2017年11月27日 星期一

夕暮れに

むかしむかし,多分まだ三十代のころだと思うが,私鉄終着駅の夕暮れに,公衆トイレから,自宅へ帰るバスの待合室にもどったとき,なんだか妙な旅愁を感じた。がらんとした殺風景の,人の気配の薄い部屋に,あかりが灯っているだけのことだ。なんだか中国の地方駅に,一人旅で降り立ったときの気分に似ていた。
こんな気分を自在におこすことができるのなら,人生はもうちょっと興あるものになろうが,如何せん,修行が足りない。むかしむかしのそんな気分を未だに憶えているということは,それからあんまりそんな気分になったことがない,ということだ。

2017年11月26日 星期日

玉不磨不亮 石磨也不亮

  好久以前,一箇玉工上山尋找璞玉,發現一塊精光燦爛、温潤晶榮的,估量它是塊難得的寳玉,心裏非常高興。他帶着它回家,熱情地琢磨。這箇璞玉越磨越亮,果然成了恨美麗的寳玉。
  隣居一箇農民看了玉工的成功,就羨慕得了不得,馬上上山找石頭。他看見一箇比較美麗的石頭,就高興地拿着它回家,使勁地磨。隣居們覺得奇怪,走過去問:“你在干甚麼呀?”農民回答説:“我要磨一塊寳玉,只要我天天磨,石頭就會越磨越光滑,怎麼磨不成寳玉呢!”可是,這箇石頭越磨越少,到底磨不成寳玉。所以大家笑着説:“玉不磨不亮,石磨也不亮。”
  這箇故事告訴我們,第一,各人的本領有所不同,第二,沒有才能的努力往往沒有収穫。

  《外経》第六号(1992年)前言
錄自:歡呼鳥《支那成語新解》

2017年11月25日 星期六

X ing(進行形)

弦をはなれた箭にとって,宙に浮いて飛んでいることが全てである。
やがて獲物をつらぬくか,的に中るか,
はたまた地に落ちるかは,箭の知ったことではない。
あるいは,地に落ちたものこそが,飛びきった箭,というものかも知れない。
どうせ何時かは地に落ちるのに,どうして飛ぶのか。
箭の知るところではない。
知っているはずの何者かがいることを,箭は知らない。
(いないのかも知れない。)
飛んでいるから,箭である。
ただ飛んでいるだけの箭が,最も幸せな箭である,らしい。
飛んでいること自体は,それだけは,楽しいはずのものだ。

2017年11月24日 星期五

ボウボウとして

盲盲―茫茫(沈澍農主編『敦煌吐魯番医薬文献新輯校』総論より)
 S.5614第118行:「尺中脈陰実者,腎実也。苦恍惚,善妄[忘],目視盲=[盲],耳龍[聾]日=[日]鳴。」
 上の例文中の「盲盲」は,諸本に未だ校注がない。しかし実際には中医古籍中に多くの類似の用例が見られる。例えば:
 『医心方』巻五第十三に『千金方』に,「治目茫茫不明如年老方。」と云う。
 『外台秘要』巻十六『肝労虚寒方』に,「療肝気虚寒,眼青盲,𥇀𥇀不見物,真珠煎方。」と云う。
 これに因れば,「盲盲」「茫茫」「𥇀𥇀」は相同語境の異文という関係を構成する。「茫茫」が最初の詞形であり,模糊として不明瞭の義がある。「茫茫」から分化して「目」旁に改めれば,すなわち「𥇀𥇀」となる。「𥇀」は「目」旁で「芒」声であり,「盲」は「目」旁で「亡」声である。両者の形符は同じで根声符もまた相同であるから,「盲盲」と「茫茫」「𥇀𥇀」は本質的に同一の詞の異なった書き方である。古医籍に常見の書き方「𥆨𥆨」,また草冠が加わるものも,音義が通じる。通常用いられる盲人の「盲」は同字ではなく,たまたま同形というにすぎない。『脈経』巻十七第一の同条には正しく「䀮䀮」に作っている。

いやなに,黄龍祥さんの『大綱』にも,𥇀䀮𥉂𥆨は登場するようで,統一すべきか,どれに統一しようかと頭を悩ますわけだけれど……,というお話。
それにしても「𥆨」に草冠というのは,ユニコードの拡張領域にも見つからなかった。けれど,いやよくまあこれだけ異体字をそろえてくれたねえ

2017年11月22日 星期三

草魚はオイシイか

象牙のまるのままは勿論,印鑑や工芸品までも,ネットオークションに出品するのを拒否するのだそうだ。まあ,考えてみれば当然かも。

池を干して,外来のソウギョは駆逐するんだそうだ。池に水は,またもとどおり満たすのだけど,ソウギョを戻すのは禁止!まあ,考えてみれば当然だろう。

しかし,ソウギョは,納得しないだろうなあ。

象牙は美しい。草魚は美味しいか。

2017年11月18日 星期六

2017年11月16日 星期四

比較しない脈診

……十一ないし十二の脈の一つ一つには、「動脈」と呼ばれる搏動部がある。ある脈の状態を計測するうえで最もシンプルで確実な方法は、この一つ一つに触れてみることだろう。十二経脈脈診(『足臂経』と『陰陽経』の場合は、十一経脈脈診法)とはこうした脈診法である。しかし、この脈診法は確実だが煩瑣なうえ、十二脈すべてを比較するとなると現実にはかなり困難であったため、より簡略な方法にその座を奪われたらしく、医経(『素問』などの医学の経典)のうちにはわずかな痕跡を残すだけである。……(『中国医学思想史』)
なんで「十二経すべて」を気にするのか。医学のまなざしを保持しているほどのものであれば,おおよその雰囲気は,触れる前に,つかんでいるのじゃないか。疑わしい幾経かに触れてみれば十分だろうに。
なんで「比較」しようとするのか,何と「比較」しろというのか。触れたその動脈自体に違和感を覚えれば,それに素直に対応すればよかろうじゃないか。

結局,意外とシステマチックな,明快な医学を考えているのと違うか。


2017年11月15日 星期三

過が有る脈

『素問識』の脈要精微論に「有過之脈」という項が有って,馬蒔と張介賓が引かれている。
馬云。蓋人之有病。如事之有過誤。故曰有過之脈。全經倣此。
張云。有過。言脈不得中。而有過失也。
病は過誤であるという。分からないのは「全經」,経典のどこでもそうした意味として病をとらえているというのか,それとも全ての経脈についてそういえるとするのか。『素問』の全篇を通して他に有過について述べた箇所はなさそうである。しかし,全ての経脈についてとなると,十二経脈脈診でもしていそうだが,脈要精微論にそれらしい記述が有ったろうか。
病が過誤であるとして,過とは何か。中を得ずという。してみれば,中ならざる過と失,つまり過ぎたると及ばざるとではないか。

2017年11月12日 星期日

『内経』の鬼神について

『外経』第九号 1992年8月23日発行
日本内経医学会 季合宿 に於いて

 夏に相応しく幽霊の話をしよう。漢語では幽霊のことを「鬼」と言う。『説文・九下』には「人の帰するところを鬼と為す。儿に从い甶は鬼頭に象り厶に从う。鬼は陰気賊害す,故に厶に从う」とある。白川静は「鬼はもと人屍の風化したものを称する語であろう」と言い,鬼神の鬼には示に从い,その手に祝祷の器である口を加えたものが有ると言う。つまり幽霊をお祭りするのである。また,『説文・一上』には「神は天神なり,万物を引き出すものなり。示に从い申の声」というが,白川静は「神」の初文が「申」であり,「電光が斜めに屈折して走る形で,神威のあらわれるところ」と言い,幽霊に対する自然神であると言う。後に祖霊が昇天して上帝の左右に在ると考えられるようになってからは,「神」に祖霊をも含むようになった。つまり,上等な幽霊はまた「神」とも言う。合わせて「鬼神」と言う。
 『内経』には,鬼神が五次出現する。即ち:
  拘於鬼神者,不可与言至徳。(『素問・五蔵別論』)
  道無鬼神,独来独往。(『素問・宝命全形論』)
  狂者多食,善見鬼神,善笑而不発于外。(『霊枢・癲狂』)
  唯有因鬼神之事乎。(『霊枢・賊風』)
  其所従来者微,視之不見,聴而不聞,故似鬼神。(同上)
『素問・宝命全形論』に,「末世の刺法」は,ただ虚するものを補(実)い,実(満)するものを瀉(泄)すという当たり前のことしかしないと罵っているが,だからと言って「鬼神」に縋れと言う訳ではない。天地に法則し,その変化に随って針を施せば,響きの声に応ずるが如く,影の形に随うが如き療効が得られる。「何も神秘なことが在るわけではなく,独自の境地に到達する」ことが出来るのである。
 『霊枢・賊風』では,黄帝の「その邪気に遇うことなく,また怵惕の志なくして,卒然として病む者は,その故は何ぞや?これ鬼神の事に因る有るか?」つまり「祟り」ではないかという疑問に対して,岐伯は,これも邪が留まって未だ発しない時に,情志に悪むところ,あるいは慕うところが有って,血気が乱れたことに,有発されたのであって,「その従来するところは微にして,これを視れども見えず,聴けども聞こえず,故に鬼神に似る」に過ぎないと答えている。また,こうしたものを祝由して治すことが有るのも。古代の巫は元々病の相互の克制を知っており,病の発生した原因を理解してアドバイスするからなのであって,ただ闇雲に「鬼神」に縋り,お祈りすれば良いというものではない。
 『霊枢・癲狂』に「多く食し,善く鬼神を見,善く笑う」狂人が出てくる。巫女を頼んで,御祓でもしてもらえば良さそうなものなのに,先ず足の太陰、太陽、陽明を取り,後に手の太陰、太陽、陽明を取れと,指示している。
 思うに,中国超古代に於いても,医と巫は共通する処が多い存在であったであろう。だから,「巫」に従う異体字「毉」が有る。しかし,戦国の諸子百家争鳴の時期を経て,医学が大いに発展し,『内経』の成書を準備する頃には,既に医学の巫術からの独立が行われていたと思われる。『五蔵別論』の「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」は,その宣言である。
 『史記・扁鵲倉公列伝』には,「巫を信じ医を進ぜざるは,六の不治なり」の句が有る。篇首の部分に,長桑君に貰った薬を「上池の水」で飲んで,「垣の一方の人」が見えたりする話が載っているので,我々は扁鵲を神秘的な者と考えがちであるが,山田慶児の著『夜鳴く鳥』に紹介された『韓詩外伝』に於ける扁鵲の伝説は,これと少しイメージが違う。虢侯の世継ぎが急病で亡くなったので,扁鵲が治療を申し出る。
側仕えの庶子が出てきて,こういった。
「わたしの聞いたところでは,上古に弟父という医者がいました。弟父の治療のやりかたといえば,莞で席をつくり,蒭で狗をつくり,北を向いて呪文を唱え,十語ほど口にするだけです。抱きかかえられたり輿に乗ったりしてやってきたひとたちも,みな平復してもとの体にもどりました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
さらにいった。「わたしの聞いたところでは,中古に踰跗という医者がいました。踰跗の治療のやりかたといえば,木を磨いて脳をつくり,芷草で躯をつくり,孔に息を吹きかけると脳ができあがって,死者は甦りました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
ここに見られる扁鵲の医術は,御祓でもお呪いでもない。『韓詩外伝』の著者の韓嬰は紀元前二世紀中葉の人であるが,この時代に既にこうした醒めた「名医」伝説も存在し得たのである。
 張介賓は「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」の解説に,「巫を信じ医をぜざるは,六の不治なり,とは即ち此れをこれ謂う」と言い,『素問識』も『黄帝内経素問講義』も『素問攷注』も皆これを引く。古来,『素問』と『史記』のこれらの句は互いに補注を為すものと考えられていたと言うことであろう。
 『移精変気論』に「惟だ精を移し気を変じ,祝由して已ゆべし」と言う。「祝由」という詞は,この篇に三次出現するのみである。『黄帝内経詞典』には「古代の符咒祈祷を用いて病を治す方法」と説明する。つまり,巫の領域である。『移精変気論』という篇名を怱卒に読んで,「病の原因を祈り説き伏せることにより,針石を用いること無く癒やせる」方法が書かれていると期待する者も有るが,実のところは「今時そんなものでは病気は治らない」と言うのである。この篇で強調しているのは,早期治療の重要性であり,色診、脈診、問診の重要性という医学として当たり前かつ至極まっとうなことが書かれているに過ぎない。
 『湯液醪醴論』にも,上古には薬を作っても,飾っておくだけで実際に服用する必要は無かったなどという夢物語が書いてある。これにも実は「当今の世は,必ず毒薬を斉して其の中を攻め,鑱石,針艾もて其の外を治す」必要が有ると続けている。
 ただ『霊枢・官能』に「疾毒言語人を軽んずる者は,唾癰呪病せしむ可し」と言う。「呪病」を『太素』は「祝病」に作る。これから見れば「祝由」もまた『内経』医学の一部ではあるかも知れぬ。とは言え,もとより中心では有り得ない。
 さて『移精変気論』に,上古は「此れ恬憺の世,邪深く入ること能わざるなり」と言い,『湯液醪醴論』には,暮世には「精神進まず,志意治まらず」と言う。ここから『上古天真論』の「恬憺虚無なれば,真気これに従い,精神内に守る、病安んぞ従い来たらんや」が導き出される。
 『内経』には幾篇かの養生に関するものが有るが,『類経』では一巻を摂生類とし,『素問』の『上古天真論』『四気調神大論』を収め,現代中国の高等医薬院校教材『内経講義』の養生の項は『上古天真論』『四気調神大論』から採る。『内経』中の養生文献の代表をこの二篇として良いだろう。この二篇を全元起本『素問』では末巻に置く。この点に関しては,喜多村直寛の評「夫れ神仙不死の説は,実に医家の謂う可きに非ず。然して漢世方術本草を以て並び称するときは,則ち道流の言,或いは相い混じて我が医の一端と為る。是を以て前人取りてこれを内経中に編ず。猶お本草は薬性攻効を論ずるの書にして,軽身延年を以てこれに附すがごとし。果たして旧本の如く,却けて末巻に在るときは,則ち固より全璧に害無きなり。今王氏乃ち此れを以て諸篇の端に掲げるときは,殆ど冠履転倒し,薫蕕相い反し,特に尊経の意を失す」が概ね妥当なところであろう。
 『内経』の原型の成立を戦国時代の末とし,それは「医の巫からの独立宣言書」としての性質を持つと考える。ところが,ほぼ同時期には神仙説も起こっている。斉の威王、宣王,燕の昭王,秦の始皇帝,漢の武帝などが,その中心である。恐らく,神仙説は先ず諸侯とか黄帝といった高い地位にある人々,即ち栄耀栄華をつくし快楽を満喫している者たちが,何時までもそれを続けたいと望むところに付けいったと思われる。それから次第に一般の人達に広まっていった。西漢は,武帝の膨張政策の破綻による政治の乱れ,外戚や豪族の勢力争いを経て,䜟緯説を利用した王莽の簒奪によって終わる。東漢を興した光武帝も,䜟緯説を愛好し利用している。当時の神秘嗜好の風潮が伺われる。東漢には『論衡』の王充の様に神仙説的な養生術を批判した者も有るが,これはあくまで異端であり,一般的風潮は逆のものであった。東漢もやがて政治的混乱,村落共同体の崩壊を通して,社会不安を醸成すると,太平道とか五斗米道とかの「道教的宗教集団」を生む。その実体は治病であった様であるが,その内容は「符水」とかお呪いで,短期間に治った者を信仰が篤いと褒め,なかなか治らない者の不信心を責めるというのだから,医学としては堕落と言わざるを得ない。また南北朝の文人の間に於ける養生の流行には,我々の想像を越えたものが有る。これが『素問』の性格に影響を与えたことは間違い無い。(『素問』諸篇中には,南北朝の時期の作品も有るとされている。)更にまた現存の『素問』は唐の王冰の大規模な改定を経ている。唐代には道教が崇められていたし,王冰自身も道教の愛好家であった。王冰序では「故に動ずるときは則ち成る有り,猶お鬼神の幽賛するがごとし」と言って,「鬼神」を蔭ながら助けてくれる神秘的なものとして期待する様に成ってしまっている。
 まとめると,戦国時代の「医の独立」を,民衆の神秘嗜好と養生の流行が変質させたものが今の『内経』であると考える。祝由は勿論のこと,養生や最近流行の「気功」が『内経』の本質に存在するかどうかは大いに疑問である。旧中国の読書人が『素問』を愛好したのも,昨今の西洋医,あるいは半可通が,神秘的なもの,あるいは割り切れないものとしての中国古代医学に憧れを抱くの,本当は的外れなのではあるまいか?
 

琴ヶ浜枕合戦記

 石田秀実さんが,ついにお亡くなりになりました。
 氏の体調不良と居住地の関係で,もう随分と永いこと,お会いする機会がありませんでした。一番親しくしてもらっていたのは,もう四半世紀も前のことです。そのころは日本内経医学会の夏季合宿にも,来てもらったりしてました。その時の報告はわたしが書いてました。ここに再録して,追悼記事の一つとします。



 『内経』は尽く解し難し。内経医学会員すでに『中国医学思想史』の成るを知り,上梓に応じて皆争い購う。著者石田教授乃ち真鶴に赴く。諸兄諸姉迎えて状を問う。石田教授笑って曰く。
「卿等,まさに“もう一つの医学”を見るべきのみ」と。
 一堂皆どよめく。すでにして会長,美術館に行きて居らず,問者もまたあるいは麦酒を飲みて酔い,あるいは長途に疲れて臥す。司会鉤してこれを集め,諸兄諸姉を併せて階下の大広間に致す。

 さて何時ものことながら,時間通りには始まらない。
 最初は**女史によって,『素問紹識』序文の疑問が提出された。これは通称「水曜部会」の和訓の能力を露呈するものである。原塾以来,医古文読解力の習得には熱心であったが,漢文の勉強をした者は少ない。部分否定と全否定を取り違えたのと,熟語を分解してしまう失敗が有ったくらいで,結構まともな和訓に成っていた。とは言え,この調子で『素問紹識』全文の和訓を完成するのは……道遠し。詞滙も実によく調べてあった。姚氏の世系も,『中国人名大辞典』によって傍らの訂正を是とするところまでは良かったのだが,九仞の功を一簣に缺いて、『大漢和辞典』を紐解くのを怠った。石田氏によって諸橋『大漢和』の索引としての效用を指摘され,これはヤッパリ海賊版でも手に入れずばなるまいか,と。石田氏が,その他の疑問中の『古今黈』を,ひょっとしたら王冰の引書の一つかも,と口を滑らしたのは御愛嬌。
 次は**大人が,『内経』の「請」字にこだわった。質問されて答えるのに「請う言う」とは変だと言うのだが,これは単に丁寧さを示す為のものと考えて良かろう。石田氏も,あんまり細かい所ばかりにこだわるのはどうも……と忠告された。原塾に医古文を取り入れて以来,経文解釈は少しは深まったかも知れぬが,大掴みにするのを閑却する傾向が出て来たか?考えてみると,中国の古典教育には「医古文」と「内経講義」という両輪が有る。昔の我々は医古文なしの「想像力」による「内経読み」であったが,今は医古文にこだわるあまり,全体を連続的に捉えることを忘れて部分に分けたがる傾向に陥っていたかも知れぬ。ただ「請著之玉版」の類を「拝受して……」と訓むのは佳いかも知れないと言われた。やはり,大人,ころんでもタダは起きない。
 **道人は,諸子百家と『素問』『霊枢』の関係に触れた。抄録だけ見たのでは,医学とどんな関わりが有るのだろうか,とも思ったが,経穴名の解釈の準備の一つと言われて納得。石田氏から,資料の選択と,取扱いについての注意があった。やはり漢学を専門とする者との溝は広く深いのであろうか?道人にして,この通りである。他は推して知るべし。やんぬるかな!
 さて神麹斎は,夏向きに幽霊の話,『内経』の鬼神についての漫談を一席。『内経』には「鬼神」という詞語は五度出現するが,その何れにも,鬼神に縋って治療しようなどとは書いてない,とここまでで止めておけば良いものを,オッチョコチョイの悲しさ,田舎に閑居する者が聞き手を得た嬉しさにチョロッと口を滑らした:
 戦国時代に巫から独立を果たした『内経』医学は,少なくとも六朝の養生趣味と唐代の道教愛好の影響を強く受けていると思われる。これが進歩なのかそれとも先祖返りであるかは難しいところであり,「祝由」は無論のこと,養生や最近流行の「気功」が,『内経』の本質に存在するかどうかも大いに疑わしいと思っている。
これには石田氏も黙ってはいられない。それはそうだろう,折角挑発したのだから少しは乗ってくれなくちゃ。石田氏の意見は『中国医学思想史』に詳しいから下手な抜き書きは省くが,道教的な要素を排斥するのは「先祖返りである」とはウマイ!(注:『内経の鬼神について』の原稿は,『中国医学思想史』を入手する前に書き上げてます,念のため。)

 夜は当然,大酒宴。大いに白熱して,甲子園戦争からPKO敬遠に及ぶ。
 お蔭で,次の日は二日酔いで度々中座したので,『中国医学思想史』の著者に聞くは,ろくに聞いてなかったので省きます。ただ,もう少し精読してこないと,歯が立たないと言うか,著者に失礼というか……。

 石田さん,これに懲りずにまたよろしく。朝,「お嫌いな気功をしに行きます」と言われたのには参りました。別に気功が嫌いなわけではありません。中国医学書の棚が「気功」書に新色されるのに舌打ちしているだけです。

 PS.「幽霊を怖がるからには,幽霊の存在を信じろ」という論法は嫌いです。(幽霊話は好きです,念のため。本気で信じている人には困ります。)
 標題の由来は,分かる人には分かります。後日,張本人の一人が「平和を種に,暴力的に話したのがオモシロイ」と申しておりました。

 このころはまだ,島田前会長も井上先生も,お元気だったんだ。