2015年5月11日 星期一

これはいったい何なんだ

中華医史雑誌2015年1月第45巻第1期ページ35の左段の上部
  《素問・示從容論》:“黃帝燕坐,臨觀八極,正八風之氣,而問雷公曰:臣請誦‘脈經上下篇’甚衆多矣,別異比類,猶未能以十全,又安足以明之……吾問子窈冥,子言‘上下篇’以對,何也?夫脾虚浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎,此皆工之所時亂也”
 (參考文獻として 王冰,黃帝内經素問注[M],北京:人民衛生出版社,1979  もとは簡體字,今,繁體字で示す。)
謹んで按ずるに,「臨觀八極,正八風之氣,而問雷公曰:」は示従容論の文では無く,陰陽類論である。示従容論ではこの部分は,「召雷公而問之曰:汝受術誦書者,若能覽觀雜學,及於比類,通合道理,爲余言子所長。五藏六府,膽胃大小腸脾胞膀胱。腦髄涕唾,哭泣悲哀,水所從行。此皆人之所生,治之過失,子務明之,可以十全。即不能知,爲世所怨。雷公曰:」のはず。そもそも「而問雷公曰」は「しこうして雷公に問うて曰く」だろう。誰が問うのか。黄帝だろう。黄帝が「臣は請う」云々などというのか。

2015年5月2日 星期六

呪術と科学と

魔法と呪術はどう違うのか。
魔法は,願えばかなう。かなうかかなわぬかは熱意の問題,あるいは聞き届ける側の都合。したがって信仰につらなり,宗教の母である。
呪術はそれとは異なる。しかるべき準備をして,しかるべく所作をしなければ,期待したような結果にはならない。そこで,科学はその孫である。
呪術と科学の差は何か。その準備と所作と結果の関係に説明を求める。しつこく問い詰める。「だってセンセイがいったんだもん」というわけにはいかない。
同じ準備をし,同じ所作をしたのに,結果が異なったとしたら,何処かに見落としが有ったからだ。あるいは,そもそも因果関係の筋道が思い違いだったかも知れない。理路のたてなおしにアタフタしているのを,けなされるのはお門違いだ。
現代科学は因果関係が明確でなければ切り捨てる,としたら,似非科学的である。阿呆かと思う。原因と結果はそこに在る。両者の関係を証明できないでいるだけじゃないか,しようともしないだけじゃないのか。

魔法とか呪術とか宗教とか科学とか,どこかで誰かから聞いたことばを使っているけれど,ここでは定義しなおして使っている,つもり。

魔女と魔術師といういいかたもする。魔女は生まれつき。魔術師には,修行してなる。魔女に生まれつかなかったら,魔術師を目指すしかない。そのカリキュラムを呪術的というか,科学的といおうか。それはまあ,魔術師になれるような人には,幾分なりとも魔女的な要素がある。それを,その人に非ざれば……,という。魔女的な要素とは何か。曰く言いがたし。「非科学的」だわなあ。

2015年4月3日 星期五

扁鵲仰天歎曰

夫子之爲方也,若以管窺天,以郄視文。越人之爲方也,不待切脉、望色、聽聲、寫形,言病之所在,聞病之陽論得其陰,聞病之陰論得其陽,病應見於大表,不出千里,決者至衆,不可曲止也。子以吾言爲不誠,試入診太子,嘗聞其耳鳴而鼻張,循其兩股以至於陰,當尚温也。
扁鵲はまだ病人に会っていないのであるから,「大表」を体表と解釈するのは誤っている,という異見が出た。

必ずしも然らず。
「病應見於大表,不出千里」を,病めばその反応は表に出るのであって,別に千里の外に求めることはない,言い換えれば天にお伺いを立てるべきものではない,と解することが出来れば,それが体表に現れると言ってもそれほどとがめることはない。扁鵲は病人に会っていなくても,予測として言えるのだと,誇っているのだと思う。
あんたの方術は管をもって天を窺い,隙間からその様子を視ようとするようなものだ。わたしの方術となると,切脈、望色、聴声、写形なんぞにたよらず とも,病の所在をいうことができる。病の陽を聞けば陰は察しがつくし,病の陰を聞けば陽は察しがつく。病の反応は大表(≒体表)に現れてそこにあるのであって,別に千里の外に求めずとも,判断材料はきわめて多いし,限界も無い。信じられないというのなら, 太子の様子をもう一度診なおしてみろ,耳が鳴り鼻が張っているはずで,太股の内を撫であげればまだ暖かいはずだ。
診るべきものは,深奥に秘められているわけでも,天の彼方に掲げられているわけでもない。

2015年4月2日 星期四

2015年3月27日 星期五

當→当

酒がかなりはいってからの,しかも話の端のことながら,「當の当用漢字を当とするのは,日本で勝手に作った形だ」,と聞いたような気がする。
醒めてつらつら考えるに,これは草書の楷書化(こんな言い方が有るのかどうかも知らない)じゃないか。
「ひらがなは草書の変化だ」とも,聞いたことが有るような気もする。で,ひらがなの形には,もとはいろいろ有ったらしい。に相当するものには,太・田・多・佗・唾・堂・當などが有る。このうち今の「た」になったのは,直接的にはやはり「太」だろう。
で,「當」の草書は下部をもう一歩整理すれば確かに「当」に近くなる。の音を表現するひらがなとして「當」の草書に見慣れていれば,「當」と書くべきときに,略して「当」に近い形を書くことは有ったろう。それを当用漢字として採用した。

ひらがなが関わっているとなると,「日本で勝手に作った形」,なのかも知れない。でも,草書の楷書化に過ぎないとなれば,中華の民だってやるんじゃないかと思って,『宋元以来俗字譜』を見たら,あっさり載ってました。通俗小説、目連記、金瓶梅、嶺南逸事。

2015年3月11日 星期三

俗字 ですらない

……さらに宋の宋祁『宋景文公筆記』巻中にいう後魏北齊の里俗に偽字「文子で學と為す」の話と,孫奕『履斎示児篇』巻二二に引く『字譜総論訛字』に「學」を俗に「斈」と書くという記載とを関連づければ,「斈」は確かに長きにわたって行われた俗字である(流行已久的俗字)。『改併四聲篇海』に引く『俗字背篇』に「𡕕」(夂の下に文)に作り,また「𢻯」(攵の下に文)に作るということについては,筆者は孤陋寡聞にして,未だそのような用例をみたことが無く,その信頼性は大いに疑わしい。……
(張涌泉『敦煌俗字研究導論』より)

2015年3月9日 星期一

郎知本『正名要錄』

敦煌文書の中には,いくつもの俗字書が有って,その一つを郎知本『正名要錄』という。ところが『舊唐書』郎餘令傳というものが有って,餘令の從父に同じ經歷の知年というのが登場する。また,『日本國見在書目』には,『正名要錄』は司馬知羊の撰ということになっている。郎知年はかつて司馬であったらしいから,これは官名を誤って姓氏としたのだろう。羊は本か年の誤り。では本なのか年なのか。よくわからないが,本の異体字に夲が有り,年の異体字に秊が有る。そりゃ間違うことも有るはなあ。あとは,傳抄された史書を信じるか,当時の俗文書を信じるか。

2015年2月22日 星期日

有無

 宇宙は,ごく微小のたった一点から,ビッグバンによって始まり,137億年間膨張を続けているとして,そのビッグバンの前には何が有ったのか何も無かったのか。

2015年2月16日 星期一

太素の滎輸

05(四海合)岐伯曰必先明知陰陽表裏輸所在四海定矣【胃脈以為陽表也手太陰足少陰脈為陰裏也衝脈為十二經脈及絡脈之海即亦表亦裏也】
10(經脈根結)足太陽根于至陰流于京骨注于崐崘入于天柱飛陽也【輸穴之中言六陽之脈流井輸原經合……
11(府病合輸)黄帝曰余聞五藏六府之氣輸所入為合今何道從入入安連過願聞其故【問藏府脈之輸之合行處至處也】岐伯答曰此陽脈之別入于内屬于府者也【此言合者取三陽之脈別屬府者稱合不取陰脈以陽脈内屬於府邪入先至於府後至於藏故也】黄帝曰輸與合各有名乎岐伯答曰輸治外經合治内府【五藏六府輸未至於内故但療外經之病此言合者唯取陽經屬内府者以療内府病也】
12(營衞氣行)知取足太陽輸【取前二穴不覺愈者可取足太陽第二穴及第三輸也】氣在於臂足先去於血脈後取陽明少陽之輸【手足四厥可先刺去手足盛絡之血然後取於手足陽明之與輸及手足少陽及輸也】
14(人迎脈口診)通其輸乃可傳於大數大數曰盛則徒寫虚則徒補【候知五藏六府病之所在先須鍼藥通其輸然後傳於灸刺大數謂空補寫之數也】
22(九刺)一曰輸刺輸刺者刺諸經輸藏輸也【取五藏經輸藏輸故曰輸刺】
24(真邪補寫)有餘不足補寫於輸余皆以知之矣
26(寒熱雜説)冬取經輸【冬時腎氣方閉陽氣衰少陰氣緊太陽沈故取經井之輸以下陰氣取輸實於陽氣療於骨髓五藏之病也】

この他にも滎輸はいくらも有るが,井滎輸経合の滎輸として現れるもので,ちゃんと滎輸と書かれているものは省いた。經脈根結の楊注中の「井榮輸原經合」も,単なる書き間違いとして省いてよかろう。営衛気行も第二とか第三とかいうことばが出てくるのだから,滎に改めてよいだろう。寒熱雑説の楊注中の「経井の輸を取って以て陰気を下し,榮輸を取って陽気を実す」も,井滎輸経合の内からの選穴による効能の違いのはなしであろうから,滎輸の誤りとみてよかろうと思う。

残るところは,府病合輸、人迎脈口診、九刺、真邪補寫であるが,『太素』ではもともと明らかに「滎輸」になっている。はて,「榮輸」などということばは本当に有ったのか。全部を「滎輸」としては拙いんだろうか。四海合に「營輸」などと出てくるのがいささか微妙ではあるが。

2015年2月2日 星期一

何が出来ると思ったのか

かの女子大生は狂犬じみている,には違いないが,それにちょっかいを出して,より添っていたとやらいう,宗教家とやらいうオバサンにも,いささか,げんなりする。

わが家にも,宗教家とやらいうオバサンはしばしば訪れる。そのたびに無言で,手で制して,慇懃に,拒絶する。するとオバサンは,おだやかに,丁寧に,会釈して去る。そしてわたしは,その日一日,ずっと不愉快でいる。