで,「垣の一方の人」が見えたりする話が載っているので,我々は扁鵲を神秘的な者と考えがちであるが,山田慶児の著『夜鳴く鳥』に紹介された『韓詩外伝』に於ける扁鵲の伝説は,これと少しイメージが違う。虢侯の世継ぎが急病で亡くなったので,扁鵲が治療を申し出る。
側仕えの庶子が出てきて,こういった。ここに見られる扁鵲の医術は,御祓でもお呪いでもない。『韓詩外伝』の著者の韓嬰は紀元前二世紀中葉の人であるが,この時代に既にこうした醒めた「名医」伝説も存在し得たのである。
「わたしの聞いたところでは,上古に弟父という医者がいました。弟父の治療のやりかたといえば,莞で席をつくり,蒭で狗をつくり,北を向いて呪文を唱え,十語ほど口にするだけです。抱きかかえられたり輿に乗ったりしてやってきたひとたちも,みな平復してもとの体にもどりました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
さらにいった。「わたしの聞いたところでは,中古に踰跗という医者がいました。踰跗の治療のやりかたといえば,木を磨いて脳をつくり,芷草で躯をつくり,孔に息を吹きかけると脳ができあがって,死者は甦りました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
張介賓は「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」の解説に,「巫を信じ医をぜざるは,六の不治なり,とは即ち此れをこれ謂う」と言い,『素問識』も『黄帝内経素問講義』も『素問攷注』も皆これを引く。古来,『素問』と『史記』のこれらの句は互いに補注を為すものと考えられていたと言うことであろう。
『移精変気論』に「惟だ精を移し気を変じ,祝由して已ゆべし」と言う。「祝由」という詞は,この篇に三次出現するのみである。『黄帝内経詞典』には「古代の符咒祈祷を用いて病を治す方法」と説明する。つまり,巫の領域である。『移精変気論』という篇名を怱卒に読んで,「病の原因を祈り説き伏せることにより,針石を用いること無く癒やせる」方法が書かれていると期待する者も有るが,実のところは「今時そんなものでは病気は治らない」と言うのである。この篇で強調しているのは,早期治療の重要性であり,色診、脈診、問診の重要性という医学として当たり前かつ至極まっとうなことが書かれているに過ぎない。
『湯液醪醴論』にも,上古には薬を作っても,飾っておくだけで実際に服用する必要は無かったなどという夢物語が書いてある。これにも実は「当今の世は,必ず毒薬を斉して其の中を攻め,鑱石,針艾もて其の外を治す」必要が有ると続けている。
ただ『霊枢・官能』に「疾毒言語人を軽んずる者は,唾癰呪病せしむ可し」と言う。「呪病」を『太素』は「祝病」に作る。これから見れば「祝由」もまた『内経』医学の一部ではあるかも知れぬ。とは言え,もとより中心では有り得ない。
さて『移精変気論』に,上古は「此れ恬憺の世,邪深く入ること能わざるなり」と言い,『湯液醪醴論』には,暮世には「精神進まず,志意治まらず」と言う。ここから『上古天真論』の「恬憺虚無なれば,真気これに従い,精神内に守る、病安んぞ従い来たらんや」が導き出される。
『内経』には幾篇かの養生に関するものが有るが,『類経』では一巻を摂生類とし,『素問』の『上古天真論』『四気調神大論』を収め,現代中国の高等医薬院校教材『内経講義』の養生の項は『上古天真論』『四気調神大論』から採る。『内経』中の養生文献の代表をこの二篇として良いだろう。この二篇を全元起本『素問』では末巻に置く。この点に関しては,喜多村直寛の評「夫れ神仙不死の説は,実に医家の謂う可きに非ず。然して漢世方術本草を以て並び称するときは,則ち道流の言,或いは相い混じて我が医の一端と為る。是を以て前人取りてこれを内経中に編ず。猶お本草は薬性攻効を論ずるの書にして,軽身延年を以てこれに附すがごとし。果たして旧本の如く,却けて末巻に在るときは,則ち固より全璧に害無きなり。今王氏乃ち此れを以て諸篇の端に掲げるときは,殆ど冠履転倒し,薫蕕相い反し,特に尊経の意を失す」が概ね妥当なところであろう。
『内経』の原型の成立を戦国時代の末とし,それは「医の巫からの独立宣言書」としての性質を持つと考える。ところが,ほぼ同時期には神仙説も起こっている。斉の威王、宣王,燕の昭王,秦の始皇帝,漢の武帝などが,その中心である。恐らく,神仙説は先ず諸侯とか黄帝といった高い地位にある人々,即ち栄耀栄華をつくし快楽を満喫している者たちが,何時までもそれを続けたいと望むところに付けいったと思われる。それから次第に一般の人達に広まっていった。西漢は,武帝の膨張政策の破綻による政治の乱れ,外戚や豪族の勢力争いを経て,䜟緯説を利用した王莽の簒奪によって終わる。東漢を興した光武帝も,䜟緯説を愛好し利用している。当時の神秘嗜好の風潮が伺われる。東漢には『論衡』の王充の様に神仙説的な養生術を批判した者も有るが,これはあくまで異端であり,一般的風潮は逆のものであった。東漢もやがて政治的混乱,村落共同体の崩壊を通して,社会不安を醸成すると,太平道とか五斗米道とかの「道教的宗教集団」を生む。その実体は治病であった様であるが,その内容は「符水」とかお呪いで,短期間に治った者を信仰が篤いと褒め,なかなか治らない者の不信心を責めるというのだから,医学としては堕落と言わざるを得ない。また南北朝の文人の間に於ける養生の流行には,我々の想像を越えたものが有る。これが『素問』の性格に影響を与えたことは間違い無い。(『素問』諸篇中には,南北朝の時期の作品も有るとされている。)更にまた現存の『素問』は唐の王冰の大規模な改定を経ている。唐代には道教が崇められていたし,王冰自身も道教の愛好家であった。王冰序では「故に動ずるときは則ち成る有り,猶お鬼神の幽賛するがごとし」と言って,「鬼神」を蔭ながら助けてくれる神秘的なものとして期待する様に成ってしまっている。
まとめると,戦国時代の「医の独立」を,民衆の神秘嗜好と養生の流行が変質させたものが今の『内経』であると考える。祝由は勿論のこと,養生や最近流行の「気功」が『内経』の本質に存在するかどうかは大いに疑問である。旧中国の読書人が『素問』を愛好したのも,昨今の西洋医,あるいは半可通が,神秘的なもの,あるいは割り切れないものとしての中国古代医学に憧れを抱くの,本当は的外れなのではあるまいか?
2017年3月9日 星期四
任脈は妊娠の脈?
督は,䐁と同音で,尾下竅の意が有りうる。つまり,督脈は後陰の脈かも知れない。
しからば,任脈は前陰の脈ではないか。『素問』骨空論王冰注に「繫廷孔者,謂窈漏近所謂前陰穴也」とある。任と妊と廷は声符が同じであり,また廷の異体には妊に酷似するものが有る。
しかしながら,督と同音の字に𧝴があり,「衣背縫」である。また,衣偏に任の袵という字もある。衽と同じで「衣服胸前交領部分」である。袵はえりで,正中線ではないかも知れないが,𧝴との対比からすれば,衣類の前後の真ん中に近い線には違いなかろう。
してみれば,任脈と督脈は,単に前後の正中を行く脈というに過ぎないのかも知れない。
しからば,任脈は前陰の脈ではないか。『素問』骨空論王冰注に「繫廷孔者,謂窈漏近所謂前陰穴也」とある。任と妊と廷は声符が同じであり,また廷の異体には妊に酷似するものが有る。
しかしながら,督と同音の字に𧝴があり,「衣背縫」である。また,衣偏に任の袵という字もある。衽と同じで「衣服胸前交領部分」である。袵はえりで,正中線ではないかも知れないが,𧝴との対比からすれば,衣類の前後の真ん中に近い線には違いなかろう。
してみれば,任脈と督脈は,単に前後の正中を行く脈というに過ぎないのかも知れない。
2017年3月4日 星期六
絡脈の色を診る
『霊枢』論疾診尺第七十四
診血脈者,多赤多熱,多青多痛。多黒為久痹,多赤多黒多青皆見者,寒熱。
張介賓曰:血脈者,言各部之絡脈也。
郭靄春語訳:診察絡脈,多赤色的多熱,多青色的多痛,多黒色的是久痹的病,如果多赤、多黒、多青三色都見的,就属于寒熱相兼的病。
黄龍祥『中国針灸学術史大綱』:釐清楚了“是动”病的来历,我们就很容易理解,为什么“十五络”、“十二经筋”等不见有“是动”病,而只有在十二经脈中纔有。就是因为它原本是四肢腕踝脈口(主要脈动处)的脈诊病候,因而它与下面所说的经脈“所生”病有本质的区别。相比而言,经脈的“是动”病,与络脈病候的意义很相近,经脈的“是动”病移植於脈口的脈诊病候;络脈病候也直接取自四肢部的脈诊病候,只不过前者主要诊脈之跳动(主要诊脈气),而后者诊脈之形色(主要诊脈血)而已。经脈的“是动”病直取脈口——“经脈穴”治之;络脈病候也独取脈出处或起始处络穴治之,二者如出一辙。
診血脈者,多赤多熱,多青多痛。多黒為久痹,多赤多黒多青皆見者,寒熱。
張介賓曰:血脈者,言各部之絡脈也。
郭靄春語訳:診察絡脈,多赤色的多熱,多青色的多痛,多黒色的是久痹的病,如果多赤、多黒、多青三色都見的,就属于寒熱相兼的病。
黄龍祥『中国針灸学術史大綱』:釐清楚了“是动”病的来历,我们就很容易理解,为什么“十五络”、“十二经筋”等不见有“是动”病,而只有在十二经脈中纔有。就是因为它原本是四肢腕踝脈口(主要脈动处)的脈诊病候,因而它与下面所说的经脈“所生”病有本质的区别。相比而言,经脈的“是动”病,与络脈病候的意义很相近,经脈的“是动”病移植於脈口的脈诊病候;络脈病候也直接取自四肢部的脈诊病候,只不过前者主要诊脈之跳动(主要诊脈气),而后者诊脈之形色(主要诊脈血)而已。经脈的“是动”病直取脈口——“经脈穴”治之;络脈病候也独取脈出处或起始处络穴治之,二者如出一辙。
2016年10月25日 星期二
現代中国針灸学
黄龍祥さんの『経脈理論還原与重構大綱』の「書名に関して」に:
……2013年ころから,「針灸は中国で誕生して,西方で生長した」という議論が段々と国内に伝わって来て,国外の友人から度々わたしに質問が有る。針灸の定義は何か?針灸学の定義は何か?結局のところ「現代中国針灸学」というものは有るのか?前の二つの問題については,わたしも時に考えることが有った。ところが最後の鋭い問題については考えてみたことも無い。当時ただ黙々として自己に問うばかりであった。仮に「現代中国針灸学」なるものが真実存在するとして,わたしにそれと提示することができるだろうか?少なくとも針灸に従事する人が触れられようにできるだろうか?……と言うわけで,黄さんの書は三部作で,続いて『中国古典針灸学大綱』と『中国新針灸学大綱』が出版されるはずです。そして最後の一冊が究極の目的だろうと思います。
2016年10月2日 星期日
2016年9月28日 星期三
疾病
『論語』述而と子罕に「子疾病」とあり,日本の学者は,どちらも「子の疾,病たり」と訓み,おおむね「先生のヤマイが重くなった」と現代語訳している。そして,日本で「疾病」を単に「病気」「病気になる」の意味に使うのは,中国での本来の意味とはズレているのだそうな。確かに訓詁の書を紐解けば,古くは「重病曰病,軽病曰疾」ではあるだろうが,「(軽い)疾が(重い)病となる」などという句は信じ難い。孔子様だから特別の訓を用意したわけではあるまいし。現代中国語訳は,おおむね「孔子患了重病」である。つまり,単に「先生が重病になった」。ヤマイを患った,「病」という字も用いているのだから,それは重病なんだ,である。ついでに言えば,『素問』『霊枢』に「病が重くなる」と解すべき用例なんぞ無いと思う。
2016年9月9日 星期五
然暑汗脈少衰不死
齊中御府長信病,臣意入診其脈,告曰:「熱病氣也。然暑汗,脈少衰,不死。」曰:「此病得之當浴流水而寒甚,已則熱。」信曰:「唯,然!往冬時,爲王使於楚,至莒縣陽周水,而莒橋梁頗壞,信則擥車轅未欲渡也,馬驚,即墮,信身入水中,幾死,吏即來救信,出之水中,衣盡濡,有間而身寒,已熱如火,至今不可以見寒。」臣意即為之液湯火齊逐熱,一飲汗盡,再飲熱去,三飲病已。即使服藥,出入二十日,身無病者。所以知信之病者,切其脈時,并陰,脈法曰「熱病陰陽交者死」。切之不交,并陰。并陰者,脈順清而愈,其熱雖未盡,猶活也。腎氣有時間濁,在太陰脈口而希,是水氣也。腎固主水,故以此知之。失治一時,即轉為寒熱。この「熱病氣也然暑汗脈少衰不死」を,明治書院の新釈漢文大系91は,「熱病の気なり。然れども暑汗して,脈少しく衰ふも,死せず」としている。つまり,「脈が少し弱くなっていますが,死ぬことはありません」である。
岩波文庫『史記列伝』は,「七十巻のうち第四十五の「扁鵲倉公列伝」と第六十八の「亀策列伝」のみを省略した。前者は医学の記述,後者は亀卜の方法について,私ども訳者の学力甚だ浅く,正確に訳しうる自身がないからである」としている。
岩波文庫が賢明なのか,新釈漢文大系が勇敢なのか。
『脈経』巻七・第十八に次のようにある。
……熱病,已得汗,而脈尚躁盛此,陽脈之極也,死。其得汗而脈靜者,生也。当然,(汗をかいたおかげで)「脈が少し弱くなっていますから,死ぬことはありません」である。
熱病,脈尚躁盛,而不得汗者,此陽脈之極也,死。脈躁盛得汗者。生也。
熱病,已得汗,而脈尚躁,喘且復熱,切膚刺,喘甚者,死。
熱病,陰陽交者,死。
熱病,煩已而汗,脈當靜。……
2016年8月26日 星期五
呪術を問う
今の針灸治療師は,どうして針灸が効くのかを知らない。
効くために「どうして」が必要かと問われれば,微妙なところだろうが,やっぱり「何故だかわからんが」ではお呪いのごときもの。では,お呪いで治ったんではダメか。そりゃ何ででも治ったほうがいい。
お呪いはデタラメかというと,それもやっぱり違うと思う。しかるべく禹歩し,しかるべき符を焼き,しかるべき呪を唱える。呪術は科学の母だと思う。お祈りさえすれば何でも叶うという信仰とは違う。
ただ,しかるべき禹歩、符呪とは何か。「だって,老師がそう言ったんだもの!」
老師がなんと言ったにせよ,無駄は有る,誤謬も有るだろう。「本当なの?」と,自問する気苦労なやからも,少しはいたほうが好いと思う。
効くために「どうして」が必要かと問われれば,微妙なところだろうが,やっぱり「何故だかわからんが」ではお呪いのごときもの。では,お呪いで治ったんではダメか。そりゃ何ででも治ったほうがいい。
お呪いはデタラメかというと,それもやっぱり違うと思う。しかるべく禹歩し,しかるべき符を焼き,しかるべき呪を唱える。呪術は科学の母だと思う。お祈りさえすれば何でも叶うという信仰とは違う。
ただ,しかるべき禹歩、符呪とは何か。「だって,老師がそう言ったんだもの!」
老師がなんと言ったにせよ,無駄は有る,誤謬も有るだろう。「本当なの?」と,自問する気苦労なやからも,少しはいたほうが好いと思う。
2016年6月20日 星期一
筋瘻頸腫
『太素』卷13身度 經筋
手太陽之筋,起於小指之上,上結於捥,上循臂內廉,結於肘內兌骨之後,彈之應於小指之上①,上入結於腋下;
其支者,後走掖後廉,上繞肩甲,循頸出足太陽之筋前,結於耳後完骨;
其支者,入耳中;
其直者,出耳上,下結於顑②,上屬目外眥。
其病手小指支痛③,肘內兌骨後廉痛,循臂陰入腋下④,腋下痛,掖後廉痛,繞肩、肩甲⑤引頸而痛,應耳中鳴痛,引頷,目瞑,良久乃能⑥視。頸筋急則爲筋瘻頸腫,寒熱在頸者。
治在燔鍼却刺,以知爲數,以痛爲輸。⑦
其爲腫者,傷⑧而兌之。
其支者,上曲牙,循耳前屬目外眥,上額結於角。⑨
其病當所過者支轉筋。
治在燔鍼却刺,以知爲數,以痛爲輸,名曰仲夏痹。
【校異】
①彈之應於小指之上:筋の走行と直接に関わらない句を挟むの異例である。
②顑:『霊枢』は「頷」に作る。
③小指支痛:『霊枢』には「痛」字は無い。
④循臂陰入腋下:この走行の句は不必要。
⑤繞肩肩甲:『霊枢』は「繞肩胛」作る。
⑥能:『霊枢』は「得」に作る。
⑦この数句が二重に有るのは異例である。
⑧傷:『霊枢』は「復」に作り,『太素』楊注にも「傷,或爲復也」(銭教授の指摘に従う)と言う。
⑨再び筋の走行を述べるのは異例である。
下線を引いた部位名は,筋の走行と病症が(順序までも)きっちりと対応する。
例外の「頸筋急則爲筋瘻頸腫,寒熱在頸者,傷而兌之。」は,おそらくは出処を殊にする句なのだろう。
「傷而兌之」は,鑱針でも用いて膿を除くのだと思う。言わずもがなだが,兌は鋭に通じる。
手太陽之筋,起於小指之上,上結於捥,上循臂內廉,結於肘內兌骨之後,彈之應於小指之上①,上入結於腋下;
其支者,後走掖後廉,上繞肩甲,循頸出足太陽之筋前,結於耳後完骨;
其支者,入耳中;
其直者,出耳上,下結於顑②,上屬目外眥。
其病手小指支痛③,肘內兌骨後廉痛,循臂陰入腋下④,腋下痛,掖後廉痛,繞肩、肩甲⑤引頸而痛,應耳中鳴痛,引頷,目瞑,良久乃能⑥視。頸筋急則爲筋瘻頸腫,寒熱在頸者。
治在燔鍼却刺,以知爲數,以痛爲輸。⑦
其爲腫者,傷⑧而兌之。
其支者,上曲牙,循耳前屬目外眥,上額結於角。⑨
其病當所過者支轉筋。
治在燔鍼却刺,以知爲數,以痛爲輸,名曰仲夏痹。
【校異】
①彈之應於小指之上:筋の走行と直接に関わらない句を挟むの異例である。
②顑:『霊枢』は「頷」に作る。
③小指支痛:『霊枢』には「痛」字は無い。
④循臂陰入腋下:この走行の句は不必要。
⑤繞肩肩甲:『霊枢』は「繞肩胛」作る。
⑥能:『霊枢』は「得」に作る。
⑦この数句が二重に有るのは異例である。
⑧傷:『霊枢』は「復」に作り,『太素』楊注にも「傷,或爲復也」(銭教授の指摘に従う)と言う。
⑨再び筋の走行を述べるのは異例である。
下線を引いた部位名は,筋の走行と病症が(順序までも)きっちりと対応する。
例外の「頸筋急則爲筋瘻頸腫,寒熱在頸者,傷而兌之。」は,おそらくは出処を殊にする句なのだろう。
「傷而兌之」は,鑱針でも用いて膿を除くのだと思う。言わずもがなだが,兌は鋭に通じる。
2016年2月19日 星期五
臨床的に……
古典を読むということには,少なくとも三つの段階が有る。
先ず字句の誤りを正し,詞義の辨別をしなければならない。
次いで原著者は,何を経験し,何を伝えようとしているのかを,読み解く必要が有る。
その上で,原著者は自分の経験をこう表現しているが,現代人の目からすれば本当はこうじゃないかと,言い換える必要が有るかも知れない。
本当にそうなのか,実証を試みるのは,さらにその後である。
例えば「虚すればその母を補う」,話を単純化するために,五蔵の虚証と判じて,その名を冠した経をとり,さらに五行の相生関係に拠って母の経も取る,とする。五行説の信奉者はそれでいいだろうが,現代の科学者はこの説明で満足できるのか。
取る経の組み合わせは:
心虚:手少陰(火)と足厥陰(土)
肺虚:手太陰(金)と足太陰(土)
脾虚:足太陰(土)と手少陰(火)
肝虚:足厥陰(木)と足少陰(水)
腎虚:足少陰(水)と手太陰(金)
心虚は治療の対象にならないことになっているけれど,まあ理屈の話ですから。
で,肝虚以外は手足の組み合わせになっている。すると肝虚も,例えば手足の同名経を取ってみたらどうか。つまり手足の厥陰を取る。それってつまり,現今の心虚は無いよ,心包虚なら有るよ,の組み合わせだよね。そこで,肝虚は,心包虚として治療したほうが効くのと違うか。
な~んてところまで踏み込まないと,古典から臨床へという,「科学的な」研究にはならないのと違うか。
手足の同名経の組み合わせと,いっそ前後(太陰―少陰)の組み合わせ。手少陰と足少陰という組み合わせも有りうるんじゃないか。あるいは手少陰と足厥陰という組み合わせがダメなんじゃないか。
手太陰← →足太陰
↖ ↗
手厥陰← →足厥陰
↙ ↘
手少陰← →足少陰
先ず字句の誤りを正し,詞義の辨別をしなければならない。
次いで原著者は,何を経験し,何を伝えようとしているのかを,読み解く必要が有る。
その上で,原著者は自分の経験をこう表現しているが,現代人の目からすれば本当はこうじゃないかと,言い換える必要が有るかも知れない。
本当にそうなのか,実証を試みるのは,さらにその後である。
例えば「虚すればその母を補う」,話を単純化するために,五蔵の虚証と判じて,その名を冠した経をとり,さらに五行の相生関係に拠って母の経も取る,とする。五行説の信奉者はそれでいいだろうが,現代の科学者はこの説明で満足できるのか。
取る経の組み合わせは:
心虚:手少陰(火)と足厥陰(土)
肺虚:手太陰(金)と足太陰(土)
脾虚:足太陰(土)と手少陰(火)
肝虚:足厥陰(木)と足少陰(水)
腎虚:足少陰(水)と手太陰(金)
心虚は治療の対象にならないことになっているけれど,まあ理屈の話ですから。
で,肝虚以外は手足の組み合わせになっている。すると肝虚も,例えば手足の同名経を取ってみたらどうか。つまり手足の厥陰を取る。それってつまり,現今の心虚は無いよ,心包虚なら有るよ,の組み合わせだよね。そこで,肝虚は,心包虚として治療したほうが効くのと違うか。
な~んてところまで踏み込まないと,古典から臨床へという,「科学的な」研究にはならないのと違うか。
手足の同名経の組み合わせと,いっそ前後(太陰―少陰)の組み合わせ。手少陰と足少陰という組み合わせも有りうるんじゃないか。あるいは手少陰と足厥陰という組み合わせがダメなんじゃないか。
手太陰← →足太陰
↖ ↗
手厥陰← →足厥陰
↙ ↘
手少陰← →足少陰
2015年9月16日 星期三
淳于意の生涯のあらまし
『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝記の中で異例に長いものだと言う人があるが,本当にそうなのか?
そんなことはない。
倉公が活躍した年代と,司馬遷の『史記』編纂はそれほど時を隔ててない。したがって,その内容は信頼性が高かろうと期待される。しかしながら,実際にはかなり混乱した記述も有って,古来,読者を困惑させてきた。伝記本文と詔問・応対との齟齬が解結すれば,倉公・淳于意という人物が存在していた意義がより明らかになると信じる。以下に説明を試みる。
斉の太倉長であった。どの程度の身分なのかは分からない。ただ,緹縈の上書に「妾の父は吏と為って,斉中にその廉平を称された」というのだから,そこそこの身分ではあったと思われる。ではどの斉王のときの太倉長なのか?悼恵王肥(高祖六年~恵帝六年)から哀王襄(~文帝元年),さらに文王則(~文帝十五年)まで,一応はいずれも可能であろう。しかし,淳于意の年齢からして,悼恵王の下での重職はいささか難しかろう。文帝の十六年に初めて立った斉王(もとの陽虚侯将閭,後に呉楚七国の乱に際して自殺して,孝王と諡される)の太倉長が,詔対の時にはすでに「故太倉長」というのは,なおさら難しかろう。
臨菑の人で,姓は淳于氏,名は意である。これは『史記』の標準的な書き方である。例えば,扁鵲の伝にも「勃海郡鄭人也,姓秦氏,名越人」と言う。淳于意という氏名にまちがいはなかろうが,臨菑の人であるとは,問対では明言してない。淳于氏は,春秋の頃に山東地方にあった小国の名と関わる。臨菑の東南東に菑川があり,陽慶より前に師事した公孫光は,菑川の人である。そう遠くはないが,淳于は菑川のさらに東南東にあたる。臨菑の人であったかも知れないし,そうでないかも知れない。有名な先人に、先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠,さらには秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越がいる。すでに発祥の地に留まっている時代ではない。
わかいころから医術に関心があり,高后八年から,臨菑の公乗陽慶に師事したというのは,問対と齟齬しない。「更」とあるから,少なくとも陽慶が最初の師匠というわけでない。問対を調べれば,より詳しいことがわかる。最初は郷里の人に学んだのだろう。問対の初めには「意少時喜醫藥,醫藥方,試之多不驗者」と言っている。ところが,後の陽慶に師事するに至る経緯の説明の中では,「意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗精良」と言う。これは齟齬ではなく,過去についての認識とその表現の違いだろう。そこそこの効果は有ったから,小成に甘んじるのならば,一番はじめの師匠だけでも満足できたのだろうが,菑川の公孫光が古方を伝えていると聞けば,出かけていって師事し,その方が尽きたところでは,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年のことである。しかも,これで医術修行が終了したわけではない。問対の中では,斉の文王の病は治らないと判断し,吏によって拘束されるのを恐れて自ら隠れ,「出行游國中(おそらくは斉国中),問善爲方數者事之久矣,見事數師,悉受其要事,盡其方書意,及解論之」(国中を遊歴し,医術を善するものを求めて,久しい間これに師事しました。数人の師にまみえ,これにつかえて,その秘伝をつくし,その医書の奥義を窮め,かつこれを解釈し論究しました)と言っている。
淳于意が師事した時,陽慶はすでに七十余歳で,「無子」という。しかし,問対の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。文章を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。『史記』の文では,陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
伝えられた医書とは如何なるものであったか?おそらくは「黄帝,扁鵲之脈書」であろう。問対の資料中の詳しい篇名などは,伝記では省かれている。診籍を見ると,診断法の中心は脈診である。それによって,人の生死を知り,嫌疑を決し,治すべきを定める。しかし,望診も重視されるから,「五色診病」というのはそれと関連しているのかも知れない。「薬論」も,診籍中の治療が概ね投薬であるのと呼応する。
これを承けること三年というのは,三年で学び終えたのか,師匠が死んでしまったのか?おそらくは,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,またそのころ師匠の陽慶が死亡したので学び終えることになった。陽慶亡き後にも,国中を遊行してさらに師を求め,方を承けているのは上述のとおり。
訴えられたのという文帝四年は,十三年の誤りである。『史記』孝文本紀にはそうなっている。文章自体も,ほとんど同じで,要するに文帝の名君ぶりを言いたいだけのことである。なぜ,十三年を四年に誤るというようなことが起こりえたのか?古代にも十三を一三とする表記法が有ったとすれば,一三が亖に誤られた可能性が生じる。亖は四の古字である。むしろ,高后の八年に師事して,三年余がたって,陽慶が死んで,文帝の四年に訴えられて,とトントンと進んだ方が,話は分かりやすいから,そう書いたのではないか。
ただ,このとき淳于意は何歳だったのだろう?「子が有っても男の子がいないから,ことあるときに役にたたない」と罵ったというけれど,頼りになるような男の子が有り得るというと何歳くらいに想定すべきなんだろう?百納本をはじめとする諸本の問対の資料中では,「至高后八年」に徐広が注して「意年二十六」という。罪を問われたのが,文帝十三年のこととしても,三十八歳にしかならない。いくら当時でも,これでは罵るほうが無理かも知れない。ところが滝川亀次郎が『史記会注考証』の底本に選んだ金陵書局本では,「意年三十六」となっているらしい。中国でも,一九五九年以降に中華書局から二十四史の標点本の第一弾として刊行された三家注合刻の『史記』が,やはり金陵書局本を底本とする。
ここでは「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」の解釈が鍵になる。「今,師匠に死なれてから,すでに十年ばかりたちます。師匠が死んだのは,私が師事して三年を経た三十九歳のときのことでした」と解したい。『史記』の文章だけでは,陽慶が死んですぐに訴えられたと誤解されがちだが,そうではない。また,三十九歳というのは,師匠が死んで,図らずも学び終えることになった歳である。すると訴えられたときに四十八歳であるから,五人いたという内の季の女が上書するのも不可能ではなさそうである。
淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと一般に理解されている。しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか?当時の刑法の詳細が分からないのだが,どうも釈然としない。「然左右行游諸侯,不以家爲家」というのは,問対では斉の文王が病んで,召されそうになり,治せないと判断して避けた際の「臣意家貧,欲為人治病,誠恐吏以除拘臣意也,故移名左右,不脩家生,行游國中」と関わる。「左右行游諸侯」は,あちこちと諸候に遊ぶだろうが,「移名左右」は,名籍をよそに移してだろう。「左右」の意味が微妙に異なる。問対の文章に,一般の患者を断って,貴人に取り入ったという気配は無い。むしろ逆であろう。また,「不爲人治病」には,陽慶は富豪であって医者ではないという話において,「不肯爲人治病,當以此故不聞」とある文章が影響しているだろう。「病家多怨之者」は,司馬遷による作文である可能性が高い。これが淳于意が訴えられたのは,治療を断ったからだと誤解される理由となった。
実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのかも知れない。上で,陽慶には実は子が有ったと言った。この子は医者ではなく,また淳于意が陽慶に師事するについての仲介をなしている様子なので,この人が訴えた可能性は排除して良いだろう。しかし,問対の中に,公孫光の言として,「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」とある。これを,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいしたもので,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶には医者の同胞がいることになる。あるいは一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。陽慶は成功して富豪となって,医者はやめた。子も医者にはならなかった。そこで,みこんだ弟子の淳于意に秘伝書を伝えた。遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説が有る。しかし,同胞にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。問対の資料の後ろのほうにある「愼毋令我子孫知若學我方也」は,「愼毋令我同産知若學我方也」であるべきなのかも知れない。しかし,民間人が秘伝書の窃盗を訴えたとしても,朝廷が取り上げてくれるだろうか?それに,師匠の陽慶が死んでから訴えるまでに,時間がかかりすぎている。当時の刑法の詳細が分からないのだが,やっぱり釈然としない。
実は,仕えていた斉の文王の治療をしなかったのを,咎められたのではないか。斉の文王の死は,淳于意が訴えられた文帝十三年より後であるが,当然すでに病んでいただろうし,許されたのは,実は斉の文王に死んでもらった方が,好都合だからではないか。朝廷側にしてみれば,東方の大封である斉の王が死んで,その領土をその親族たちに分割できれば,そのほうが好都合である。で,季女の上書を口実にして,名君ぶって淳于意を赦し,結果として,斉の文王は死んで,斉は分割された。高后(呂后)歿き後,誰が皇帝になるかについての二大候補の一方であった斉国自体が,文帝の朝廷からしてみれば,仮想敵国のごときものである。
あるいはまた,淳于意は,斉に於ける政治的立場を買いかぶられたのかも知れない。太倉長として仕えた斉王というのが哀王であったとすると,高后が崩じたとき,宮中に呂氏の諸族を誅戮して,斉王を立てようとする動きが有り,哀王もそれに応じようとしていた。突拍子もない説のようだが,季女の上書中にも「妾父爲吏,齊中稱其廉平」とあり,太史公曰には,「士無賢不肖,入朝見疑」云々とある。この司馬遷の「言いたいこと」からすれば,「宮廷で目立ちすぎた」という珍説も案外と馬鹿にならないかも知れない。
訴えられたのが文帝の十三年であるとして,詔問のことは何時なのか?文中に登場する斉の文王の死は,文帝の十五年であり,その結果として,文王の叔父や従弟が分割された国の王に封ぜられたのは,文帝の十六年である。その爵位が問対の資料中にしばしば登場するのであるから,詔問のことは文帝の十六年以降である。どうして罪に問われ許された文帝の十三年から,数年とはいえ遅れたのか?おそらくは,朝廷が淳于意の医術の価値を認めるのに,気付くのに,それだけの時間を要したということだろう。我々は,後代のものとしての先入観で淳于意のことを考えがちであるが,当時はさしたる有名人でもなかったろう。医療の実績も,ほとんどが斉国内でのことに限られる。
淳于意の問対のころの年齢については,弟子についての話からも想像できる。最も重要な師である陽慶に事えたのが三年余,その前は勿論その後にも数師に事えて研鑽を怠らなかった。それにひきかえ,弟子が淳于意に事えたのは一年余とか二年余とかである。臨葘召里の唐安に至っては,「未成」であるのに斉王の侍医になっている。淳于意は,本当はげっそりしていたのではないか。「今どきの学生は……」と慨嘆するのは,古来のことらしい。淳于意はこの頃には既に引退していたのではないか。当時の五十数歳なら,まあ可能性は有るだろう。
さらに,今ひとつ。問対のはじめに「詔召問」と「詔問」が出るのは,詔問のことは数度におよんだからという説が有るが,どうしてそんな理屈になるのか理解できない。そもそも,こうした問対はどのようにして行われたのだろう。いくつかの問いを記した文書が発せられ,それに文書で対えたのだとすれば,「問臣意,所診治病,病名多同,而診異,或死,或不死,何也」などには,診籍を見た上での再質問である可能性を感じる。文書の往復は何度も有ったかも知れない。獄中に在って問対したのではない。家居と言っている。家は臨菑に在ったはず。長安と臨菑では,詔問と応対に要する時間も,今日のようにはいかない。その間に,爵位が変わる可能性は無くは無い。しかし,問うための役人が派遣され,それに口頭で対えたのであれば,やはり,それは一度にまとめて行われたのだろう。
『史記』の文章と,詔問・応対の文章に齟齬が有るのは何故か。つまるところ,歴史とは事実の羅列ではないからである。それを如何様に認識するかである。司馬遷が書く必要が有ったのは,文帝が名君であるということであり,本当に言いたかったのは,武帝に対する密かなる恨みではなかったか。淳于意には緹縈がいて,申し開きをしてくれて,しかも文帝が慈悲深かったので,罪を免れた。ところが,匈奴に降った李陵を弁護したかどで罪に問われた司馬遷には,緹縈に相当するものはいなかったし,武帝は文帝ほどはものわかりが良くなかった。古代中国においては,史書は所詮,プロパガンダであった。
(季刊内経 no.188 の初稿を修改)
そんなことはない。
太倉公者,齊太倉長,臨菑人也,姓淳于氏,名意。少而喜醫方術。高后八年,更受師同郡元里公乘陽慶。慶年七十餘,無子,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黄帝,扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,爲人治病,決死生多驗。然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病,病家多怨之者。これで全てである。そう長くもない。また,その長くもない文章の後半分には,医家の伝記としての価値は無い。付録されている資料としての詔問と応対の文章が長いので,伝記の文章が長いと錯覚されるだけである。
文帝四年中,人上書言意,以刑罪當傳西之長安。意有五女,隨而泣。意怒,罵曰:「生子不生男,緩急無可使者!」於是少女緹縈,傷父之言,乃隨父西。上書曰:「妾父爲吏,齊中稱其廉平,今坐法當刑。妾切痛死者不可復生,而刑者不可復續,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身爲官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。」書聞,上悲其意,此歳中亦除肉刑法。
倉公が活躍した年代と,司馬遷の『史記』編纂はそれほど時を隔ててない。したがって,その内容は信頼性が高かろうと期待される。しかしながら,実際にはかなり混乱した記述も有って,古来,読者を困惑させてきた。伝記本文と詔問・応対との齟齬が解結すれば,倉公・淳于意という人物が存在していた意義がより明らかになると信じる。以下に説明を試みる。
斉の太倉長であった。どの程度の身分なのかは分からない。ただ,緹縈の上書に「妾の父は吏と為って,斉中にその廉平を称された」というのだから,そこそこの身分ではあったと思われる。ではどの斉王のときの太倉長なのか?悼恵王肥(高祖六年~恵帝六年)から哀王襄(~文帝元年),さらに文王則(~文帝十五年)まで,一応はいずれも可能であろう。しかし,淳于意の年齢からして,悼恵王の下での重職はいささか難しかろう。文帝の十六年に初めて立った斉王(もとの陽虚侯将閭,後に呉楚七国の乱に際して自殺して,孝王と諡される)の太倉長が,詔対の時にはすでに「故太倉長」というのは,なおさら難しかろう。
臨菑の人で,姓は淳于氏,名は意である。これは『史記』の標準的な書き方である。例えば,扁鵲の伝にも「勃海郡鄭人也,姓秦氏,名越人」と言う。淳于意という氏名にまちがいはなかろうが,臨菑の人であるとは,問対では明言してない。淳于氏は,春秋の頃に山東地方にあった小国の名と関わる。臨菑の東南東に菑川があり,陽慶より前に師事した公孫光は,菑川の人である。そう遠くはないが,淳于は菑川のさらに東南東にあたる。臨菑の人であったかも知れないし,そうでないかも知れない。有名な先人に、先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠,さらには秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越がいる。すでに発祥の地に留まっている時代ではない。
わかいころから医術に関心があり,高后八年から,臨菑の公乗陽慶に師事したというのは,問対と齟齬しない。「更」とあるから,少なくとも陽慶が最初の師匠というわけでない。問対を調べれば,より詳しいことがわかる。最初は郷里の人に学んだのだろう。問対の初めには「意少時喜醫藥,醫藥方,試之多不驗者」と言っている。ところが,後の陽慶に師事するに至る経緯の説明の中では,「意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗精良」と言う。これは齟齬ではなく,過去についての認識とその表現の違いだろう。そこそこの効果は有ったから,小成に甘んじるのならば,一番はじめの師匠だけでも満足できたのだろうが,菑川の公孫光が古方を伝えていると聞けば,出かけていって師事し,その方が尽きたところでは,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年のことである。しかも,これで医術修行が終了したわけではない。問対の中では,斉の文王の病は治らないと判断し,吏によって拘束されるのを恐れて自ら隠れ,「出行游國中(おそらくは斉国中),問善爲方數者事之久矣,見事數師,悉受其要事,盡其方書意,及解論之」(国中を遊歴し,医術を善するものを求めて,久しい間これに師事しました。数人の師にまみえ,これにつかえて,その秘伝をつくし,その医書の奥義を窮め,かつこれを解釈し論究しました)と言っている。
淳于意が師事した時,陽慶はすでに七十余歳で,「無子」という。しかし,問対の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。文章を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。『史記』の文では,陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
伝えられた医書とは如何なるものであったか?おそらくは「黄帝,扁鵲之脈書」であろう。問対の資料中の詳しい篇名などは,伝記では省かれている。診籍を見ると,診断法の中心は脈診である。それによって,人の生死を知り,嫌疑を決し,治すべきを定める。しかし,望診も重視されるから,「五色診病」というのはそれと関連しているのかも知れない。「薬論」も,診籍中の治療が概ね投薬であるのと呼応する。
これを承けること三年というのは,三年で学び終えたのか,師匠が死んでしまったのか?おそらくは,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,またそのころ師匠の陽慶が死亡したので学び終えることになった。陽慶亡き後にも,国中を遊行してさらに師を求め,方を承けているのは上述のとおり。
訴えられたのという文帝四年は,十三年の誤りである。『史記』孝文本紀にはそうなっている。文章自体も,ほとんど同じで,要するに文帝の名君ぶりを言いたいだけのことである。なぜ,十三年を四年に誤るというようなことが起こりえたのか?古代にも十三を一三とする表記法が有ったとすれば,一三が亖に誤られた可能性が生じる。亖は四の古字である。むしろ,高后の八年に師事して,三年余がたって,陽慶が死んで,文帝の四年に訴えられて,とトントンと進んだ方が,話は分かりやすいから,そう書いたのではないか。
ただ,このとき淳于意は何歳だったのだろう?「子が有っても男の子がいないから,ことあるときに役にたたない」と罵ったというけれど,頼りになるような男の子が有り得るというと何歳くらいに想定すべきなんだろう?百納本をはじめとする諸本の問対の資料中では,「至高后八年」に徐広が注して「意年二十六」という。罪を問われたのが,文帝十三年のこととしても,三十八歳にしかならない。いくら当時でも,これでは罵るほうが無理かも知れない。ところが滝川亀次郎が『史記会注考証』の底本に選んだ金陵書局本では,「意年三十六」となっているらしい。中国でも,一九五九年以降に中華書局から二十四史の標点本の第一弾として刊行された三家注合刻の『史記』が,やはり金陵書局本を底本とする。
ここでは「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」の解釈が鍵になる。「今,師匠に死なれてから,すでに十年ばかりたちます。師匠が死んだのは,私が師事して三年を経た三十九歳のときのことでした」と解したい。『史記』の文章だけでは,陽慶が死んですぐに訴えられたと誤解されがちだが,そうではない。また,三十九歳というのは,師匠が死んで,図らずも学び終えることになった歳である。すると訴えられたときに四十八歳であるから,五人いたという内の季の女が上書するのも不可能ではなさそうである。
淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと一般に理解されている。しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか?当時の刑法の詳細が分からないのだが,どうも釈然としない。「然左右行游諸侯,不以家爲家」というのは,問対では斉の文王が病んで,召されそうになり,治せないと判断して避けた際の「臣意家貧,欲為人治病,誠恐吏以除拘臣意也,故移名左右,不脩家生,行游國中」と関わる。「左右行游諸侯」は,あちこちと諸候に遊ぶだろうが,「移名左右」は,名籍をよそに移してだろう。「左右」の意味が微妙に異なる。問対の文章に,一般の患者を断って,貴人に取り入ったという気配は無い。むしろ逆であろう。また,「不爲人治病」には,陽慶は富豪であって医者ではないという話において,「不肯爲人治病,當以此故不聞」とある文章が影響しているだろう。「病家多怨之者」は,司馬遷による作文である可能性が高い。これが淳于意が訴えられたのは,治療を断ったからだと誤解される理由となった。
実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのかも知れない。上で,陽慶には実は子が有ったと言った。この子は医者ではなく,また淳于意が陽慶に師事するについての仲介をなしている様子なので,この人が訴えた可能性は排除して良いだろう。しかし,問対の中に,公孫光の言として,「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」とある。これを,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいしたもので,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶には医者の同胞がいることになる。あるいは一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。陽慶は成功して富豪となって,医者はやめた。子も医者にはならなかった。そこで,みこんだ弟子の淳于意に秘伝書を伝えた。遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説が有る。しかし,同胞にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。問対の資料の後ろのほうにある「愼毋令我子孫知若學我方也」は,「愼毋令我同産知若學我方也」であるべきなのかも知れない。しかし,民間人が秘伝書の窃盗を訴えたとしても,朝廷が取り上げてくれるだろうか?それに,師匠の陽慶が死んでから訴えるまでに,時間がかかりすぎている。当時の刑法の詳細が分からないのだが,やっぱり釈然としない。
実は,仕えていた斉の文王の治療をしなかったのを,咎められたのではないか。斉の文王の死は,淳于意が訴えられた文帝十三年より後であるが,当然すでに病んでいただろうし,許されたのは,実は斉の文王に死んでもらった方が,好都合だからではないか。朝廷側にしてみれば,東方の大封である斉の王が死んで,その領土をその親族たちに分割できれば,そのほうが好都合である。で,季女の上書を口実にして,名君ぶって淳于意を赦し,結果として,斉の文王は死んで,斉は分割された。高后(呂后)歿き後,誰が皇帝になるかについての二大候補の一方であった斉国自体が,文帝の朝廷からしてみれば,仮想敵国のごときものである。
あるいはまた,淳于意は,斉に於ける政治的立場を買いかぶられたのかも知れない。太倉長として仕えた斉王というのが哀王であったとすると,高后が崩じたとき,宮中に呂氏の諸族を誅戮して,斉王を立てようとする動きが有り,哀王もそれに応じようとしていた。突拍子もない説のようだが,季女の上書中にも「妾父爲吏,齊中稱其廉平」とあり,太史公曰には,「士無賢不肖,入朝見疑」云々とある。この司馬遷の「言いたいこと」からすれば,「宮廷で目立ちすぎた」という珍説も案外と馬鹿にならないかも知れない。
訴えられたのが文帝の十三年であるとして,詔問のことは何時なのか?文中に登場する斉の文王の死は,文帝の十五年であり,その結果として,文王の叔父や従弟が分割された国の王に封ぜられたのは,文帝の十六年である。その爵位が問対の資料中にしばしば登場するのであるから,詔問のことは文帝の十六年以降である。どうして罪に問われ許された文帝の十三年から,数年とはいえ遅れたのか?おそらくは,朝廷が淳于意の医術の価値を認めるのに,気付くのに,それだけの時間を要したということだろう。我々は,後代のものとしての先入観で淳于意のことを考えがちであるが,当時はさしたる有名人でもなかったろう。医療の実績も,ほとんどが斉国内でのことに限られる。
淳于意の問対のころの年齢については,弟子についての話からも想像できる。最も重要な師である陽慶に事えたのが三年余,その前は勿論その後にも数師に事えて研鑽を怠らなかった。それにひきかえ,弟子が淳于意に事えたのは一年余とか二年余とかである。臨葘召里の唐安に至っては,「未成」であるのに斉王の侍医になっている。淳于意は,本当はげっそりしていたのではないか。「今どきの学生は……」と慨嘆するのは,古来のことらしい。淳于意はこの頃には既に引退していたのではないか。当時の五十数歳なら,まあ可能性は有るだろう。
さらに,今ひとつ。問対のはじめに「詔召問」と「詔問」が出るのは,詔問のことは数度におよんだからという説が有るが,どうしてそんな理屈になるのか理解できない。そもそも,こうした問対はどのようにして行われたのだろう。いくつかの問いを記した文書が発せられ,それに文書で対えたのだとすれば,「問臣意,所診治病,病名多同,而診異,或死,或不死,何也」などには,診籍を見た上での再質問である可能性を感じる。文書の往復は何度も有ったかも知れない。獄中に在って問対したのではない。家居と言っている。家は臨菑に在ったはず。長安と臨菑では,詔問と応対に要する時間も,今日のようにはいかない。その間に,爵位が変わる可能性は無くは無い。しかし,問うための役人が派遣され,それに口頭で対えたのであれば,やはり,それは一度にまとめて行われたのだろう。
『史記』の文章と,詔問・応対の文章に齟齬が有るのは何故か。つまるところ,歴史とは事実の羅列ではないからである。それを如何様に認識するかである。司馬遷が書く必要が有ったのは,文帝が名君であるということであり,本当に言いたかったのは,武帝に対する密かなる恨みではなかったか。淳于意には緹縈がいて,申し開きをしてくれて,しかも文帝が慈悲深かったので,罪を免れた。ところが,匈奴に降った李陵を弁護したかどで罪に問われた司馬遷には,緹縈に相当するものはいなかったし,武帝は文帝ほどはものわかりが良くなかった。古代中国においては,史書は所詮,プロパガンダであった。
(季刊内経 no.188 の初稿を修改)
2015年6月22日 星期一
曲鬢
『甲乙経』巻三に列する穴は先ず,前髮際に中央から左右へ神庭・曲差・本神・頭維,正中線を前から後ろへ上星・顖会・前頂・百会・後頂・強間・脳戸・風府,正中線の両傍一寸五分を前から後ろへ五処・承光・通天・絡却・玉枕,目の上眥から直上して前から後ろへ臨泣・目窓・正営・承霊・脳空,耳の上を行く天衝・率谷・曲鬢・浮白・竅陰・完骨,後髮際を中央から左右へ瘖門・天柱・風池。これらが頭部の諸穴であって,それぞれおおむね一本の線上に配される。
しかし,耳の上だけは,現在の教科書的な説明では,天衝・率谷・曲鬢と前へ行き,天衝・浮白・竅陰・完骨と後ろへ行くことになっている。これはおかしいのではないか。
そこで古い図を探ってみると,例えば呉崑の『鍼方六集』に附属の伏人図では,天衝・率谷・浮白・竅陰・完骨と,前から後ろへきちんと並んでいる。考えてみれはそもそも「頭縁耳上却行至完骨」と題されていた。ところが曲鬢だけは,やはり前の方の正人図に載る。本当は,より古く率谷と浮白の間に曲鬢を配する資料が有ったのではないか。あるいはいっそ曲鬢に関する記述は錯簡してここに在るのではないか。
しかし,耳の上だけは,現在の教科書的な説明では,天衝・率谷・曲鬢と前へ行き,天衝・浮白・竅陰・完骨と後ろへ行くことになっている。これはおかしいのではないか。
そこで古い図を探ってみると,例えば呉崑の『鍼方六集』に附属の伏人図では,天衝・率谷・浮白・竅陰・完骨と,前から後ろへきちんと並んでいる。考えてみれはそもそも「頭縁耳上却行至完骨」と題されていた。ところが曲鬢だけは,やはり前の方の正人図に載る。本当は,より古く率谷と浮白の間に曲鬢を配する資料が有ったのではないか。あるいはいっそ曲鬢に関する記述は錯簡してここに在るのではないか。
2015年5月2日 星期六
呪術と科学と
魔法と呪術はどう違うのか。
魔法は,願えばかなう。かなうかかなわぬかは熱意の問題,あるいは聞き届ける側の都合。したがって信仰につらなり,宗教の母である。
呪術はそれとは異なる。しかるべき準備をして,しかるべく所作をしなければ,期待したような結果にはならない。そこで,科学はその孫である。
呪術と科学の差は何か。その準備と所作と結果の関係に説明を求める。しつこく問い詰める。「だってセンセイがいったんだもん」というわけにはいかない。
同じ準備をし,同じ所作をしたのに,結果が異なったとしたら,何処かに見落としが有ったからだ。あるいは,そもそも因果関係の筋道が思い違いだったかも知れない。理路のたてなおしにアタフタしているのを,けなされるのはお門違いだ。
現代科学は因果関係が明確でなければ切り捨てる,としたら,似非科学的である。阿呆かと思う。原因と結果はそこに在る。両者の関係を証明できないでいるだけじゃないか,しようともしないだけじゃないのか。
魔法とか呪術とか宗教とか科学とか,どこかで誰かから聞いたことばを使っているけれど,ここでは定義しなおして使っている,つもり。
魔女と魔術師といういいかたもする。魔女は生まれつき。魔術師には,修行してなる。魔女に生まれつかなかったら,魔術師を目指すしかない。そのカリキュラムを呪術的というか,科学的といおうか。それはまあ,魔術師になれるような人には,幾分なりとも魔女的な要素がある。それを,その人に非ざれば……,という。魔女的な要素とは何か。曰く言いがたし。「非科学的」だわなあ。
魔法は,願えばかなう。かなうかかなわぬかは熱意の問題,あるいは聞き届ける側の都合。したがって信仰につらなり,宗教の母である。
呪術はそれとは異なる。しかるべき準備をして,しかるべく所作をしなければ,期待したような結果にはならない。そこで,科学はその孫である。
呪術と科学の差は何か。その準備と所作と結果の関係に説明を求める。しつこく問い詰める。「だってセンセイがいったんだもん」というわけにはいかない。
同じ準備をし,同じ所作をしたのに,結果が異なったとしたら,何処かに見落としが有ったからだ。あるいは,そもそも因果関係の筋道が思い違いだったかも知れない。理路のたてなおしにアタフタしているのを,けなされるのはお門違いだ。
現代科学は因果関係が明確でなければ切り捨てる,としたら,似非科学的である。阿呆かと思う。原因と結果はそこに在る。両者の関係を証明できないでいるだけじゃないか,しようともしないだけじゃないのか。
魔法とか呪術とか宗教とか科学とか,どこかで誰かから聞いたことばを使っているけれど,ここでは定義しなおして使っている,つもり。
魔女と魔術師といういいかたもする。魔女は生まれつき。魔術師には,修行してなる。魔女に生まれつかなかったら,魔術師を目指すしかない。そのカリキュラムを呪術的というか,科学的といおうか。それはまあ,魔術師になれるような人には,幾分なりとも魔女的な要素がある。それを,その人に非ざれば……,という。魔女的な要素とは何か。曰く言いがたし。「非科学的」だわなあ。
2015年4月3日 星期五
扁鵲仰天歎曰
夫子之爲方也,若以管窺天,以郄視文。越人之爲方也,不待切脉、望色、聽聲、寫形,言病之所在,聞病之陽論得其陰,聞病之陰論得其陽,病應見於大表,不出千里,決者至衆,不可曲止也。子以吾言爲不誠,試入診太子,嘗聞其耳鳴而鼻張,循其兩股以至於陰,當尚温也。扁鵲はまだ病人に会っていないのであるから,「大表」を体表と解釈するのは誤っている,という異見が出た。
必ずしも然らず。
「病應見於大表,不出千里」を,病めばその反応は表に出るのであって,別に千里の外に求めることはない,言い換えれば天にお伺いを立てるべきものではない,と解することが出来れば,それが体表に現れると言ってもそれほどとがめることはない。扁鵲は病人に会っていなくても,予測として言えるのだと,誇っているのだと思う。
あんたの方術は管をもって天を窺い,隙間からその様子を視ようとするようなものだ。わたしの方術となると,切脈、望色、聴声、写形なんぞにたよらず とも,病の所在をいうことができる。病の陽を聞けば陰は察しがつくし,病の陰を聞けば陽は察しがつく。病の反応は大表(≒体表)に現れてそこにあるのであって,別に千里の外に求めずとも,判断材料はきわめて多いし,限界も無い。信じられないというのなら, 太子の様子をもう一度診なおしてみろ,耳が鳴り鼻が張っているはずで,太股の内を撫であげればまだ暖かいはずだ。診るべきものは,深奥に秘められているわけでも,天の彼方に掲げられているわけでもない。
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