氏の体調不良と居住地の関係で,もう随分と永いこと,お会いする機会がありませんでした。一番親しくしてもらっていたのは,もう四半世紀も前のことです。そのころは日本内経医学会の夏季合宿にも,来てもらったりしてました。その時の報告はわたしが書いてました。ここに再録して,追悼記事の一つとします。
『内経』は尽く解し難し。内経医学会員すでに『中国医学思想史』の成るを知り,上梓に応じて皆争い購う。著者石田教授乃ち真鶴に赴く。諸兄諸姉迎えて状を問う。石田教授笑って曰く。
「卿等,まさに“もう一つの医学”を見るべきのみ」と。
一堂皆どよめく。すでにして会長,美術館に行きて居らず,問者もまたあるいは麦酒を飲みて酔い,あるいは長途に疲れて臥す。司会鉤してこれを集め,諸兄諸姉を併せて階下の大広間に致す。
さて何時ものことながら,時間通りには始まらない。
最初は**女史によって,『素問紹識』序文の疑問が提出された。これは通称「水曜部会」の和訓の能力を露呈するものである。原塾以来,医古文読解力の習得には熱心であったが,漢文の勉強をした者は少ない。部分否定と全否定を取り違えたのと,熟語を分解してしまう失敗が有ったくらいで,結構まともな和訓に成っていた。とは言え,この調子で『素問紹識』全文の和訓を完成するのは……道遠し。詞滙も実によく調べてあった。姚氏の世系も,『中国人名大辞典』によって傍らの訂正を是とするところまでは良かったのだが,九仞の功を一簣に缺いて、『大漢和辞典』を紐解くのを怠った。石田氏によって諸橋『大漢和』の索引としての效用を指摘され,これはヤッパリ海賊版でも手に入れずばなるまいか,と。石田氏が,その他の疑問中の『古今黈』を,ひょっとしたら王冰の引書の一つかも,と口を滑らしたのは御愛嬌。
次は**大人が,『内経』の「請」字にこだわった。質問されて答えるのに「請う言う」とは変だと言うのだが,これは単に丁寧さを示す為のものと考えて良かろう。石田氏も,あんまり細かい所ばかりにこだわるのはどうも……と忠告された。原塾に医古文を取り入れて以来,経文解釈は少しは深まったかも知れぬが,大掴みにするのを閑却する傾向が出て来たか?考えてみると,中国の古典教育には「医古文」と「内経講義」という両輪が有る。昔の我々は医古文なしの「想像力」による「内経読み」であったが,今は医古文にこだわるあまり,全体を連続的に捉えることを忘れて部分に分けたがる傾向に陥っていたかも知れぬ。ただ「請著之玉版」の類を「拝受して……」と訓むのは佳いかも知れないと言われた。やはり,大人,ころんでもタダは起きない。
**道人は,諸子百家と『素問』『霊枢』の関係に触れた。抄録だけ見たのでは,医学とどんな関わりが有るのだろうか,とも思ったが,経穴名の解釈の準備の一つと言われて納得。石田氏から,資料の選択と,取扱いについての注意があった。やはり漢学を専門とする者との溝は広く深いのであろうか?道人にして,この通りである。他は推して知るべし。やんぬるかな!
さて神麹斎は,夏向きに幽霊の話,『内経』の鬼神についての漫談を一席。『内経』には「鬼神」という詞語は五度出現するが,その何れにも,鬼神に縋って治療しようなどとは書いてない,とここまでで止めておけば良いものを,オッチョコチョイの悲しさ,田舎に閑居する者が聞き手を得た嬉しさにチョロッと口を滑らした:
戦国時代に巫から独立を果たした『内経』医学は,少なくとも六朝の養生趣味と唐代の道教愛好の影響を強く受けていると思われる。これが進歩なのかそれとも先祖返りであるかは難しいところであり,「祝由」は無論のこと,養生や最近流行の「気功」が,『内経』の本質に存在するかどうかも大いに疑わしいと思っている。これには石田氏も黙ってはいられない。それはそうだろう,折角挑発したのだから少しは乗ってくれなくちゃ。石田氏の意見は『中国医学思想史』に詳しいから下手な抜き書きは省くが,道教的な要素を排斥するのは「先祖返りである」とはウマイ!(注:『内経の鬼神について』の原稿は,『中国医学思想史』を入手する前に書き上げてます,念のため。)
夜は当然,大酒宴。大いに白熱して,甲子園戦争からPKO敬遠に及ぶ。
お蔭で,次の日は二日酔いで度々中座したので,『中国医学思想史』の著者に聞くは,ろくに聞いてなかったので省きます。ただ,もう少し精読してこないと,歯が立たないと言うか,著者に失礼というか……。
石田さん,これに懲りずにまたよろしく。朝,「お嫌いな気功をしに行きます」と言われたのには参りました。別に気功が嫌いなわけではありません。中国医学書の棚が「気功」書に新色されるのに舌打ちしているだけです。
PS.「幽霊を怖がるからには,幽霊の存在を信じろ」という論法は嫌いです。(幽霊話は好きです,念のため。本気で信じている人には困ります。)
標題の由来は,分かる人には分かります。後日,張本人の一人が「平和を種に,暴力的に話したのがオモシロイ」と申しておりました。
このころはまだ,島田前会長も井上先生も,お元気だったんだ。
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