2014年9月22日 星期一

応該 不要

『霊枢』本輸篇に:
 刺上關者,呿不能欠;刺下關者,欠不能去。
 刺犢鼻者,屈不能伸;刺兩關者,伸不能屈。
とある。短い文章だが,ここにはおおよそ3つの問題が有る。
①針刺の際に,そんなとこを刺したら不都合が生じるというのか,それともそうしなければ穴が取れないというのか。
②呿と欠は反対の動作であるべきなのに,ほとんど同義である。後のほうの去が呿の誤りであるのは勿論だが,欠も何かの誤りではないか。
③犢鼻とか両関とかいうのは,具体的にはどの穴のことなのか。膝の犢鼻穴と手首の内関と外関では,離れすぎてないか。

①「不能」の2字を,「すべきでない,そうしてはいけない,そうしたのでは上手くいかない」と訓むことができるのなら,やはり取るべき姿勢と考えたい。『甲乙経』巻3耳前後凡二十穴に,上関は「開口有孔」,下関は「合口有孔,張口即閉」とある。「屈不能伸」は,わたしらの感覚では「曲がっちゃって伸ばせない」と解するのが当たり前だと思うが,取るべき姿勢という注釈家のほうがむしろ多いからには,「曲げなきゃダメ,伸ばしちゃダメ」も有り得るんだろうなあ。漢語は難しい。辞書には一応,「能」の基本字義のうちに「応該」というのは載っていた。応該張口,不要閉口。要もまた応該である。
②呿は,大口を開ける。欠は,もともとは大あくび。下の去は明刊未詳本『霊枢』の誤りで,上と同様に呿のはずである。口偏が脱落したのである。とすれが,欠にも口偏を補ってはどうだろう。呿は張口の貌,吹は撮口して気を出す,釣り合うと思うが。
③犢鼻は,わたしたちが知っている足陽明の犢鼻穴ではあるまい。『甲乙経』に,陽関が陽陵泉の上三寸で犢鼻の外の陥中に在ると言うばかりでなく,膝関が犢鼻の下二寸の陥中に在るとも言う。つまり犢鼻は膝頭を挟んで左右に二つ有る。だから,『太素』では内関に作るが,やはり両関のほうがいい。で,つまり,二つの犢鼻穴の近くに在る陽関穴と膝関穴であろう。残念ながら,『甲乙経』には針刺の事故の注意も,姿勢の指示も無い。

2014年9月15日 星期一

中国古代医学における「気」とは何か?

おそらく,一番平俗には,「病は気から」というあれだろう。
要は,「気持ち」の持ちようである。
ついで,血が循環する管が有るように,気が循環するナニモノかが有るはずだ,という言い方。そのナニモノかを現代西洋医学は未だに知らない。でも,有るはずだ。つまり,何がどこを循っているのかはようわからんが,血の他に何か特別なものが流れているはずだ。
それともう一つ,目の前の人は,確かに固体として見えているが,実は大部分は液体として流れているんだし,本当は気体としてわだかまっているんだとする。固体か液体か気体か,と目先のことを言うけれど,生きた存在であるからには,本質は融通無碍な気体であると考えるべきじゃないか。今たまたまかなり凝集して,可視化して,そこに見えている。その気体としてのあり方が正常であれば健康であり,おかしなことになっていれば病である。
自ずから然るべく流動している,といっても,地上の水なら高きから低きへでいいけれど,人体においては,どう動いているのが自ずから然るありかたなのか,それがようわからん。そこで,ああじゃないか,こうじゃないかと囂しいわけだ。
自ずから然り,というルートは有ると思う。だけど,そうした管や溝が有るわけじゃ無いとも思う。だから,経絡は有りますと言うべきか,有りませんと言うべきか,未だによう判らん。