2017年11月12日 星期日

『内経』の鬼神について

『外経』第九号 1992年8月23日発行
日本内経医学会 季合宿 に於いて

 夏に相応しく幽霊の話をしよう。漢語では幽霊のことを「鬼」と言う。『説文・九下』には「人の帰するところを鬼と為す。儿に从い甶は鬼頭に象り厶に从う。鬼は陰気賊害す,故に厶に从う」とある。白川静は「鬼はもと人屍の風化したものを称する語であろう」と言い,鬼神の鬼には示に从い,その手に祝祷の器である口を加えたものが有ると言う。つまり幽霊をお祭りするのである。また,『説文・一上』には「神は天神なり,万物を引き出すものなり。示に从い申の声」というが,白川静は「神」の初文が「申」であり,「電光が斜めに屈折して走る形で,神威のあらわれるところ」と言い,幽霊に対する自然神であると言う。後に祖霊が昇天して上帝の左右に在ると考えられるようになってからは,「神」に祖霊をも含むようになった。つまり,上等な幽霊はまた「神」とも言う。合わせて「鬼神」と言う。
 『内経』には,鬼神が五次出現する。即ち:
  拘於鬼神者,不可与言至徳。(『素問・五蔵別論』)
  道無鬼神,独来独往。(『素問・宝命全形論』)
  狂者多食,善見鬼神,善笑而不発于外。(『霊枢・癲狂』)
  唯有因鬼神之事乎。(『霊枢・賊風』)
  其所従来者微,視之不見,聴而不聞,故似鬼神。(同上)
『素問・宝命全形論』に,「末世の刺法」は,ただ虚するものを補(実)い,実(満)するものを瀉(泄)すという当たり前のことしかしないと罵っているが,だからと言って「鬼神」に縋れと言う訳ではない。天地に法則し,その変化に随って針を施せば,響きの声に応ずるが如く,影の形に随うが如き療効が得られる。「何も神秘なことが在るわけではなく,独自の境地に到達する」ことが出来るのである。
 『霊枢・賊風』では,黄帝の「その邪気に遇うことなく,また怵惕の志なくして,卒然として病む者は,その故は何ぞや?これ鬼神の事に因る有るか?」つまり「祟り」ではないかという疑問に対して,岐伯は,これも邪が留まって未だ発しない時に,情志に悪むところ,あるいは慕うところが有って,血気が乱れたことに,有発されたのであって,「その従来するところは微にして,これを視れども見えず,聴けども聞こえず,故に鬼神に似る」に過ぎないと答えている。また,こうしたものを祝由して治すことが有るのも。古代の巫は元々病の相互の克制を知っており,病の発生した原因を理解してアドバイスするからなのであって,ただ闇雲に「鬼神」に縋り,お祈りすれば良いというものではない。
 『霊枢・癲狂』に「多く食し,善く鬼神を見,善く笑う」狂人が出てくる。巫女を頼んで,御祓でもしてもらえば良さそうなものなのに,先ず足の太陰、太陽、陽明を取り,後に手の太陰、太陽、陽明を取れと,指示している。
 思うに,中国超古代に於いても,医と巫は共通する処が多い存在であったであろう。だから,「巫」に従う異体字「毉」が有る。しかし,戦国の諸子百家争鳴の時期を経て,医学が大いに発展し,『内経』の成書を準備する頃には,既に医学の巫術からの独立が行われていたと思われる。『五蔵別論』の「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」は,その宣言である。
 『史記・扁鵲倉公列伝』には,「巫を信じ医を進ぜざるは,六の不治なり」の句が有る。篇首の部分に,長桑君に貰った薬を「上池の水」で飲んで,「垣の一方の人」が見えたりする話が載っているので,我々は扁鵲を神秘的な者と考えがちであるが,山田慶児の著『夜鳴く鳥』に紹介された『韓詩外伝』に於ける扁鵲の伝説は,これと少しイメージが違う。虢侯の世継ぎが急病で亡くなったので,扁鵲が治療を申し出る。
側仕えの庶子が出てきて,こういった。
「わたしの聞いたところでは,上古に弟父という医者がいました。弟父の治療のやりかたといえば,莞で席をつくり,蒭で狗をつくり,北を向いて呪文を唱え,十語ほど口にするだけです。抱きかかえられたり輿に乗ったりしてやってきたひとたちも,みな平復してもとの体にもどりました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
さらにいった。「わたしの聞いたところでは,中古に踰跗という医者がいました。踰跗の治療のやりかたといえば,木を磨いて脳をつくり,芷草で躯をつくり,孔に息を吹きかけると脳ができあがって,死者は甦りました。あなたの医術でこんなことができますか。」
扁鵲「できません。」
ここに見られる扁鵲の医術は,御祓でもお呪いでもない。『韓詩外伝』の著者の韓嬰は紀元前二世紀中葉の人であるが,この時代に既にこうした醒めた「名医」伝説も存在し得たのである。
 張介賓は「鬼神に拘せられる者とは,与に至徳を語らず」の解説に,「巫を信じ医をぜざるは,六の不治なり,とは即ち此れをこれ謂う」と言い,『素問識』も『黄帝内経素問講義』も『素問攷注』も皆これを引く。古来,『素問』と『史記』のこれらの句は互いに補注を為すものと考えられていたと言うことであろう。
 『移精変気論』に「惟だ精を移し気を変じ,祝由して已ゆべし」と言う。「祝由」という詞は,この篇に三次出現するのみである。『黄帝内経詞典』には「古代の符咒祈祷を用いて病を治す方法」と説明する。つまり,巫の領域である。『移精変気論』という篇名を怱卒に読んで,「病の原因を祈り説き伏せることにより,針石を用いること無く癒やせる」方法が書かれていると期待する者も有るが,実のところは「今時そんなものでは病気は治らない」と言うのである。この篇で強調しているのは,早期治療の重要性であり,色診、脈診、問診の重要性という医学として当たり前かつ至極まっとうなことが書かれているに過ぎない。
 『湯液醪醴論』にも,上古には薬を作っても,飾っておくだけで実際に服用する必要は無かったなどという夢物語が書いてある。これにも実は「当今の世は,必ず毒薬を斉して其の中を攻め,鑱石,針艾もて其の外を治す」必要が有ると続けている。
 ただ『霊枢・官能』に「疾毒言語人を軽んずる者は,唾癰呪病せしむ可し」と言う。「呪病」を『太素』は「祝病」に作る。これから見れば「祝由」もまた『内経』医学の一部ではあるかも知れぬ。とは言え,もとより中心では有り得ない。
 さて『移精変気論』に,上古は「此れ恬憺の世,邪深く入ること能わざるなり」と言い,『湯液醪醴論』には,暮世には「精神進まず,志意治まらず」と言う。ここから『上古天真論』の「恬憺虚無なれば,真気これに従い,精神内に守る、病安んぞ従い来たらんや」が導き出される。
 『内経』には幾篇かの養生に関するものが有るが,『類経』では一巻を摂生類とし,『素問』の『上古天真論』『四気調神大論』を収め,現代中国の高等医薬院校教材『内経講義』の養生の項は『上古天真論』『四気調神大論』から採る。『内経』中の養生文献の代表をこの二篇として良いだろう。この二篇を全元起本『素問』では末巻に置く。この点に関しては,喜多村直寛の評「夫れ神仙不死の説は,実に医家の謂う可きに非ず。然して漢世方術本草を以て並び称するときは,則ち道流の言,或いは相い混じて我が医の一端と為る。是を以て前人取りてこれを内経中に編ず。猶お本草は薬性攻効を論ずるの書にして,軽身延年を以てこれに附すがごとし。果たして旧本の如く,却けて末巻に在るときは,則ち固より全璧に害無きなり。今王氏乃ち此れを以て諸篇の端に掲げるときは,殆ど冠履転倒し,薫蕕相い反し,特に尊経の意を失す」が概ね妥当なところであろう。
 『内経』の原型の成立を戦国時代の末とし,それは「医の巫からの独立宣言書」としての性質を持つと考える。ところが,ほぼ同時期には神仙説も起こっている。斉の威王、宣王,燕の昭王,秦の始皇帝,漢の武帝などが,その中心である。恐らく,神仙説は先ず諸侯とか黄帝といった高い地位にある人々,即ち栄耀栄華をつくし快楽を満喫している者たちが,何時までもそれを続けたいと望むところに付けいったと思われる。それから次第に一般の人達に広まっていった。西漢は,武帝の膨張政策の破綻による政治の乱れ,外戚や豪族の勢力争いを経て,䜟緯説を利用した王莽の簒奪によって終わる。東漢を興した光武帝も,䜟緯説を愛好し利用している。当時の神秘嗜好の風潮が伺われる。東漢には『論衡』の王充の様に神仙説的な養生術を批判した者も有るが,これはあくまで異端であり,一般的風潮は逆のものであった。東漢もやがて政治的混乱,村落共同体の崩壊を通して,社会不安を醸成すると,太平道とか五斗米道とかの「道教的宗教集団」を生む。その実体は治病であった様であるが,その内容は「符水」とかお呪いで,短期間に治った者を信仰が篤いと褒め,なかなか治らない者の不信心を責めるというのだから,医学としては堕落と言わざるを得ない。また南北朝の文人の間に於ける養生の流行には,我々の想像を越えたものが有る。これが『素問』の性格に影響を与えたことは間違い無い。(『素問』諸篇中には,南北朝の時期の作品も有るとされている。)更にまた現存の『素問』は唐の王冰の大規模な改定を経ている。唐代には道教が崇められていたし,王冰自身も道教の愛好家であった。王冰序では「故に動ずるときは則ち成る有り,猶お鬼神の幽賛するがごとし」と言って,「鬼神」を蔭ながら助けてくれる神秘的なものとして期待する様に成ってしまっている。
 まとめると,戦国時代の「医の独立」を,民衆の神秘嗜好と養生の流行が変質させたものが今の『内経』であると考える。祝由は勿論のこと,養生や最近流行の「気功」が『内経』の本質に存在するかどうかは大いに疑問である。旧中国の読書人が『素問』を愛好したのも,昨今の西洋医,あるいは半可通が,神秘的なもの,あるいは割り切れないものとしての中国古代医学に憧れを抱くの,本当は的外れなのではあるまいか?
 

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