『素問』脈要精微論に「心脈搏堅而長,當病舌巻不能言;其耍而散者,当消環自已」とあるが,邵冠勇『中医古籍校読法例析』では,「環」は「旋」に通じ,速也,俄頃之間であるから,「心脈搏堅而長,當病舌巻,不能言;其耍而散者,当消,環自已」と句読すべきであるという。また,『素問』診要經終論に「中心者環死」とあるのは,「たちまち死す」であり,「甚者伝気,間者環也」とあるのは,新校正引く『太素』によって「環已」に改めるべきであり,「たちまち已ゆ」であると考証を補強している。
邵教授の考証は見事なようだが従い難い。新校正に引く『甲乙』も仁和寺本『太素』も,「消渇」に作る。これは無視すべきでない。五蔵および胃の脈が「揣堅而長」と「耎而散」である場合の病を列挙している。「当消」だけでは,いかにも他との釣り合いが悪い。ここはやはり,「当病消渇」であるべきだろう。『脈経』では現にそうなっている。
いっそのこと「当消渇,環自已」ではどうだろう。
「自已」の二字が衍文なんだという説もある。しかし,「耎而散」のほうには,どんな病になるかと,それからどうなるかを説くことが,心脈の他に,肺脈と腎脈とにある。「至今不復散発」と「至今不復」。「今」は「令」の誤りともいわれるが,『太素』を証拠に持ち出すのは拙い。仁和寺本を子細に見れば,やはり「今」である。自ずから已ゆ,今に至るも復せず散発す,今に至るも復せず,ではいけないんだろうか。今になっても回復しないのを「至今不復」,ときどき発作がおこるのを「散発」と書くのは,いささか心許ないのか。
でも,「たちまち自ずから已える」というのも,何だかぎこちないような気がする。
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