2017年11月16日 星期四

比較しない脈診

……十一ないし十二の脈の一つ一つには、「動脈」と呼ばれる搏動部がある。ある脈の状態を計測するうえで最もシンプルで確実な方法は、この一つ一つに触れてみることだろう。十二経脈脈診(『足臂経』と『陰陽経』の場合は、十一経脈脈診法)とはこうした脈診法である。しかし、この脈診法は確実だが煩瑣なうえ、十二脈すべてを比較するとなると現実にはかなり困難であったため、より簡略な方法にその座を奪われたらしく、医経(『素問』などの医学の経典)のうちにはわずかな痕跡を残すだけである。……(『中国医学思想史』)
なんで「十二経すべて」を気にするのか。医学のまなざしを保持しているほどのものであれば,おおよその雰囲気は,触れる前に,つかんでいるのじゃないか。疑わしい幾経かに触れてみれば十分だろうに。
なんで「比較」しようとするのか,何と「比較」しろというのか。触れたその動脈自体に違和感を覚えれば,それに素直に対応すればよかろうじゃないか。

結局,意外とシステマチックな,明快な医学を考えているのと違うか。


2017年11月15日 星期三

過が有る脈

『素問識』の脈要精微論に「有過之脈」という項が有って,馬蒔と張介賓が引かれている。
馬云。蓋人之有病。如事之有過誤。故曰有過之脈。全經倣此。
張云。有過。言脈不得中。而有過失也。
病は過誤であるという。分からないのは「全經」,経典のどこでもそうした意味として病をとらえているというのか,それとも全ての経脈についてそういえるとするのか。『素問』の全篇を通して他に有過について述べた箇所はなさそうである。しかし,全ての経脈についてとなると,十二経脈脈診でもしていそうだが,脈要精微論にそれらしい記述が有ったろうか。
病が過誤であるとして,過とは何か。中を得ずという。してみれば,中ならざる過と失,つまり過ぎたると及ばざるとではないか。

2017年11月12日 星期日

『内経』の鬼神について

『外経』第九号 1992年8月23日発行
日本内経医学会 夏季合宿 に於いて

 夏に相応しく幽霊の話をしよう。漢語では幽霊のことを「鬼」と言う。『説文・九下』には「人の帰するところを鬼と為す。儿に从い甶は鬼頭に象り厶に从う。鬼は陰気賊害す,故に厶に从う」とある。白川静は「鬼はもと人屍の風化したものを称する語であろう」と言い,鬼神の鬼には示に从い,その手に祝祷の器である口を加えたものが有ると言う。つまり幽霊をお祭りするのである。また,『説文・一上』には「神は天神なり,万物を引き出すものなり。示に从い申の声」というが,白川静は「神」の初文が「申」であり,「電光が斜めに屈折して走る形で,神威のあらわれるところ」と言い,幽霊に対する自然神であると言う。後に祖霊が昇天して上帝の左右に在ると考えられるようになってからは,「神」に祖霊をも含むようになった。つまり,上等な幽霊はまた「神」とも言う。合わせて「鬼神」と言う。
 『内経』には,鬼神が五次出現する。即ち:
  拘於鬼神者,不可与言至徳。(『素問・五蔵別論』)
  道無鬼神,独来独往。(『素問・宝命全形論』)
  狂者多食,善見鬼神,善笑而不発于外。(『霊枢・癲狂』)
  唯有因鬼神之事乎。(『霊枢・賊風』)
  其所従来者微,視之不見,聴而不聞,故似鬼神。(同上)
『素問・宝命全形論』に,「末世の刺法」は,ただ虚するものを補(実)い,実(満)するものを瀉(泄)すという当たり前のことしかしないと罵っているが,だからと言って「鬼神」に縋れと言う訳ではない。天地に法則し,その変化に随って針を施せば,響きの声に応ずるが如く,影の形に随うが如き療効が得られる。「何も神秘なことが在るわけではなく,独自の境地に到達する」ことが出来るのである。
 『霊枢・賊風』では,黄帝の「その邪気に遇うことなく,また怵惕の志なくして,卒然として病む者は,その故は何ぞや?これ鬼神の事に因る有るか?」つまり「祟り」ではないかという疑問に対して,岐伯は,これも邪が留まって未だ発しない時に,情志に悪むところ,あるいは慕うところが有って,血気が乱れたことに,有発されたのであって,「その従来するところは微にして,これを視れども見えず,聴けども聞こえず,故に鬼神に似る」に過ぎないと答えている。また,こうしたものを祝由して治すことが有るのも。古代の巫は元々病の相互の克制を知っており,病の発生した原因を理解してアドバイスするからなのであって,ただ闇雲に「鬼神」に縋り,お祈りすれば良いというものではない。
 『霊枢・癲狂』に「多く食し,善く鬼神を見,善く笑う」狂人が出てくる。巫女を頼んで,御祓でもしてもらえば良さそうなものなのに,先ず足の太陰、太陽、陽明を取り,後に手の太陰、太陽、陽明を取れと,指示している。
 思うに,中国超古代に於いても,医と巫は共通する処が多い存在であったであろう。だから,「巫」に従う異体字「毉」が有る。しかし,戦国の諸子百家争鳴の時期を経て,医学が大いに発展し,『内経』の成書を準備する頃には,既に医学の巫術からの独立が行われていたと思われる。『五蔵別論』の「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」は,その宣言である。
 『史記・扁鵲倉公列伝』には,「巫を信じ医を進ぜざるは,六の不治なり」の句が有る。篇首の部分に,長桑君に貰った薬を「上池の水」で飲んで,「垣の一方の人」が見えたりする話が載っているので,我々は扁鵲を神秘的な者と考えがちであるが,山田慶児の著『夜鳴く鳥』に紹介された『韓詩外伝』に於ける扁鵲の伝説は,これと少しイメージが違う。虢侯の世継ぎが急病で亡くなったので,扁鵲が治療を申し出る。
側仕えの庶子が出てきて,こういった。
「わたしの聞いたところでは,上古に弟父という医者がいました。弟父の治療のやりかたといえば,莞で席をつくり,蒭で狗をつくり,北を向いて呪文を唱え,十語ほど口にするだけです。抱きかかえられたり輿に乗ったりしてやってきたひとたちも,みな平復してもとの体にもどりました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
さらにいった。「わたしの聞いたところでは,中古に踰跗という医者がいました。踰跗の治療のやりかたといえば,木を磨いて脳をつくり,芷草で躯をつくり,孔に息を吹きかけると脳ができあがって,死者は甦りました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
ここに見られる扁鵲の医術は,御祓でもお呪いでもない。『韓詩外伝』の著者の韓嬰は紀元前二世紀中葉の人であるが,この時代に既にこうした醒めた「名医」伝説も存在し得たのである。
 張介賓は「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」の解説に,「巫を信じ医をぜざるは,六の不治なり,とは即ち此れをこれ謂う」と言い,『素問識』も『黄帝内経素問講義』も『素問攷注』も皆これを引く。古来,『素問』と『史記』のこれらの句は互いに補注を為すものと考えられていたと言うことであろう。
 『移精変気論』に「惟だ精を移し気を変じ,祝由して已ゆべし」と言う。「祝由」という詞は,この篇に三次出現するのみである。『黄帝内経詞典』には「古代の符咒祈祷を用いて病を治す方法」と説明する。つまり,巫の領域である。『移精変気論』という篇名を怱卒に読んで,「病の原因を祈り説き伏せることにより,針石を用いること無く癒やせる」方法が書かれていると期待する者も有るが,実のところは「今時そんなものでは病気は治らない」と言うのである。この篇で強調しているのは,早期治療の重要性であり,色診、脈診、問診の重要性という医学として当たり前かつ至極まっとうなことが書かれているに過ぎない。
 『湯液醪醴論』にも,上古には薬を作っても,飾っておくだけで実際に服用する必要は無かったなどという夢物語が書いてある。これにも実は「当今の世は,必ず毒薬を斉して其の中を攻め,鑱石,針艾もて其の外を治す」必要が有ると続けている。
 ただ『霊枢・官能』に「疾毒言語人を軽んずる者は,唾癰呪病せしむ可し」と言う。「呪病」を『太素』は「祝病」に作る。これから見れば「祝由」もまた『内経』医学の一部ではあるかも知れぬ。とは言え,もとより中心では有り得ない。
 さて『移精変気論』に,上古は「此れ恬憺の世,邪深く入ること能わざるなり」と言い,『湯液醪醴論』には,暮世には「精神進まず,志意治まらず」と言う。ここから『上古天真論』の「恬憺虚無なれば,真気これに従い,精神内に守る、病安んぞ従い来たらんや」が導き出される。
 『内経』には幾篇かの養生に関するものが有るが,『類経』では一巻を摂生類とし,『素問』の『上古天真論』『四気調神大論』を収め,現代中国の高等医薬院校教材『内経講義』の養生の項は『上古天真論』『四気調神大論』から採る。『内経』中の養生文献の代表をこの二篇として良いだろう。この二篇を全元起本『素問』では末巻に置く。この点に関しては,喜多村直寛の評「夫れ神仙不死の説は,実に医家の謂う可きに非ず。然して漢世方術本草を以て並び称するときは,則ち道流の言,或いは相い混じて我が医の一端と為る。是を以て前人取りてこれを内経中に編ず。猶お本草は薬性攻効を論ずるの書にして,軽身延年を以てこれに附すがごとし。果たして旧本の如く,却けて末巻に在るときは,則ち固より全璧に害無きなり。今王氏乃ち此れを以て諸篇の端に掲げるときは,殆ど冠履転倒し,薫蕕相い反し,特に尊経の意を失す」が概ね妥当なところであろう。
 『内経』の原型の成立を戦国時代の末とし,それは「医の巫からの独立宣言書」としての性質を持つと考える。ところが,ほぼ同時期には神仙説も起こっている。斉の威王、宣王,燕の昭王,秦の始皇帝,漢の武帝などが,その中心である。恐らく,神仙説は先ず諸侯とか黄帝といった高い地位にある人々,即ち栄耀栄華をつくし快楽を満喫している者たちが,何時までもそれを続けたいと望むところに付けいったと思われる。それから次第に一般の人達に広まっていった。西漢は,武帝の膨張政策の破綻による政治の乱れ,外戚や豪族の勢力争いを経て,䜟緯説を利用した王莽の簒奪によって終わる。東漢を興した光武帝も,䜟緯説を愛好し利用している。当時の神秘嗜好の風潮が伺われる。東漢には『論衡』の王充の様に神仙説的な養生術を批判した者も有るが,これはあくまで異端であり,一般的風潮は逆のものであった。東漢もやがて政治的混乱,村落共同体の崩壊を通して,社会不安を醸成すると,太平道とか五斗米道とかの「道教的宗教集団」を生む。その実体は治病であった様であるが,その内容は「符水」とかお呪いで,短期間に治った者を信仰が篤いと褒め,なかなか治らない者の不信心を責めるというのだから,医学としては堕落と言わざるを得ない。また南北朝の文人の間に於ける養生の流行には,我々の想像を越えたものが有る。これが『素問』の性格に影響を与えたことは間違い無い。(『素問』諸篇中には,南北朝の時期の作品も有るとされている。)更にまた現存の『素問』は唐の王冰の大規模な改定を経ている。唐代には道教が崇められていたし,王冰自身も道教の愛好家であった。王冰序では「故に動ずるときは則ち成る有り,猶お鬼神の幽賛するがごとし」と言って,「鬼神」を蔭ながら助けてくれる神秘的なものとして期待する様に成ってしまっている。
 まとめると,戦国時代の「医の独立」を,民衆の神秘嗜好と養生の流行が変質させたものが今の『内経』であると考える。祝由は勿論のこと,養生や最近流行の「気功」が『内経』の本質に存在するかどうかは大いに疑問である。旧中国の読書人が『素問』を愛好したのも,昨今の西洋医,あるいは半可通が,神秘的なもの,あるいは割り切れないものとしての中国古代医学に憧れを抱くの,本当は的外れなのではあるまいか?
 

琴ヶ浜枕合戦記

 石田秀実さんが,ついにお亡くなりになりました。
 氏の体調不良と居住地の関係で,もう随分と永いこと,お会いする機会がありませんでした。一番親しくしてもらっていたのは,もう四半世紀も前のことです。そのころは日本内経医学会の夏季合宿にも,来てもらったりしてました。その時の報告はわたしが書いてました。ここに再録して,追悼記事の一つとします。



 『内経』は尽く解し難し。内経医学会員すでに『中国医学思想史』の成るを知り,上梓に応じて皆争い購う。著者石田教授乃ち真鶴に赴く。諸兄諸姉迎えて状を問う。石田教授笑って曰く。
「卿等,まさに“もう一つの医学”を見るべきのみ」と。
 一堂皆どよめく。すでにして会長,美術館に行きて居らず,問者もまたあるいは麦酒を飲みて酔い,あるいは長途に疲れて臥す。司会鉤してこれを集め,諸兄諸姉を併せて階下の大広間に致す。

 さて何時ものことながら,時間通りには始まらない。
 最初は**女史によって,『素問紹識』序文の疑問が提出された。これは通称「水曜部会」の和訓の能力を露呈するものである。原塾以来,医古文読解力の習得には熱心であったが,漢文の勉強をした者は少ない。部分否定と全否定を取り違えたのと,熟語を分解してしまう失敗が有ったくらいで,結構まともな和訓に成っていた。とは言え,この調子で『素問紹識』全文の和訓を完成するのは……道遠し。詞滙も実によく調べてあった。姚氏の世系も,『中国人名大辞典』によって傍らの訂正を是とするところまでは良かったのだが,九仞の功を一簣に缺いて、『大漢和辞典』を紐解くのを怠った。石田氏によって諸橋『大漢和』の索引としての效用を指摘され,これはヤッパリ海賊版でも手に入れずばなるまいか,と。石田氏が,その他の疑問中の『古今黈』を,ひょっとしたら王冰の引書の一つかも,と口を滑らしたのは御愛嬌。
 次は**大人が,『内経』の「請」字にこだわった。質問されて答えるのに「請う言う」とは変だと言うのだが,これは単に丁寧さを示す為のものと考えて良かろう。石田氏も,あんまり細かい所ばかりにこだわるのはどうも……と忠告された。原塾に医古文を取り入れて以来,経文解釈は少しは深まったかも知れぬが,大掴みにするのを閑却する傾向が出て来たか?考えてみると,中国の古典教育には「医古文」と「内経講義」という両輪が有る。昔の我々は医古文なしの「想像力」による「内経読み」であったが,今は医古文にこだわるあまり,全体を連続的に捉えることを忘れて部分に分けたがる傾向に陥っていたかも知れぬ。ただ「請著之玉版」の類を「拝受して……」と訓むのは佳いかも知れないと言われた。やはり,大人,ころんでもタダは起きない。
 **道人は,諸子百家と『素問』『霊枢』の関係に触れた。抄録だけ見たのでは,医学とどんな関わりが有るのだろうか,とも思ったが,経穴名の解釈の準備の一つと言われて納得。石田氏から,資料の選択と,取扱いについての注意があった。やはり漢学を専門とする者との溝は広く深いのであろうか?道人にして,この通りである。他は推して知るべし。やんぬるかな!
 さて神麹斎は,夏向きに幽霊の話,『内経』の鬼神についての漫談を一席。『内経』には「鬼神」という詞語は五度出現するが,その何れにも,鬼神に縋って治療しようなどとは書いてない,とここまでで止めておけば良いものを,オッチョコチョイの悲しさ,田舎に閑居する者が聞き手を得た嬉しさにチョロッと口を滑らした:
 戦国時代に巫から独立を果たした『内経』医学は,少なくとも六朝の養生趣味と唐代の道教愛好の影響を強く受けていると思われる。これが進歩なのかそれとも先祖返りであるかは難しいところであり,「祝由」は無論のこと,養生や最近流行の「気功」が,『内経』の本質に存在するかどうかも大いに疑わしいと思っている。
これには石田氏も黙ってはいられない。それはそうだろう,折角挑発したのだから少しは乗ってくれなくちゃ。石田氏の意見は『中国医学思想史』に詳しいから下手な抜き書きは省くが,道教的な要素を排斥するのは「先祖返りである」とはウマイ!(注:『内経の鬼神について』の原稿は,『中国医学思想史』を入手する前に書き上げてます,念のため。)

 夜は当然,大酒宴。大いに白熱して,甲子園戦争からPKO敬遠に及ぶ。
 お蔭で,次の日は二日酔いで度々中座したので,『中国医学思想史』の著者に聞くは,ろくに聞いてなかったので省きます。ただ,もう少し精読してこないと,歯が立たないと言うか,著者に失礼というか……。

 石田さん,これに懲りずにまたよろしく。朝,「お嫌いな気功をしに行きます」と言われたのには参りました。別に気功が嫌いなわけではありません。中国医学書の棚が「気功」書に新色されるのに舌打ちしているだけです。

 PS.「幽霊を怖がるからには,幽霊の存在を信じろ」という論法は嫌いです。(幽霊話は好きです,念のため。本気で信じている人には困ります。)
 標題の由来は,分かる人には分かります。後日,張本人の一人が「平和を種に,暴力的に話したのがオモシロイ」と申しておりました。

 このころはまだ,島田前会長も井上先生も,お元気だったんだ。

2017年9月11日 星期一

明無名氏本『霊枢』

『新刊黄帝内経霊枢』(日本内経医学会影印内藤湖南旧蔵本)を底本とした校注本を見つけた。これで二件目である。柳長華主編,顧漫点校。中国で,明無名氏本が優れているから使うという先生は,むしろ珍しい。

古林書堂本と趙府居敬堂本を主校本とし,『太素』と『甲乙』を旁校本として,整理方法をおおよそ下のように説明する。
1.およそ底本、主校本の文字が一致してしかも誤ってなければ,底本の文字を改めたりしないし,説明もしない。
2.およそ底本、主校本の文字に違いがあれば,その違いを出校説明する。もし底本の文字が誤っているのが明らかであり,証拠が充分であれば,底本の文字をただちに改める。もし底本の文字に誤りがないかあるいは是非を確定しがたいものは,底本の文字は改めず,校記中にその異文を示すにとどめる。
3.およそ底本、対校本(定義の説明無し?)の文字が同じであっても,文理が明らかでなかったり誤りの存在を疑われたりするものは,旁校本をひいて考察する。出校の煩瑣を避けるため,およそ底本に明らかな誤りがあり,理によって断定できるものは,正文をただちに改め,同時に小注をもって改めた底本の原文を,“( )”を用いて示す。底本原文の小注は,一号小さい字体で区別する。およそ底本に脱文の疑いがあり,旁校本によって正したものは,補った文字に“[ ]”を用いて示す。凡そ底本の原文に衍があり,旁校本によって削ることができるものは,正文をただちに削り,その根拠を校記に出す。凡そ底本の原文に倒錯があり,旁校本によって乙正できるものは,正文をただちに改め,乙正した根拠を校記に出す。もし是非を定め難い場合は,底本の文字は改めず,ただその説を校記に出す。
いかにも,煩瑣を避けるためにはこうあるべきであろう。しかし実際をみると,いや凄まじい。
  凡用针者,虚则实之,满则泄之,宛陈则除之,邪胜则虚之。《大要》曰:徐而疾则实,疾而徐则虚。言实与虚,若有若无;察后与先,若亡若存(若存若亡);为虚为实,若得若失。虚实之要,九针最妙,补泻之时,以针为之。写曰[迎之,迎之意]必持[而]内之,放而出之,排阳出(得)针,邪气得泄,按而引针,是谓内温,血不得散,气不得出也。补曰随之,随之意若忘(妄)之,若行若按①,如蚊虻止,如留如还,去如絃绝,令左属右,其气故止,外门已闭,中气乃实,必无留血,急取诛之,持针之道,坚者为宝。正指直刺,无针左右, 神在秋毫,属意病者,审视血脉②,刺之无殆。方刺之时,必在悬阳,及与两衡(卫)。神属勿去,知病存亡。[取]血脉者,在腧横居,视之独满(澄),切之独坚。 
  ①按:《太素》卷二十一《九针要道》及《素问・离合真邪论》王冰注引《针经》皆作“悔”。
  ②脉:下原有“者”字,据《甲乙》《太素》删。
大丈夫かね。
いや,改変の理由を書かなくても大丈夫か,という意味ですがね。
この本は初心者向きなんだろうか,それとも,ある程度の判断力がある中級者向きなんだろうか。

2017年8月15日 星期二

廷孔

「壬」は漢音でジン,呉音でニンです。『漢辞海』にはそう載ってます。
ところが,小篆では2種類あって,ジンとテイだと指摘されました。いわれてみると廷の声符としてはテイでないと困る。

そこで『説文解字』をみてみると,「壬,善也。从人士。士,事也。一曰象物出地挺生也。」と有りました。段玉裁は壬挺疊韵といってますから,多分,あとの一曰がテイなんでしょう。もともと別の字なのかも知れない。下部が士の字(壬ジン?)と土の字(𡈼テイ?)。
『漢辞海』の親字は廴に壬ですが,異体字として廴に𡈼も載せている。「なりたち」の項には,「𡈼」が音とある。それ以上の説明は無い。『漢辞海』(第3版)の音訓索引テイに「𡈼」は無い。
『新字源』では「𡈼」(テイ、チ、チョウ)と「壬」(ジン・ニン)の双方を載せてます。無論,意味も異なる。
「廷」は𡈼の声であって,壬の声の「任」とは関係ない,と言うべきだったかも知れない。
でも,漢字の形って信用ならない,というお話でもあったわけで……。

廷孔ねえ,天子が諸官に引見する庭への孔というより,脣シンに関わるなにかのほうが,古代中国人の発想に叶いそうなんだが。

☞壬の声

2017年8月14日 星期一

ごシンセツなフリガナ

浅野裕一さんの『儒教 ルサンチマンの宗教』(平凡社新書 1999年)が,『儒教 怨念と復讐の宗教』と改題されて,講談社学術文庫に入った。出土文献の発見が相次いで,かなりの数の論文を執筆し,研究も進展,その結果を踏まえて,若干の補足を加えることにした,とのことで,再購入せずばなるまい……,と。
で,『中庸』という書物に関して,
……「中庸」とか「誠」といった倫理を説くための著作と考えられてきた。……
の「誠」に,前はわざわざ「せい」とフリガナがあったが,今回は「まこと」になっている。考えが変わったんだろうか,何か深遠な意味があるんだろうか。無いんだろうなあ,多分。

2017年7月21日 星期五

子有と子路

……さて孔子は答えた。冉求は引っ込み思案だ。だからすぐ実行しろと推進した。仲由は出しゃばりだ。「兼人」の二字は、はっきりした訓詁を欠くが、そうした方向の意味にちがいない。だからおさえた。……(『論語』下・先進第十一 著者:吉川幸次郎 朝日新聞社発行)


2017年7月14日 星期五

その人に非ざれば……

魔女狩りだ!って騒いでいる親爺さんがいるらしい。
だけど,悪い魔女は狩るべきです。
問題はその名をかりて,むしろ聖女というべきものを狩ることに在る。

未だに,欧米には,自ら魔女であると称するものがいるらしい。
わたしは善い魔女である,と。

どうやって魔女になるのか。
その素質が有るものが,修行してなる。
その人に非ざれば伝えること勿れ。

その人とは,
たとえば,電線にとまった雀は何羽か,と問われたとする。
端から数える人は科学者を目指せば良い。
一目見て,何羽と(ある意味で無責任に)応える人が魔女に向いている。
むかし読んだ魔女の入門書に,そう書いてあった。

2017年7月2日 星期日

行けるうちに行っておけ

むかしむかし,まだ上海にいたころ,島田先生の患者さんで書家の藤木さんが,お弟子さんをつれて遊びにきた。たしか二度。その二度目のことだったと思うけど,先ず列車で紹興へ,紹興から杭州へ,そして杭州から蘇州へ,蘇州から上海経由で帰国。(順序はうろおぼえ。)列車の手配が大変でした。
紹興では,書家ですからね,当然ながら蘭亭へ行きたい。でも当時は交通機関が十分でなくて,前日に予約しておいたはずなのに,その日になってタクシーの手配ができてない。ホテルのフロントで,明日ならなんとかすると言われたって,明日は特急(?)の切符を苦労して手にいれている。押し問答のすえ,あっちこっちに電話してくれて,まあ何とか蘭亭まで行けました。
蘭亭の周囲は田んぼで,タクシーは道路脇に停めて,わるいけど後は歩いてくれと。まあ,バス停から田んぼ越しに見えるという程度の距離だから問題は無い。うわさどおりの流水に,うわさどおりの鵞鳥がガアガアいってました。
なんで,そんなに食い下がったかというと,藤木さん,入院して,回復しての小康状態だったから,次の機会にはなんとかする,というわけにはいかないと思った。実際にはそれから結構長く元気だったけれど,こちらが怠惰で,もう一度もう一度とせっつかれたけれど,やっぱり次というわけにはいかなかった。おしいことをしたと思うし,悪いことをしたとも思う。
タクシーの運転手は,タクシーの横で煙草を吸いながら待っていた。口数は少ないけど,親切な若い人だった。料金を支払うときになって,無事に蘭亭見学もできたし,さりげない親切が嬉しかったので,チップを渡そうとしたら毅然として断られた。そして領収書が要るだろうから寄り道をする,と。なんと市役所でした。つまり,市の公用車を無理に手配してくれたみたい。
当時の中国の若いお役人には,生真面目な人がけっこういたんです。
蘭亭は,すくなくとも当時は,観光ズレしてなくて,いいところでした。
あんまり写真も残ってないんだけど,たぶんそのときのもの。たぶん,三十年くらい前。どこの街角かはさだかでない。関係ない人が勝手にポーズをとっている。当時もひょうきんものはどこにでもいた。