2013年3月31日 星期日

さいたさくらになぜあめふらす

今日は満開,来週は花吹雪,再来週は……ちょっと。

須師乃行

陳延之『小品方』に,「それ針術は師を須ちて乃ち行わる,その灸は則ち凡人便ち施す」というところをみると,「針は専門家でなければ行なえない」といっているように思える。
しかし,「針灸で最も言葉で表現しがたいものは手法である」と前置きするのだし,そして,それはその術を秘密にして容易に人に示さなかったからだとか,いやそもそもコツを言葉で表現するのは難しいからだとかが,本当に言いたいことだろうから,「師匠について修行してはじめて身につけられる」とも思える。
わたしはどうしても,庖丁とか輪扁とかを連想してしまう。師匠に就いて手取り足取りしてもらって,その上で自らの会得が無ければ,どうにもならない。私自身は,特に後者がどうにもならなかった,と思う。

古人の糟魄の解明にいそしんでいる自分がいる。愛読書ねえ,みな糟粕です。

2013年3月25日 星期一

宴の後の祭り

満開に気付いた翌朝は已にかくの若し

2013年3月13日 星期三

聊?

敦煌本『明堂』残片に,上聊・次聊・中聊・下聊などの穴が有るという書き方は,気に入らぬ。
確かに『中国針灸史図鑑』に載せられた写真では,そのようにも見えるが,これらの穴の在る部位からしても耳偏などに従うべき理由が無い。そもそも筆書の文字で,耳偏と肉偏などは区別がつくのか。
まあ,肉偏に卯などという字は,『漢語大字典』にすら無いようだから,致し方ないとも言えるが,そうした文字がかつて全く存在しなかったというわけではない。仁和寺本『太素』の巻十一の骨空の楊上善注に「此經𢨺(戸卯)字音聊,空穴也」とある,その「聊」字に相当するものは明らかに月に夘(卯の異体字)である。
もつとも,フォントの準備が有ろうはずが無いから,私の『黄帝内経太素新新校正』でも,『素問参楊』に従って「聊」で誤魔化してあるから,偉そうなことは言えぬ。