2015年1月1日 星期四

2014年12月29日 星期一

古医籍の翻字を試みていると,しょうもないことに悩む。

仁和寺本『太素』の「殺」を「煞」と入力すべきかどうか。
『干祿字書』では「殺」が正で,「煞」は俗なんです。
正字に統一する!と宣言してしまえば,まあ楽なんですよ。
でも,実際に使われている異体字の情報も保存したい,なんてしょうもないことを考えるとややこしい。
今は,パソコンで使える漢字もずいぶん増えたから,「煞」でも大丈夫なんです。
それに,これは『水滸傳』の地煞星の煞なんだから,中国趣味の人間だったら知ってろよ……,と言ったって,それほど無理では無かろうし。
でもね,仁和寺本『太素』に書かれているものの多くは,実際は「煞」でもないんです。
下の列火(灬)に当たるものが,✓のような一画になっている。
こんなんだったら,わざわざ「煞」にしたって五十歩百歩。
でもね,造字の意図は違うんじゃないかとか,いや楷書化の手際の差に過ぎないのかも,とか。


ある本では(普段書いている字でいえば)「胸」なのに,ある本では「胃」になっている,なんてときには,やっぱり底本通りに「胷」にしておくことにも意味が有ると思うんです。

2014年12月16日 星期二

脆骨

『聖濟總録』に,「諸痔宜灸廻氣三七壯。黄帝鍼經云:穴在尾脆骨上一寸半。又連崗穴主之,在廻氣穴兩邊相去三寸是也,各灸三七壯。」の文章があるらしい。
この「尾脆骨」には疑問が有る。「尾骶骨」に改めてもよいのではないか。
『千金要方』に,「五痔便血失屎,灸回氣百壯,穴在脊窮骨上。」とあるらしい。
そして,『太素』卷十一・氣府に「大椎以下至尻廿節間各一,胝下凡廿一節,脊椎法。」とあり,楊注に「胝,竹尸反,此經音抵,尾窮骨,從骨為正。」と云う。この楊注中の抵の右旁の氐は,実際には互に近い形(あるいは弖に近いというべきか)に書かれている。これとまあ似た形は,危のくずし字に有る(近藤出版社の『くずし字解読辞典』)。馬王堆の簡牘帛書にも,右旁の氐と危とに似たものは有る(上海書店出版社の『馬王堆簡牘帛書常用字典』)。
つまり,最初の資料に尾骶骨と書くべきところを,肉月の胝にして,その胝の書樣が脆と紛らわしくて,誤られたに過ぎないのではないか。

脊椎の下端の軟骨の上云々でも,意味はまあ通じるからややこしい。

2014年12月14日 星期日

ごくろうさん

前にもよそでつぶやいたことが有るんだけど,

投票にいくたんびに,こんなしょうもない選挙に,寒いのに,よくもまあこんなにたくさんのひとが投票にくるもんだ,と思う。

現代語訳が ほしいですか

原文は:
 提起古籍版本,常使人連想古董,従経済価値着眼,越古越貴重。旧時達官貴人富商大賈常以捜求玩賞古籍而謬托風雅,致使研究古籍版本者往往蒙受玩物喪志之譏。然而版本学之真正価値固不在于斯也。

公刊されている翻訳は:
 漢籍の版本といえば,よく人は骨董品を連想し,経済的価値から,古ければ古いほど貴重だ,という見方をする。往時,高級官僚や貴人,富豪・大商人は,漢籍を探し求めて鑑賞し,やたらと風雅にかこつけたので,漢籍の版本研究者は往々にして「玩物喪志」のそしりを受けるようなこともあった。しかし,版本学の本当の価値はもとよりここに在るのではない。

でも,日本人が初めから日本語で,自分のことばとして書いたら,こんな具合じゃないか:
 古籍版本などと言いだせば,人は骨董品を思い浮かべて,金銭的な価値観から,古ければ古いほど良いと思いがちである。むかしの成り上がったお偉いさんや大もうけした商ん人は,古籍を買い求めて翫んで,風雅をきどったりした。そこで,古籍版本を研究するなどといえば,玩物喪志のそしりをうけがちである。しかるに版本学の本当の価値は,もとよりそんなところには在るわけではない。

2014年12月5日 星期五

古典なんて読んだって

どうして古典を読むのか,と問われると,面倒だから,古典なんて読んだって臨床とはあんまり関係ないですよ,と応えてしまう。結構,うけるけれど,これではいくら何でも誤解される。

針とか灸とかは第一義的には技術だから,先ず手を動かす修行が大切なのは当たり前。でも,どう動かすのかは,師匠や先輩から教わるわけだし,師匠や先輩が何に拠ってるかは,結局のところ古典しかない。ある程度から先は,自分も古典を紐解かないわけにはいかなくなる。

古典を読むと,やらなきゃならないことはむしろ減ると思う。やっちゃいけないことも,誤読から始まっていることが多い。

すぐに役立つことが書いてあるわけじゃないかも知れない。極端な譬えだけど,寿司職人になるには,魚の目利きから包丁の研ぎかた,さらには全く関係なさそうな一般教養も要るんじゃないのか。歳時記ぐらいは愛読しているべきじゃないのか。でもね,回転寿司の店員でいいなら,店のマニュアルを読めばたくさん。そのほうが手っ取り早く稼げるんでないの。でもね,自分は本当は何になりたいのかは,考えてみる価値が有ると思う。

鍼灸師養成学校にかよっていたころに,あるいはせめて資格をとったばかりのころに,古典について,せめていま丁度の認識があったら,もっと安心して手の修行をしていたと思う。もう少しはましな臨床家になれていたと思う。たとえば六部定位脈診が苦手だと,古典的な針を志す資格なんてないんじゃないか,と恐れていたけれど,考えてみればあれは三部九候診のミニチュアに過ぎない。腕関節でチマチマがうまくいかなかったら,大きく全身を撫で回せばいいじゃないか。

2014年11月11日 星期二

中医古籍整理叢書重刊

中医古籍整理叢書の重刊が出てますね。
出版社によると,原版の出版から時間がたって,市場に見つけることが困難になっているし,中には中医読者の珍蔵品とされるようなものになっているから,重刊が必要になった,らしい。
有り難いことです。
現代の読者の閲読習慣を考慮して,繁体字横排にしたそうです。パソコン時代ですからね。私ごときも,横排の方に親しみを感じるようになってしまってます。
しかしねえ,余程丁寧にやってもらえないと,誤解しそうなんです。
『鍼灸甲乙経校注』の重刊,巻一・四海第八の部分:
血海有餘則常想其身大,怫 鬱也。然不知其所病;
(校注の番号は省略)
不覚ながら,ぎょっとしました。「常想其身大,怫。」なんて句読が有るわけがない!それはまあ,有り得ません。勿論,「怫然不知其所病;」です。つまり「鬱也」の下の「。」は小さくするべきです。昔の竪排ではちゃんとそうなってます。「鬱也。」は小字注文のはずです。

2014年11月7日 星期五

徘徊 言い換えませんか

言い換えませんかァ?

なんのつもりだ。徘は行ったり来たりする,徊はぐるぐるまわる。どこともなく歩きまわること。
どこが気に入らないんだ。

わたしなんぞは,東京に出れば神保町あたりを徘徊して書物を購い,時間に余裕が有れば横浜中華街を徘徊して,飯を食い買い物をする。「一人歩きして」なんぞとは金輪際,言われたくない。
棚と棚を眺め徊ったり,たまに引き抜いたり,たまに(必要も無い書物を)購入したり。それはまあ,とりとめもない。
中華街ですれ違った幸せそうな若い(幼稚い?)カップルの,男の人が一人で来る(徘徊している?)なんてなんでなんだろ,なんていう呟きが耳に入ったことも有る。それはまあ,小籠包を歩き食いするためじゃない。

痴呆症を認知症と言い換えた成果の応用のつもりらしい。それはまあ痴愚で阿呆はいささか拙いかも知れない。

日本人は一字一字の字義に拘りすぎる傾向が有ると思う。国語審議会だかで,人名には使える漢字のリストから塵というのは外されたらしい。塵芥なんて名をつける親は有るまい,ということらしい。銭超塵先生,どうしましょう。つける親は有るまいということなら,疾病なんてのも要らなさそうに思う,でしょう。ところがどっこい,中国の歴史上には棄疾さんも去病さんも,燦然としている。

言い換えてしばらくたつと今度は,ひとり歩き,外出,お出かけ,お散歩にも,いや~な雰囲気が出てくる。そして日本語は痩せ衰える。

2014年9月22日 星期一

応該 不要

『霊枢』本輸篇に:
 刺上關者,呿不能欠;刺下關者,欠不能去。
 刺犢鼻者,屈不能伸;刺兩關者,伸不能屈。
とある。短い文章だが,ここにはおおよそ3つの問題が有る。
①針刺の際に,そんなとこを刺したら不都合が生じるというのか,それともそうしなければ穴が取れないというのか。
②呿と欠は反対の動作であるべきなのに,ほとんど同義である。後のほうの去が呿の誤りであるのは勿論だが,欠も何かの誤りではないか。
③犢鼻とか両関とかいうのは,具体的にはどの穴のことなのか。膝の犢鼻穴と手首の内関と外関では,離れすぎてないか。

①「不能」の2字を,「すべきでない,そうしてはいけない,そうしたのでは上手くいかない」と訓むことができるのなら,やはり取るべき姿勢と考えたい。『甲乙経』巻3耳前後凡二十穴に,上関は「開口有孔」,下関は「合口有孔,張口即閉」とある。「屈不能伸」は,わたしらの感覚では「曲がっちゃって伸ばせない」と解するのが当たり前だと思うが,取るべき姿勢という注釈家のほうがむしろ多いからには,「曲げなきゃダメ,伸ばしちゃダメ」も有り得るんだろうなあ。漢語は難しい。辞書には一応,「能」の基本字義のうちに「応該」というのは載っていた。応該張口,不要閉口。要もまた応該である。
②呿は,大口を開ける。欠は,もともとは大あくび。下の去は明刊未詳本『霊枢』の誤りで,上と同様に呿のはずである。口偏が脱落したのである。とすれが,欠にも口偏を補ってはどうだろう。呿は張口の貌,吹は撮口して気を出す,釣り合うと思うが。
③犢鼻は,わたしたちが知っている足陽明の犢鼻穴ではあるまい。『甲乙経』に,陽関が陽陵泉の上三寸で犢鼻の外の陥中に在ると言うばかりでなく,膝関が犢鼻の下二寸の陥中に在るとも言う。つまり犢鼻は膝頭を挟んで左右に二つ有る。だから,『太素』では内関に作るが,やはり両関のほうがいい。で,つまり,二つの犢鼻穴の近くに在る陽関穴と膝関穴であろう。残念ながら,『甲乙経』には針刺の事故の注意も,姿勢の指示も無い。

2014年9月15日 星期一

中国古代医学における「気」とは何か?

おそらく,一番平俗には,「病は気から」というあれだろう。
要は,「気持ち」の持ちようである。
ついで,血が循環する管が有るように,気が循環するナニモノかが有るはずだ,という言い方。そのナニモノかを現代西洋医学は未だに知らない。でも,有るはずだ。つまり,何がどこを循っているのかはようわからんが,血の他に何か特別なものが流れているはずだ。
それともう一つ,目の前の人は,確かに固体として見えているが,実は大部分は液体として流れているんだし,本当は気体としてわだかまっているんだとする。固体か液体か気体か,と目先のことを言うけれど,生きた存在であるからには,本質は融通無碍な気体であると考えるべきじゃないか。今たまたまかなり凝集して,可視化して,そこに見えている。その気体としてのあり方が正常であれば健康であり,おかしなことになっていれば病である。
自ずから然るべく流動している,といっても,地上の水なら高きから低きへでいいけれど,人体においては,どう動いているのが自ずから然るありかたなのか,それがようわからん。そこで,ああじゃないか,こうじゃないかと囂しいわけだ。
自ずから然り,というルートは有ると思う。だけど,そうした管や溝が有るわけじゃ無いとも思う。だから,経絡は有りますと言うべきか,有りませんと言うべきか,未だによう判らん。