2014年12月29日 星期一

古医籍の翻字を試みていると,しょうもないことに悩む。

仁和寺本『太素』の「殺」を「煞」と入力すべきかどうか。
『干祿字書』では「殺」が正で,「煞」は俗なんです。
正字に統一する!と宣言してしまえば,まあ楽なんですよ。
でも,実際に使われている異体字の情報も保存したい,なんてしょうもないことを考えるとややこしい。
今は,パソコンで使える漢字もずいぶん増えたから,「煞」でも大丈夫なんです。
それに,これは『水滸傳』の地煞星の煞なんだから,中国趣味の人間だったら知ってろよ……,と言ったって,それほど無理では無かろうし。
でもね,仁和寺本『太素』に書かれているものの多くは,実際は「煞」でもないんです。
下の列火(灬)に当たるものが,✓のような一画になっている。
こんなんだったら,わざわざ「煞」にしたって五十歩百歩。
でもね,造字の意図は違うんじゃないかとか,いや楷書化の手際の差に過ぎないのかも,とか。


ある本では(普段書いている字でいえば)「胸」なのに,ある本では「胃」になっている,なんてときには,やっぱり底本通りに「胷」にしておくことにも意味が有ると思うんです。

2014年12月16日 星期二

脆骨

『聖濟總録』に,「諸痔宜灸廻氣三七壯。黄帝鍼經云:穴在尾脆骨上一寸半。又連崗穴主之,在廻氣穴兩邊相去三寸是也,各灸三七壯。」の文章があるらしい。
この「尾脆骨」には疑問が有る。「尾骶骨」に改めてもよいのではないか。
『千金要方』に,「五痔便血失屎,灸回氣百壯,穴在脊窮骨上。」とあるらしい。
そして,『太素』卷十一・氣府に「大椎以下至尻廿節間各一,胝下凡廿一節,脊椎法。」とあり,楊注に「胝,竹尸反,此經音抵,尾窮骨,從骨為正。」と云う。この楊注中の抵の右旁の氐は,実際には互に近い形(あるいは弖に近いというべきか)に書かれている。これとまあ似た形は,危のくずし字に有る(近藤出版社の『くずし字解読辞典』)。馬王堆の簡牘帛書にも,右旁の氐と危とに似たものは有る(上海書店出版社の『馬王堆簡牘帛書常用字典』)。
つまり,最初の資料に尾骶骨と書くべきところを,肉月の胝にして,その胝の書樣が脆と紛らわしくて,誤られたに過ぎないのではないか。

脊椎の下端の軟骨の上云々でも,意味はまあ通じるからややこしい。

2014年12月14日 星期日

ごくろうさん

前にもよそでつぶやいたことが有るんだけど,

投票にいくたんびに,こんなしょうもない選挙に,寒いのに,よくもまあこんなにたくさんのひとが投票にくるもんだ,と思う。

現代語訳が ほしいですか

原文は:
 提起古籍版本,常使人連想古董,従経済価値着眼,越古越貴重。旧時達官貴人富商大賈常以捜求玩賞古籍而謬托風雅,致使研究古籍版本者往往蒙受玩物喪志之譏。然而版本学之真正価値固不在于斯也。

公刊されている翻訳は:
 漢籍の版本といえば,よく人は骨董品を連想し,経済的価値から,古ければ古いほど貴重だ,という見方をする。往時,高級官僚や貴人,富豪・大商人は,漢籍を探し求めて鑑賞し,やたらと風雅にかこつけたので,漢籍の版本研究者は往々にして「玩物喪志」のそしりを受けるようなこともあった。しかし,版本学の本当の価値はもとよりここに在るのではない。

でも,日本人が初めから日本語で,自分のことばとして書いたら,こんな具合じゃないか:
 古籍版本などと言いだせば,人は骨董品を思い浮かべて,金銭的な価値観から,古ければ古いほど良いと思いがちである。むかしの成り上がったお偉いさんや大もうけした商ん人は,古籍を買い求めて翫んで,風雅をきどったりした。そこで,古籍版本を研究するなどといえば,玩物喪志のそしりをうけがちである。しかるに版本学の本当の価値は,もとよりそんなところには在るわけではない。

2014年12月5日 星期五

古典なんて読んだって

どうして古典を読むのか,と問われると,面倒だから,古典なんて読んだって臨床とはあんまり関係ないですよ,と応えてしまう。結構,うけるけれど,これではいくら何でも誤解される。

針とか灸とかは第一義的には技術だから,先ず手を動かす修行が大切なのは当たり前。でも,どう動かすのかは,師匠や先輩から教わるわけだし,師匠や先輩が何に拠ってるかは,結局のところ古典しかない。ある程度から先は,自分も古典を紐解かないわけにはいかなくなる。

古典を読むと,やらなきゃならないことはむしろ減ると思う。やっちゃいけないことも,誤読から始まっていることが多い。

すぐに役立つことが書いてあるわけじゃないかも知れない。極端な譬えだけど,寿司職人になるには,魚の目利きから包丁の研ぎかた,さらには全く関係なさそうな一般教養も要るんじゃないのか。歳時記ぐらいは愛読しているべきじゃないのか。でもね,回転寿司の店員でいいなら,店のマニュアルを読めばたくさん。そのほうが手っ取り早く稼げるんでないの。でもね,自分は本当は何になりたいのかは,考えてみる価値が有ると思う。

鍼灸師養成学校にかよっていたころに,あるいはせめて資格をとったばかりのころに,古典について,せめていま丁度の認識があったら,もっと安心して手の修行をしていたと思う。もう少しはましな臨床家になれていたと思う。たとえば六部定位脈診が苦手だと,古典的な針を志す資格なんてないんじゃないか,と恐れていたけれど,考えてみればあれは三部九候診のミニチュアに過ぎない。腕関節でチマチマがうまくいかなかったら,大きく全身を撫で回せばいいじゃないか。