2012年12月30日 星期日

凌氏針書

『中国針灸史図鑑』を読んでいて,意外な感じです。
「惜しいことにその針書に未だかつて刊行され世に伝えられたものは無い。」
それはまあ,当時の出版事情ならさも有らん,でしょうが,実は上海の凌氏といえば,明代の套印――多色刷りで有名な人たちなんです。凌雲という名も,崇禎年刊に活躍したとして,米山寅太郎先生の『図説中国印刷史』にも登場します。『文心彫竜』の五色刷なんてものを手がけたそうです。勿論,同名異人なんてことは無いでしょう。米山氏も『明史』の「方伎伝」に伝があるとして,「道人から鍼術を授かり,多くの難病を治癒させたという」と紹介しています。
どうして,自分たちで,針書を出版しなかったんでしょう。やっぱり,自分の本を出すのは気恥ずかしかったのでしょうか,それとも道人に禁じられたのでしょうか。あるいはそもそも,方伎は書を以て伝えられるものではない,と悟っていたのでしょうか。

2012年12月21日 星期五

なんだかなあ

今,日本内経医学会の有志で,黄龍祥さんの『中国針灸史図鑑』の翻訳にとりかかっているんだけど,『霊枢』の書影としては我らが明刊影宋本『霊枢』が掲げられている。ところが,「日本内経学会蔵」なんです。医が無い。しかも文字のほうは:
伝世本『霊枢』は乃ち南宋の史崧蔵本であり,今国内にはなお元、明の刻本が有り,天一閣に明の影宋残巻が蔵されており,日本の国立公文書館内閣文庫には明代の影宋本を蔵していて,日本のオリエント出版社が1992年にこの本の影印を出版している(『東洋医学善本叢書』第26冊に見える)。
なんだかなあ。

2012年12月11日 星期二

毫針の寸法

范登脈校注『新刊黄帝内経霊枢』(科学技術文献出版社2010年発行)に,九針十二原篇の毫針の長さ「三寸六分」の「三」について:
劉校:「『九針論』、『甲乙』巻五第二及び『医心方』巻二第五は均しく一に作る,応に拠りて改むべし。」『太素』は「一」に作る。
とある。誤解である。
九針論は確かに「一寸六分」に作る。そして,『甲乙』も『医心方』も,それを採ったのである。劉校とは、人民衛生出版社が1964年に『霊枢経』を発行した際に,劉衡如が行った校正。大家である。どうしたことか。
『太素』に至っては、その編纂は鋏と糊であるから,双方を採っていて,九針十二原篇に相応する部分には,寸法に関する文字は無い。

毫針の寸法が,三寸六分であるべきか,一寸六分であるべきか,とはまた別のはなし。

2012年11月29日 星期四

防禦の婿

南宋の聞人耆年『備急灸法』の自序に,「杜一鍼防禦婿檇李聞人 耆年述」とある。
防禦とは何か?宋代の都市と生活を記述した『東京夢華録』巻二「潘楼の東の町々」に「……仇防禦の薬屋もある……」とあって,防禦への訳注(東洋文庫版 入矢義隆・梅原郁訳注)として:
このころの医者には防禦を称したものがしばしば見られ,例えば『夷堅志』支甲巻七には眼科医の徐防禦のことが載っている。防禦とは武官の防禦使のことであろうが,医者がどうしてこの官名を僭称するようになったかは未詳。しかしこのような濫称が宋代の流行であったことは,『容斎三筆』巻五によって知られるし,清明上河図にもそれが画かれている。
それにしても,誰それの婿という肩書きなんて,他では見たことが無い。当時は普通だったんだろうか,それとも聞人耆年さん,郷間に居ること四五十年で,他に何とも名乗りようが無かったんだろうか。杜一鍼という人がよっぽどの有名人だったんだろうか。

2012年11月17日 星期六

暴飲暴食で「がし」した?

『李白 漂泊の詩人 その夢と現実』の35頁第2行に,(……飲酒と食肉今かくの如し、何故に常人は飽死するなきか)とあって「飽死」に「がし」と振り仮名がある。それはまあ「ほうし」なんて普通に使われる詞じゃないけどね。

2012年11月7日 星期三

またまた

乱立に歯止めをして,質の低下を防ぐ!ケッコウなことです。大学も政治家もネ。

島を俺んとこで買い取る!
いや,それは困るからうちで……。

大学新設は認めない!
横暴だ!唐突だ!無用な混乱を引き起こす!
裁量権の明らかな乱用!
担当大臣が最終的に判断することだ。
首相の任命責任とは……,どこに,どう責任があるのか!

勝手に突っ走ったこと,面倒を見切れない。

2012年11月5日 星期一

中国への 万里の長城での 冒険

中国国営の新華社通信によりますと、3日の夜、河北省の張家口の山間部で、万里の長城を訪れていた日本人観光客4人とガイドを務めていた25歳の中国人男性1人の合わせて5人が雪で動けなくなり、遭難しました。
警察や消防が捜索に当たったところ、68歳と62歳の日本人女性2人の死亡が確認され、76歳の日本人男性の行方が依然分からないということです。
冒険を求めて行って,危険な目に逢う。まあ,当然のこと。誰を怨むでもない。
ましてや今は,別の危険も囁かれているときでもあるし。
前の第一歩の勇気には敬服するけれど,二歩目はやっぱり無謀だったんじゃ無いか。
むかし森川君が,多分は観光ずれした八達嶺に行ったときの写真でさえ,冬はダウンコートで凍えそうに寒そうだった。

大陸は,寒いときは無茶苦茶寒い熱いときは無茶苦茶熱い热天(暑い)&热情(温い)

2012年10月21日 星期日

なんだかあんまり哀しくないんです。
病院にあずかってもらって,週に何度か見舞って,時には一言二言ことばを交わして,多くは寝顔を看て帰って来る。だから,行けばまだ居るような気もして,なんだかあんまり哀しくないんです。
そもそも睡るがごとき大往生で,その人生も,期待はずれの息子はおいて,まあ満足なものだったんじゃないか,と思うし。

音痴ではあったけれど,運動のほうはすこぶる付きの達者で,専門学校へ進んだ際には,スポーツによる推薦入学か,と陰口をたたかれたほどだった,とか。だから,スポーツならサッカー選手。
研究なら,当時の花形,肺結核の治療。臨床なら,漢方の処方。
趣味なら,園芸。頚の手術で車椅子になってからは,咲いた花のための写真撮影。
さすがに,最後ころにひねった俳句は,ものにはならなかったけれど,まあ満足な一生だったのではないか。
子が二人,孫も二人,小学校と保育園の曽孫が三人。最後の数年,先に逝った女房を,どうしたのか,どうして来ないのか,などと問われることは有ったけれど,まあ,それほど頓珍漢な,端に迷惑なボケも少なくて,まあ満足のいく晩年,まあ納得のいく生涯だったのではないか。

なにかをしようとするときに,ぐっとくることは,それはまあ有るけれど,普段にはなんだかあんまり哀しくないんです。むしろ,なんだかハイな感じで,一切合切が落ち着いたころにどっと疲れがでる,気をつけろといってくれる友人もいるけれど,今はとりあえず,あんまり哀しくないんです。

2012年10月17日 星期三

赤信号

赤信号で車が来てないのに待っている人になってほしくない。
それはまあそうかもしれないけれど,これを聞いて、じゃあというわけで赤信号をわたる人には,なおさらなってほしくない。
私はやはり信号は頑なに守ろうと思う。無視するのは,何か別に緊急を要する理由が有るときのことだ。あるいは,わたってしまうような気の緩みのときだ。そうだとしたら,それはやはり反省すべきだと思う。

やはり,赤信号を「平気」でわたる人を軽蔑する。何かの考えが有ってそうしているなんて,やはり思わない。

2012年9月30日 星期日

句読を正す?

『素問』氣穴論:背與心相控而痛,所治天突與十椎及上紀,
王冰注:……按今《甲乙經》、《經脉流注孔穴圖經》當脊十椎下並无穴目,恐是七椎也,此則督脉氣所主之。……(郭靄春主編『黄帝内経素問校注』1992年人民衛生出版社)
按ずるに,「穴目」などという詞語は見慣れない。おそらくは「目」は「且」の誤りであり,「……當脊十椎下並无穴恐是七椎也,……」と句読すべきであろう。「脊の十椎の下に当たりては並びに穴无し,且(まさ)に恐くはこれ七椎とすべきなり」と訓みたい。ただし,渋江抽斎、森立之が句読、返り点を施した安政版影顧従徳重彫本も,最近の中国の范登脈校注本(2011年科学技術出版社)も,『黄帝内経素問校注』と同じ。それどころか,「且」だろうなどという先人は,未だ見つからない。ただ,馬蒔の注に「但十椎下無穴是大椎也」とあるのは,参考になりそうである。

2012年9月26日 星期三

まだまし (^^;) かも

「魚を釣る島は古来よりうちの神聖な領土だ」と言うのと,「いくつもの歴史資料からして尖んがった楼閣らの所有権はうちに属する」と言うのと,どちらが正しいのか。まあ,双方に主張が有るだろうが,少なくとも日本の政府としては,国が購入しておいたほうが,東京都に購入されるよりは,まだしも扱いやすいと考えたんじゃないか。東京都の知事は彼の人なんですよ。東京都のものなんだから,好きなようにする!なんてことをされたら目も当てられない。

2012年9月23日 星期日

内経霊素考辨

中国中医薬出版社から『内経霊素考』というのが出ています。
1992年だか1993年だかに,同じ出版社から『内経霊素考』というのが出ています。今回のは,同じ著者連中で「辨」というのだから,その後の考察でも加えたのかと思って取り寄せてみたけれど,今のところどこがどうなったのか,さっぱり解りません。多分,そのまんまなんでしょう。
以前に読んだとき困惑した箇所もそのままです。最大のものの一つは,今度の書物でいえば52ページです。
 『素問・蔵気法時論』に,「肝病者,両脇下痛引少腹,令人善怒,虚則目䀮䀮無所見,耳無所聞,善恐如人将捕之,取其経厥陰与少陽。気逆則頭痛耳聾不聡頬腫,取血者。」とある。このうち,「両脇下痛引少腹」は足厥陰肝経の病候であるが,外はいずれもそうではない。「善怒、目䀮䀮無所見、善恐如人将捕之」は『足臂』には見えないが,『陰陽』の少陰脈の病候に記載が有り,『経脈』の少陰の病候に見えるが,ただ「善怒」の一症は無い。後文の「頭痛、耳聾不聡、頬腫」は,『足臂』の足少陽脈には見えない。『経脈』の足少陽の脈には僅かに「頭痛」の一症を載せるが,『陰陽』の耳脈(即ち足の少陽脈)の病には,「頭痛、耳聾不聡、頬腫」の四症がともに見える。だから,『蔵気法時論』の「肝病者」の一段は,『陰陽』の後を継いだ著作の中の足の厥陰、足の少陰、足の少陽の三脈の病症からの選輯であると言える。この段の文字がもし錯簡,あるいは伝抄の誤りでないとすれば,『蔵気法時論』と『素問』のその他の論文とは,一時一人の手に出るものではないとしか説明のしようがない。
二十年前には,その論述の新鮮さ大胆さを喜んだけれど,今回もそれは変わりません。ただ,二十年前にも,著者らの思い違いを危ぶみ引用のミスを疑ったけれど,それも未だ変わらない。

2012年9月21日 星期五

医古文

「供中医学含骨傷方向針灸推拿学等専業用 全国高等中医薬院校教材」の『医古文』第2版が届きました。主編はあの沈澍農さんです。世代の移り変わりを痛感します。(あまり年の違わない)師匠としての銭超塵さんとか段逸山さんとかと交流していた時代から,(年下のはずの)同輩として付き合いだした友人たちへと,バトンが渡りつつあるようです。そう言えば,同じシリーズの『中国医学史』の主編は,あの梁永宣さんでした。『内経講義』第2版の賀娟さん蘇穎さんには,韓国ソウルでの学会でお会いしたことが有ります。

2005夏・東京・沈澍農教授講演会後の懇親会
左側前の3人=梁永宣・崔為・郭秀梅 右側前の3人=陳捷・王鉄策・沈澍農

2012年9月18日 星期二

人迎脈口診

やっぱり人迎脈口診が気になる。
人迎と脈口を比べて,どちらがどれだけ大きいから,病はどの脈に在るという,『霊枢』終始篇や経脈篇の方法は,失敗に終わった試みじゃ無いかと思う。
禁服篇にも,その方法は有るから,相当に古い試みだとは思うけれど,それぞれの脈状を診て,どんな病状であるかを言うほうが原形だろう。人迎が盛んであれば熱,虚していれば寒,緊であれば痛痺,代であればたちまち甚たちまち間。寸口(=脈口)が盛んであれば脹満,寒中して食化さず,虚していれば熱中して麋を出し,少気し,尿の色が変じ,緊であれば痛痺,代であればたちまち痛み,たちまち止む。
五色篇には大きさで「どこに」をいうことは無く,脈状での「どんな」だけである。人迎と脈口の脈状がどんなふうだと,病は甚だしくなるとか,外に在るとか内に在るとかを診る。その他に,人迎が盛堅であれば寒に傷られたのであり,気口(=脈口)が盛堅であれば食に傷られたのであると言う。
まず,このあたりが人迎脈口診の本来じゃ無いか。
井上雅文先生の人迎気口診は,脈状診である。その点は,大いに納得できる。
問題は,「左人迎,右気口」のほうである。左右に割り振って,大丈夫なのか。『素問』『霊枢』に根拠を求めると,また「復古尊経学者」なんてからかわれそうだが,気になるものはしょうが無い。
左右の脈に違いが有って,それによって,何かを言おうとする篇なら,無いことも無い。言っているのは,『素問』の病能論のことです。かなり前から口にしたり,BLOG記事にしたりしているけれど,あまりにも手応えが無いんで,またぞろ書き込みました。しょうもないことが気になる。因果な性格です。
『太素』巻16 診候之三・雑診の文章に拠れば:
黃帝曰:有病瘚者,診右脈沉,左脈不然,病主安在?
歧伯曰:冬診之,右脈固當沉緊,此應四時,左浮而遲,此逆四時,在左當主病,診在腎,頗在肺,當腰痛。
曰:何以言之?
曰:少陰脈貫腎上胃肓,絡肺,今得肺脈,腎爲之病,故腎爲腰痛。
黃帝曰:善。

2012年9月5日 星期三

気韻生動

……ここで重要なことは、張彦遠は、絵の出来をすべて人品に帰しているのではない、という事実である。……顧愷之に対する李嗣真の評語、「顧愷之のような才流を下品に置いていいものか」に対して、張彦遠は、「我々は絵画を評価しているのであって、才流を問題にしているのではない。李氏の発言はあやまっている」とはっきり言っているのだ。張彦遠自身、……「絵描きというものは人品が高くなければならない」と発言しているのは確かなのだが、あくまでも作品の出来が重要だという一線を越えてはいない。それは、後世いわゆる士大夫画に関して、まるで「しろうと画」としか言えぬものも、人品のみで評価しようとする考え方とは違うのである。……
宇佐見文理著 『歴代名画記』―〈気〉の芸術論 (2010年 岩波書店)より

なんとまあ、中国伝統医学の世界における,熱意と情愛だけではなくて,しっかりした技術が前提なんだよ,という忠告と似ていることよ。

2012年9月3日 星期一

9月の読書会 もう一度

8月をお休みにした代わりとして,9月の読書会は,もう一度やりましょう。
9月30日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の多目的室 です。

2012年8月21日 星期二

臍以下皮寒

学苑出版社『霊枢講義』の師伝第二十九の,臍以上皮熱,腸中熱,則出黄如糜。の下の善按に,楊氏、馬氏以「臍以上皮熱」五字屬上,誤。就句法攷之,楊氏、馬氏以五字屬上文者,似是。竊謂「臍以下皮寒」,「寒」字或誤,疑當作「熱」,則上下文意甚覺平穩。とあり,臍以下皮寒,胃中寒,則腹脹,腸中寒,則腸鳴飧泄。の下の善按に,楊氏、馬氏以「臍以下皮寒五字」屬上文,非是。というのは理解に苦しむ。楊上善や馬蒔の説を,取るのか取らないのか。そこでオリエント出版社から出た渋江全善自筆本の影印で確かめると,「就句法攷之」以下は,欄外の書き足しで,「善按」を冠している。さては,途中で考えが変わって書き加えたかと思うが,もう少し親切な書きようが有るべきだろうと,やはりオリエント出版社から出た山田業広補正本(勿論,業廣の自筆)の影印を見てみた。すると,なんと「臍以下皮寒,胃中寒,則腹脹」云々のの欄外に置いてあるこの按語,「按就句法攷之楊氏馬氏以五字属上文者似是竊謂臍以下皮寒〃字或誤疑當作熱則上下文意甚覺平穩」の「善」を塗りつぶして,「業廣」と改めてある。何が何だか解らない。

2012年8月13日 星期一

自由な治療

これは考えていることであって,あんたにはできているのか,と問われるとつらいところなんだけど,『霊枢』を読んで,それに拠る治療というと,どんなだろうか,と。

五蔵の病は原穴で,六府の病は(下)合穴で,ということで良いのではないか。それが『霊枢』流の本治法。無論,それで上手くいかなければ,何らかの理屈で,本輸のセットに助けを求める。経脈の組み合わせも考える。そういう時に,奥の手として,現今の各派のマニュアルを役立てれば良い。
さらには病所を上下で挟み撃ちという発想も有りそうだから,原穴と背輸,合穴と膏、肓の原,なんて組み合わせも,標準仕様なんじゃなかろうか。
頚周りの「天」を冠する穴は,体表の組織のつらなりを考えた場合のものかな。でも,そうとは限らない症状の記載も有りそうだよね。大牖五部なんてのも有ることだし。
そして,残りの随伴症状は,適当に,『霊枢』諸篇から拾い上げたか,あるいは誰かから教わったかの特効穴でも使って,必要に応じてパッパッって済ませる。この標治法は,いわゆる経絡治療の場合とさして差は無かろう。
ただ,当然ながら,『霊枢』流では本治法のみ,標治法のみというのが,むしろ普通だったんだろう。

その他にたぶん,経筋治療がより有効,という世界は有りそう。

針灸治療というのは,本来,もっともっと自由な世界なんじゃないか。

2012年8月10日 星期五

後來因故未能整理

『段逸山挙要医古文』に,1980~90年代における中医古籍整理叢書について,『霊枢』だけは「後來因故未能整理」だという。『中医文献雑誌』を来源とする2008年10月15日付の「新中国中医文献整理研究工作簡要回顧」(編輯は張燦玾先生)というWEB上の記事において,「1982年1月16日に衛生部は,中医古籍に対する整理出版を行うことを決定した」と述べたうえで,次のような記事が有る。
同年4月21日から27日にかけて,衛生部中医司は瀋陽において中医古籍整理出版座談会を開催した。会議の主要な内容は,中医古籍整理出版規劃中の第一批12種の古籍の整理出版についてであった。会議に出席したのはそれぞれの任務の責任を負うもの,整理を行うものと関係する分野の専門家、学者、編輯を合わせて40人ほどであった。12種の古医籍は今回の整理の重点的な課題であり,もとの6種の古医籍を基礎として,6種を追加したものである。それには『素問』(天津中医学院郭靄春主編)、『霊枢経』(遼寧省中医研究院史常永主編)、『脈経』(広州中医学院沈炎南主編)、『難経』(上海中医学院金寿山、吴文鼎、凌耀星主編)、『黄帝内経太素』(成都中医学院李克光主編)、『内経知要』(主編者が決まらないうちに,専門家の審議によって,その学術的価値が他の11種ほどでないとして,取り消された)が含まれる。
このうちの『霊枢経』のみが出版されてない。『霊枢経』の校注と語訳を主編するはずであった史常永先生が,任務を全う出来なかった理由は分からない。史常永先生が重篤な病に罹られたというのが,一番まっとうな理由かと思われるが,疑わしいことも有る。中医古籍整理出版規劃では,校注と語訳の編写にあたるべきものと,その審定にあたるべきものの,二つのグループが組織された。そして,1991年発行の『脈経』,1992年発行の『素問』,1996年発行の『甲乙経』の審定人の中に,史常永先生は名を連ねている。審定会議に参加できる状態であったのなら,どうして編写の仕事をしなかったのか。それに主編のもとには(弟子たちで?)組織された人員がいたはずである。主編の体調不良くらいは,そのものたちがカバーすべきではないのか。やはり,編写と審定の間は,ぎくしゃくしていたのでは無いかと思う。例えば,郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』、『黄帝内経素問語訳』と郭靄春編著の『黄帝内経素問校注語訳』とでは,重要な疑難箇所で採用された説に相違が有る。おそらく,編写の独善を咎めて変更をせまる審定会議という場面も少なくなかったのだろう。で,『霊枢経』においてついに決裂した。だから,段逸山先生も「後來因故未能整理」という微妙な書き方をし,『霊枢』が未整理のままに終わった理由の公式な発表もついに無いと思う。


かつて別のBLOGに書いた記事ですが,「岐黄会はなそうかい」のBLOGで,話題にしたので,ここにもやや整理したものを載せておきます。

あれから

あれからもう満十二年です。
ということはもう十三回忌のとしですか。
少し遅れて偲ぶ会が予定されたけれど,その日は先約が有って,初めて会う人たちの前で『内経』に関する講釈をします。
考えてみれば,それも一種の先生孝行ということですね。

仲間のうち若手の中には,面識の有った人はすでに珍しいらしい。
年を取ったわけだ。
先生の年に近づいて,越えるまではなんとも落ち着かない。
超えたらもっと落ち着かないのかも知れないけれど……。

皆さんに,宜しくお願いします。

2012年8月9日 星期四

秘伝書の行方

『史記』倉公伝に関して,もう一つの難問を忘れていました。
詔問と応対の後,淳于意が陽慶から受けた黄帝、扁鵲の脈書などは,どうなったのかね。没収されたとか,暗に要求されて献上したとかいう記事は無いけれど,状況的に考えるとそのまま保ちつづけられたか,いささか心配になります。
それに『漢書』芸文志・方技略を見ると,『黄帝内経』『黄帝外経』とか『扁鵲内経』『扁鵲外経』とか『白氏内経』『白氏外経』とか,これは,それまで有った書籍を整理した上で付けられた新たな書名でしょう。その材料として,「黄帝、扁鵲之脈書」なんてのは,相応しいのではないか。
何を言っているのかと言うと,もし原物はともかく,写しでも献上していれば,我々も『素問』『霊枢』を通して,淳于意が陽慶から受けた秘伝書を,見ている可能性が有るのかな,と。

何処かに誰かの考察は無いですか。

2012年8月5日 星期日

緹縈

あれ,テイイだっけ?テイイだっけ?
というわけで,『漢辞海』を引いてみました。
すると┃緹┃の字の下にちゃんと,【緹縈】が載ってました。
それは良いけど……。
【緹縈】テイエイ  人名  前漢の孝女。父に代わって受刑を願い出た。
あんまりだと思いません?出典の表示も無い。
出典を〈史・扁鵲倉公列伝〉とするか,〈史・孝文本紀〉とするか,どちらが良いかは微妙だけど。

2012年8月4日 星期六

史記倉公伝考注 その1

試行本
    太倉公者,齊①太倉長②,臨菑③人也,姓淳于氏④,名意。少而喜醫方術⑤。高后八年⑥,更受師同郡元里⑦公乘➇陽慶⑨。慶年七十餘,無子⑩,使意盡去其故方,更悉以禁方予之⑪,傳黄帝、扁鵲之脈書⑫,五色診病⑬,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精⑭。受之三年,爲人治病,決死生多驗⑮。然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病⑯,病家多怨之者⑰。
【考注】
①齊:高帝六年(前201),庶長子肥を立てて斉王とする。恵帝六年,薨じて悼恵王と諡する。翌年,子の襄が立つ。文帝元年,薨じて哀王と諡する。翌年,子の則が立つ。文帝十五年,薨じて文王と諡する。翌年四月,叔父の将閭が立つ。もとの陽虚侯であり,後の景帝三年に勃発した,呉楚七国の乱の際に自殺して,孝王と諡された。
②太倉長:孝文本紀では太倉令とする。太倉長は,医学と関わりの有るお役目なのか?問対の最後のあたりで,淳于意から医を学んだものの一人として,菑川王の「太倉馬長」馮信というものの名が挙がっている。太倉を各地から集まってきた物資を保管するところと解すれば,薬用に供されるものもその内に含まれるはずで,そこそこの関係は有ったのかも知れない。馮信が学んだのは主に薬に関することである。詔問では,淳于意はすでに「故太倉長」である。ではどの斉王のときなのか?悼恵王から哀王,さらに文王,一応はいずれも可能であろうが,淳于意の年齢からして,悼恵王の下での重職はいささか難しかろう。もし,文王の太倉長であったとしたら,その治療をしなかった罪は,なおさら重いと言わざるを得ない。文帝の十六年に立った孝王の太倉長が,問対の時にはすでに「故太倉長」というのも,やや難しかろう。
③臨菑:淳于意の前の師匠は菑川の公孫光であり,後の師匠は公孫光の紹介による臨菑にいた陽慶である。無論,臨菑は大都市であり,また陽慶は医を業としていたわけではないから,臨菑の人であり医術修行中の淳于意が,臨菑にいた陽慶を知らなくても別に不思議はない。臨菑は斉の首都,菑川はその東南東で,そう遠くはない。
④姓淳于氏:春秋の頃の山東地方に淳于国というのが有った。菑川のさらに東南東にあたる。有名な人に,先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠がいる。秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越も,斉の出身である。後の時代には,三国時代に袁紹に仕えた武将に淳于瓊というのがいる。また鑑真和尚の俗姓も淳于である。
⑤少而喜醫方術:最初の師匠が誰かは記録が無い。後に,菑川の公孫光に師事し,その後にさらに臨菑の陽慶を紹介されている。問対の資料のはじめには,「意少時喜醫藥,醫藥方,試之多不驗者」とある。ところが,後の陽慶に師事するに至る経緯の説明の中では,「意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗精良」という。最初の修行の段階でも,そこそこの治療実績は有ったらしい。これは認識の違いだろう。そこそこの効果は有ったから,小成に甘んじるならば,一番はじめの師匠だけでも満足できたのだろうが,菑川の公孫光が古方を伝えていると聞けば,出かけていって師事し,その方が尽きたところでは,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年(180BC)のことである。陽慶に死なれた後で,吏の拘束をおそれて斉国内をさまよっている間にも,数師に事えて研鑽を怠らなかった。
⑥高后八年:高后は,高帝の后,呂雉のこと。高帝が崩御した後,政治の実権を握っていた。問対の中の「至高后八年」に注して,黄善夫本をはじめとする諸本には「徐廣曰:意年二十六」あるが,清の同治年間に,張文虎の校訂を経て刊行された金陵書局本では,「徐廣曰:意年三十六」に作る。瀧川亀次郎『史記會注考證』が,これを底本とする。中華人民共和国成立後,1959年から中華書局より刊行された,二十四史標点本シリーズの第一弾のとしての『史記』も,これを底本としている。
⑦同郡元里:同郡は,臨菑郡だろう。元里までは分からない。
➇公乘:中国の秦漢代には,一般庶民にも爵位が与えられていた。ただし,下から八位の公乗が,庶民および下級の吏に与えられる上限であった。したがって,公乗といえば,民間ではかなりの有力者であった。
⑨陽慶:問対の最後のほうには,楊中倩として登場する。
⑩無子:淳于意が弟子入りした時,陽慶はすでに七十余歳で,本文では「無子」というが,問対の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。話を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
⑪使意盡去其故方,更悉以禁方予之:問対の資料の中では,陽慶を紹介してくれた前の師匠である公孫光も,「是吾年少所受妙方也,悉與公,毋以教人」と言い,淳于意は「死敢妄傳人」と応えている。
⑫黄帝、扁鵲之脈書:どこまでが書名なのか,いささか迷うが,ここまでは間違い無い。黄帝は君主が田姓に替わってから斉で重んじられ,扁鵲も東方の人で,最後は妬まれて秦の侍医に暗殺されたことになっている。つまり,東方の系統の医学である。
⑬五色診病:五行説に拠って診断するということだろう。あるいは顔面の色を見るのかも知れない。
⑭知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精:人の生死を知り,嫌疑を決し,治す可きを定め,薬論に及んで,甚だ精し。
⑮受之三年,爲人治病,決死生多驗:対問の資料の冒頭付近では,「受讀解驗之,可一年所,明歳即驗之有驗,然尚未精也,要事之三年所,即嘗已為人治診病決死生,有驗精良」という。師匠が死んだから,三年で修行を終えることになってしまったとも言えるが,ほぼ学び得たのをみて,安心して死んだとも言えそうである。
⑯左右行游諸侯,不以家爲家:対問の資料中には,「臣意家貧,欲為人治病,誠恐吏以除拘臣意也,故移名左右,不脩家生,行游國中」とある。一般の患者を断って,貴人に取り入ったという気配は無い。
⑰不爲人治病,病家多怨之者:対問の資料中には,師の陽慶のこととして,「慶家富,善為醫,不肯爲人治病」と言う。それで誰かに怨まれたとは言わない。

司馬遷には,話を分かりやすくする為に,あるいは感動的にする為に,資料を脚色する傾向は無いか?

2012年8月1日 星期三

9月の読書会

9月2日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の 多目的室です。

2012年7月27日 星期五

中国から覗く

googleのblogは,中国からは見にくいのか?それはまあ,見にくいかも知れない。でも,全く絶望的,というわけでも無さそうです。
このblog,実は前のが不調(理由はわからない,たぶんに私の知識不足のせい)で,今年に入ってからgoogleに切り替えてます。で,統計の参加者を覗くと,全期間の国別のページビューとして,日本がダントツなのは当然ながら,次はロシア,アメリカ合衆国,台湾ときて,中国なんです。台湾の半分くらいなんですがね,中国からは見にくいだろうという思い込みからすると,ケッコウ健闘してもらっているんじゃなかろうか。
見て欲しい人が見ているか。それは分からない。けれど,それは日本国内からのページビューだって,同じことだろうから。

2012年7月26日 星期四

倉公の生涯の時を推し量る

淳于意が師としての陽慶に見えたとき,つまり高后の八年には,彼は何歳だったのか。徐広の注には「年二十六」とあるが信じない。後世の注に過ぎないし,後文の「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」を,「今師匠に死なれてから,もう十年ばかりたちます,私が師事して三年を経た三十九歳のときのことでした」と解したいからである。(この解は,筑摩書房の小竹兄弟訳とほぼ同じ。)
人の上書によって長安に送られたのは何時なのか。これはもう,『史記』倉公伝の「文帝四年」は誤りで,孝文本紀の「文帝十三年」が正しかろう。何故に誤ったのか。倉公伝の本文を,トントンと調子よく話し進めるについて,筆が滑ったのではないか。高后の八年に陽慶に見え,三年学んで,師匠に死なれ,それにともなって何かがバレて,あるいは批判がたかまって,文帝の四年に誣告された。時間の流れがスムーズで分かりやすい。分かりやすくするために,筆を曲げた可能性すら感じる。例えば,本文では,陽慶は年七十余で子が無い,だから淳于意に禁方を授けた。なるほど,分かりやすい。ところが答問には子の殷が登場する。むしろ,弟子入りの仲介者である。
ところで,誣告の理由は何なのか。密かに禁方を受けていたのがバレたのか,あるいは治療を断って病家に恨まれたのか。しかし,それは都へ送られて断罪されるべきことなのか。召し出された理由は,実は斉の文王の治療をしないで,直接に仕えていた陽虚侯,後の斉の孝王の利益を謀っていると疑われたのではないか。それならまあ,考え方によっては謀反に近いかも知れない。しかし,朝廷側にしてみれば,東方の大封である斉の王が死んで,その領土をその親族たちに分割できれば,そのほうが好都合である。で,季女の上書を口実にして,淳于意を赦し,結果として(といえるか?),斉の文王は死んで,斉は分割された。
では,詔して医術について問われたのは何時なのか。それはもう,陽虚侯が首尾良く斉王になった文帝の十六年以降である。診籍に登場する封号などからみて,そういうことになる。なぜ,十三年の都送りからそれだけの時間がかかったのか。おそらくは,朝廷が淳于意の医術の価値を認めるのに,気付くのに,それだけの時間を要したということだろう。ただ,答問のはじめのほうに「今師匠に死なれてから,もう十年ばかりたちます」というのが気にかかる。「今」が誤字なのだろうか,それとも「所」で表現される「ばかり」には,案外と長さにはばが有るのだろうか。最後ちかくの,弟子についての問いに答えている淳于意には,すでに引退している気配がする。

2012年7月20日 星期五

不改其楽

何を楽しみとするのか。おのれの是とする生活を楽しみとする。世の中の役にたつ存在であることの楽しみも有ろうし,おのれのこころの自由を得ることの楽しみも有ろう。しかし,ここには「改めず」という句が有る。理想と考えていたはずの境遇に在って,それとは裏腹な不如意に陥っても,それによって,満足度が揺らぐようなことはない。理想と考えていた境遇に達するのが難しくなっても,それによって,志したはじめの昂揚が薄れるわけでもない。
あるひと曰く:師匠である私自身は,日暮れて道遠しの心境で,ややともすれば不遇をかこちがちになる。ところが甥にして弟子でもあるおまえは,なんとまあ,私が教えたとおりに,身も心も持して揺るがない,その楽しみを改めない。偉いものだなあ。

2012年7月15日 星期日

素問の大きさ

近ごろ用いる『素問』、『霊枢』は,当然ながら日本内経医学会が発行しているもの。まあ,実際には,パソコン上のテキストを利用するほうが多いけれど,もともとの様子が心配になれば,影印を覗いてみるわけだ。で,最近は小さな文字がややつらい。『素問』の王冰注や新校正は,夜間の節電の下,疲れた目にはややつらい。それで,もともとの顧従徳本ではどんな程度の大きさの文字だったのかと気になって,開いてみたら,巻頭付近に:
上海涵芬樓景印明顧氏翻宋本原書板心高營造尺六寸七分寛四寸九分
とあります。はずかしながら,最初,尺六寸七分✕四寸九分とみて,とんでもない,そんなに細長いわけがない,と思いました。勿論,営造尺で切ります。つまり,六寸七分✕四寸九分です。営造尺は昔の大工が使った尺で,つまり家屋や城壁を営造するときに使用した尺のようで,一般の尺より,若干長くて1尺=30.65センチ。してみると,もともとの顧従徳本は,高さ20.53センチ✕幅15.01センチ。面積で四倍ほどに拡大コピーして,B5のスクラップブックに貼り込むと,昔の本物に近い大きさということになる。昨今の影印本がB5でシリーズ化するのにも,根拠が有ったんですね。

2012年7月1日 星期日

清明上河図の展開

清明上河図は,大好きなんだけど,辟易するところも有る。
例えば,このBLOGのタイトルに使っている部分,お店の土間のかたちが歪んでいるでしょう。それは逆遠近法だそうです。現代の我々からするとはなはだ奇妙ではあるけれど,どうも中国だけのものではなくて,古くはむしろ一般的(?)だったらしい。
そのあおりも有ってか,その上のやや左よりの部分ですが,これも変でしょう。
観るものからほぼ同じ距離のはずの人物に,これだけの大小の隔たりが有ります。
いくらなんでも……。
でもね,これは絵巻物なんです。開いていって,閉じていって,中央の建物群がそれぞれの「世界」の境界であるとしたら……。
つまるところ,現代の目で観れば奇妙な,あるいは敢えて言えば稚拙に思えるところにも,むかしの人の立場から言えば,様々な工夫が潜んでいるのかも知れない,というおはなし。

2012年6月30日 星期六

治せるわけが無い

鍼灸医学に,本当に,病が治せるのか。

治せるわけが無い。
誤解しないでいただきたい。「わけ」が無い,と言っている。治らないのではない。
日本のいわゆる経絡治療にせよ,中医鍼灸にせよ,マニュアルには治せる「わけ」をうたっている。そんなものは嘘か,あるいは方便であると,やっと悟った。
『内経』に,筋の病では圧して痛むところを輸となし,そこに瞬間的に熱刺激を与えれば癒えるとある。やってみればいい。身体の内部の機能は五蔵が分担して管理している。五蔵には原穴が有る。取ってみればいい。水穀を摂取し,こなして,排泄するのは,六府の役目である。六府には下の合穴が有る。試してみたらどうか。
無論,それで全てが上手くいくわけが無い。そこで,いろいろと苦労する。マニュアルを引っかき回して,さまざまに試みたりもする。別に魔法の呪文のような特別な「わけ」が有るわけじゃない。「あたり!」により早く到達するための,割合に有効な秘訣を期待するだけである。『内経』あたりを読むのも,最初の最初の一歩に,覚悟を定める為である。

私自身は,やっとここまで悟るのに,随分と時間をついやしすぎた。
それでもきっとこれからも「わけ」を求めて足掻くだろう。因果な性格だ。

2012年6月25日 星期一

粗いという魅力

現代日本の古典的な鍼灸治療では,身体の情況を五蔵の虚実として把握し,それを,五蔵の名を冠した経脈とそれに関連する(母子とか表裏とか)経脈の補瀉で解決するのが,基本となっているらしい。
ところが,『霊枢』邪気蔵府病形には,五蔵の脈の急緩、大小,そして滑濇の病症が列挙され,それぞれを多寒か多熱か,多気少血か血気皆少か,さらには陽気が盛んで微かに熱か,多気少血で微かに寒かの状態として把握し,それぞれに対応する治法を試みようとしている。寒熱と気血の多少と,両者の兼ね合いとして,まとめようとしているらしいが,上手くそろわない。また,無理にはそろえない。
『素問』調経論では,志 の有余、不足と,微あるいは未并として把握し,それへの対処法が述べられている。経文に,五蔵との関連は明記されてないようだが,まあ,常識の存在は認めてよかろう。しかし,昨今のように,どの蔵の問題か,問題は虚なのか実なのか,だから名を冠した経脈を補いあるいは瀉すというような,よく言えば整った,わるく言えば杓子定規なのとは違う。例えば,形の有余と不足では,腹脹涇溲不利とか四肢不用とかになり,(足の)陽明の経を瀉し,(足の)陽明の絡を補う。志の有余と不足では,腹脹飱泄とか厥とかになり,(足の少陰の)然筋(然谷の下の筋?)の血を瀉し,(足の少陰の)復溜を補う。これらを未だ整理が不十分と言うことはできようが,原始の魅力に満ちているとも言えそうである。
新しい,教科書的な知識に拠っては,古い記録を誤解する,ことも有る。古い記録には,古代の名医の感動が,粗いままに籠められていると思いたい。

2012年6月22日 星期五

上海の街角を案内するテレビ番組に,四川北路近くの市場風景があって,盥に魚の札が附いていた。スッポンである。別に滋養に良いものとして,先ず第一に指を屈すべき魚という意味ではなくて,ヨロイをつけたサカナという意味である。
日本には,古来,をカブトと誤解していたむきが有るので,ハテナを出されるかも知れない。冑という詞語は,経典著作にも出るらしいし,上に,下に冑であるから,間違うのも無理はなかろうが。
美猴王は,竜宮へ武具をねだりにいって,如意金箍棒の他に,藕絲歩雲履と鎖子黄金と鳳翅紫金冠をまきあげている。もし,がカブトであったら,カンムリの上にカブトをかさねるという,珍妙なことになってしまう。むかしの訳者の中には,それで平然という人もいましたがね。

無題

もしも,橋の下さんの下にいたら,わざわざ墨を入れにいき,わざわざ酒を飲み(これはもともとか),さらに,わざわざ政治活動を覗きにいきそうな,気がする。

2012年6月18日 星期一

重合経而冠鍼服

この八字は,『素問』の王冰序に見える。「合經」は,やはり「經合」が正しいのだと思う。森立之『素問攷注』の,全元起本では「経と調の二論は第一巻に在り」,鍼経に冠する,魅力的ではあるけれど,やはり無理でしょう。「鍼服」を「鍼經」にしたのも,単に森立之のミスじゃないか。上海の段逸山教授は,王冰本にも全元起本にも、針服篇とか針服という文字を含む篇とかが、無いのに困っているらしいが,『素問』八正神明論の冒頭に「用鍼之服,必有法則焉」とある。してみると,「鍼服」は八正神明論を指しているのではないか。八正神明論は,全元起本では第二巻の,同じ巻の中では王冰本も全元起本も各篇の順は同じとすれば,真邪論すなわち経合論の前に在る。第二巻に在るときの名が経合論でないのは残念だが。重合而冠鍼服=第一巻の経合を重ねて,第二巻では真邪論とする篇の前に,「」云々の篇を冠する。古い書物の名は,取りあえず,冒頭近くのいくつかの文字によることが多い。八正神明論という名の前には,冒頭の「用鍼之服」によって,鍼服と呼ばれていた可能性も無くは無い。
(劉衡如さんが,すでにこうした説のおおむねを,述べていらっしゃった。)

2012年6月15日 星期五

耳目の得るところに非ず

『太素』巻二十四・本神論(『素問』の八正神明論に相当)の末近くに,「黃帝曰:何謂神?歧伯曰:請言神,神乎神,不耳聞,目明心開爲志先。」とあって,楊上善は「能知心神之妙,故曰神乎神也。神知則既非耳目所得,唯是心眼開於志意之先耳。」(仁和寺本『太素』では楊注中の「神乎神」を「神於神」に誤る)と言う。「耳目の得るところに非ず」というからには,経文は「請言神,神乎神,不耳聞,目明,心開爲志先。」とあるべきではないか。もっとも,八正神明論もここのところ,「請言神神乎神耳不聞目明心開爲志先」として,二つ目の「不」字は無い。ただ,李克光・鄭孝昌主編『黄帝内経太素校注』に,服子温云うとして,「目の下に不字を脱するを疑う。楊注の神知則既非耳目所得は証たる可し」を引く。彼の本も,まんざら棄てたものではない。服子温の説は,もともとは八正神明論についてのもののようで,郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』でも指摘している。

2012年6月13日 星期三

読書会について

読書会のBLOG「岐黄会 はなそうかい」を公開しています。

今後、読書会の予告とか報告とかは、そちらが主になると思います。

気については、ひとつ、気がかりなことが有る。
中国の過去の美術に関して、専門の画家によるものは、職人技に過ぎないと蔑視され、文人の手すさびを称揚する、というのが一般的であった。そこには教養からほとばしる気の生動が有る、というわけだ。しかし、これを現在の日本に置き換えると、いや、極端なはなし、小学校の図画工作で、「◯◯ちゃん、のびのびと描けましたね」という、安易な褒め言葉に通じないか。「へただけれども、のびのびと描けている、専門家の筆遣いや構図に囚われてない」という、逆立ちした論理。たしかに、子供の絵には、稀にそうしたものを見る。
でも、これを他に及ぼされてはかなわない。中国伝統医学にこの論理を及ぼされてはかなわない。それはまあ、専門医のしゃちほこばった知識で不治を宣せられるよりは、たいして根拠は無くとも一緒に頑張ろうといわれたほうが嬉しいかも知れない。でも、ねえ。
病における気がどうなとは、そんな気がするとか、気の持ちようでどうとでもなるとかいうことではなくて、いやそれも有るだろうけど、身体を順調に流れているべきものには、血液とかリンパ液とかだけじゃなくて、まだ他に、何だかよく分からないものが有って、それを取りあえず、気と呼んでいるとか、あるいはそもそも、身体そのものが流れているべきものであるとか、そんなふうに考えたい。
で、どのようにして順調に循環させるか。微針を以て、その経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らさん、と欲す。

2012年6月11日 星期一

7月の読書会

7月の読書会は,第5日曜です。

7月29日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の 多目的室です。

『素問』校読は,標本病伝論 とか 皮部論 なんぞを。

2012年6月7日 星期四

近者編絶

『太素』巻14人迎脈口診に、「雷公問於黃帝曰:細子得之受業,通九鍼六十篇,旦暮勤服之,者編絕,者簡垢,然尚諷誦弗置,未盡解於意矣。」とあり、楊上善注に「南方來者,九鍼之道有六十篇,其簡之書,遠年者編有斷絕,其近年者簡生塵垢,言其深妙,學久日勤,未能逹其意也。」とある。蕭延平は「近、遠二字,據注宜互易。」という。それはそうだ。今、気がついた。もっとも、『霊枢』は「近者編絶,久者簡垢」に作る。

2012年6月6日 星期三

促織

『聊斎志意』に、促織というのが有る。名作の誉れも高いらしい。だからか、むかし平凡社からB5版箱入り二冊本で出たときには、古い本のその挿絵が表紙デザインに用いられている。
促織はコオロギである。かいつまんで言えば、明代の宮中で、盛んだったコオロギ合わせのお話。西方の地方官がよせばいいのに、一匹献上した。それがまた、意外にも活躍したので、さらに献上せいということになったが、西方にはそうそうコオロギなんていない。上官は下役に命令をおしつける。下役は途方にくれる。でも、まあいろいろ苦労のすえなんとか一匹捕まえる。それを、下役の小さな子供がうっかりひょんと逃がしてしまう。下役は当然ながら叱責する。叱られて、子供は井戸に身を投げる。その後の一節を平凡社の増田渉訳で示せば:
日も暮れかけたので子供の屍骸を片づけるために、藁づつみにして葬ろうと、近づいてさわってみると、まだかすかに息があった。驚きよろこんで、すぐ寝台の上に寝かしておいた。すると夜中になって再び生き返った。夫婦はやっと安心した。だが、子供は痴呆のように、昏昏と眠りつづけている。一方、こおろぎのいなくなったからっぽの籠をふりかえると、成は気が滅入って、声もたて得ず、子供の様子をみようともしないで、暮れ方から夜明けまで、まんじりともしなかった。
ここのところ、人民文学出版社の初稿に近そうな原文では、以下のようになっている。
日将暮,取児藁葬。近撫之,気息惙然,喜置榻上,半夜復甦。夫婦心稍慰。但蟋蟀籠虚,顧之則気断声呑,亦不敢復究児。自昏達曙,目不交睫。
つまり「子供は痴呆のように、昏昏と眠りつづけている」に相当する句は無い。子供は、あっさりと回復してしまっている。
さて、子供が逃がしたからといって、そのままですむわけも無く、さらに探してなんとか一匹、やや貧弱にも見えるものを捕らえて献上すると、意外や意外の大活躍で、地方官も上からのお覚えめでたく、下役にもたびたび賜り物が有って、豊かになったという。その末尾に近い部分を平凡社の増田訳で示せば:
知事はよろこんで成の夫役を免じ、また学使にたのんで県の試験及第者の資格を与えてもらった。それからは虫を飼うのがうまいという評判をとり、巡撫からたびたび特別に目をかけられた。
ちょっと待ってよ、痴呆のように、昏昏と眠りつづけている子供はどうなったの、と柴田天馬訳を引っ張り出してみれば、「資格を与えてもらった」と「それからは虫を飼うのがうまいという評判」とに相応する句の間に:
ひと歳あまりの後、成の子は、精神が、もとのとおりに直って、言うのであった。
「あたい促織になって、はしっこく、うまく闘をしたよ、今やっと甦ったの!」
さては柴田天馬が、かってにめでたしめでたしにしたのか、と思ってインターネットで調べたら、どの(流布本の)原文にもこの部分の句は有る。つまり、初稿と流布本の間には、子供と最後に活躍するコオロギの関係なんて無いものと、仮死の子供の化身したコオロギが活躍したのだと説明する改編との間には、平凡社本が拠った中途半端な本が有ったことになる。平凡社の増田訳では、痴呆のように、昏昏と眠りつづけていた子供は、その後どうなったのか。

金星

星新一『夜明けあと』(1991年2月 新潮社)の明治七年(1874)に:
金星が太陽面を通過。英米仏などから、観測隊が来日。なんの役に立つのかとの疑問に、解説の記事がのった(東日)。いま読んでもわかりにくい文。
東日は、東京日日新聞がフルネームらしい。毎日新聞の前身らしい。

2012年6月4日 星期一

落書

今までに見たうちで、最も衝撃的な落書きは、1989年6月の初めのころの、かの国の巨大都市郊外で見た、当時も現在もかの国を強力に支配する、ある政党の打倒を叫ぶもの。あれは幻覚だった、のか。

2012年5月26日 星期六

陽中之少陽

『黄帝内経太素新新校正』巻21諸原所生の経文「(陽)〔陰〕中之少陽,肝也,其原出于大衝,大衝二。」と、楊注「日出初陽,故曰(陽)〔陰〕中之少陽也。」を、経文「陽中之少陽,肝也,其原出于大衝,大衝二。」と楊注「日出初陽,故曰陽中之少陽也。」に改めます。『太素』の原文のママのほうが、経注が相応するような気がしてきたからです。肝を陽中の少陽とするのと、陰中の少陽とするのと、本当はどちらが正しいのか、というのとは別の問題です。なんだか、どちらにも古い根拠は、有るらしい。
まあ、この篇としては、横隔膜以上を陽、以下を陰として、そこに在る蔵の性質から太陽だとか少陽だとか、言っていそうな気がするのだが、楊さんの意見は違うみたいだし。

2012年5月14日 星期一

少陽終者

『素問』診要経終論の篇末付近に十二経脈の終わりかたについての記事が有って、少陽については、郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』も、「耳聾,百節皆縦,目睘絶系,絶系一日半死,其死也色先青白,乃死矣。」と句読し、その上で「先」字は衍ではないかと疑っている。まあ、それくらいが標準的な解釈だろう。
ところが、読書会の仲間のひとりが、「其死也色先青,白乃死矣」と言い出した。考えてみれば確かに、「色が先ず青白くなる」の前後を、「其死也」と「乃死矣」で挟んだのでは、いかになんでもくどい。
そこで調べてみると、竜伯堅の『黄帝内経集解・素問』(2004年天津科学技術出版社 原稿は1957年に完成?)は「其死也,色先青,白乃死矣。」として、「死的時候,面部先呈青色,由青転白就死了。」(死ぬときには、顔色は先ず青くなるが、それが青から白に転じたらもうすぐ死ぬ)と現代語訳している。他にも、周鳳梧と張燦玾の『黄帝内経素問語釈』(1985年山東科学技術出版社)も、ほぼ同意見です。
いやなに、こんな程度の問題にも、最近の名高い教授の間で意見の齟齬が有る。そこへ吾等の仲間も割って入る。いや、おもしろい。

2012年5月13日 星期日

6月の読書会

6月の読書会は,第2日曜です。

6月10日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の サークル室です。

『素問』校読は,八正神明論 なんぞを。

2012年5月12日 星期六

皇帝内経

資料の提供をうけて,日本内経医学会のBLOGに,『漢文文法と訓読処理』の正誤表を書き込みました。
でも,それで全部ではないんです。当たり前だけど。
例えば,226頁の14.41に「黄帝人耶?抑非耶?」とあって,意味は「皇帝は人間なのですか、それともそうではないのですか」だそうです。言うまでもないけれど,ここの皇帝は黄帝の誤りです。
でも,黄と皇は,古来同じ発音ですからね。
秦の始皇帝が皇帝という称号を採用したのも,漢の武帝のときの司馬遷が『史記』を『五帝本紀』の黄帝から書き始めたのも,黄帝と皇帝の関係からだと聞いたことが有ります。実は同じようなもの,と意識されていた,かも。
で,だから,2003年に中国中医薬出版社から出た李今庸先生の『古医書研究』,さすがに本文ではないけれど,著者紹介に『新編皇帝内経綱目』、『皇帝内経索引』を主編とある。現代の一般的な中国人にとっても,黄帝と皇帝なんて,感覚的には同じようなもの,なのかも知れない。

2012年5月5日 星期六

2012年5月1日 星期二

難経訳解

私は『難経』嫌いを標榜している。そして,恩師の島田隆司先生も『難経』嫌いであったかのように思われているのかも知れない。しかし,これには少し説明が要る。
私と島田先生の本格的な縁は,鍼灸師養成学校の三年次,漢方概論の授業に始まる。(本来は小野文恵先生の予定だったが,大病後の為に急遽ピンチヒッターがたてられた。)島田先生の漢方概論には特徴が有って,先ず生徒に『素問』と『霊枢』を買わせる。そして,おおむね『素問』を教科書として話をする。例えば摂生の話なら上古天真論,陰陽の話なら陰陽応象大論,蔵象の話なら霊蘭秘典論とか。(勿論,経脈の話には『霊枢』の経脈篇でしたが。)『素問』の最重要な篇には大雑把ながら目を通したというわけである。そこで卒業後,何人かの同窓生と古典の読書会を始めたときには,対象を『霊枢』とすることにした。島田先生に顧問をお願いして,引き受けていただいたのではあるが,確か発会式と称して一緒に酒を飲んだくらいのものではなかったか。ただ,折に触れてアドバイスはいただいたし,毎週一回の二年ほどで『霊枢』を一応読み終わった後に,次を何にするかの相談にも乗ってもらった。その回答が,実は『難経』である。だから,嫌いというよりは,初心者は用心した方が良いという意味だったと思っている。
つまり,安易なマニュアルとして利用しようということなら,やめたほうが良いという意味だろう。私なんぞは,未だに『難経』にはとらわれそうで,だから避けたい気分が強い。厄介なことである。
『難経訳解』は,こわごわ読んでみた,とりあえず2011年10月末の段階の記録である。 (もう,半年も前だ!)
【参考書】
郭靄春・郭洪図 『〈八十一難経〉集解』 1984年 天津科学技術出版社
凌耀星 『難経語訳』 1990年 人民衛生出版社
凌耀星 『難経校注』 1991年 人民衛生出版社
何愛華 『難経解難校訳』 1992年 中国中医薬出版社
沈澍農・武丹丹 『難経導読』 2008年 人民軍医出版社
煙建華 『難経理論与実践』 2009年 人民衛生出版社 
『黄帝内経素問』 顧従徳本
『黄帝内経霊枢』 明刊未詳本

2012年4月29日 星期日

あんにゃもんにゃ

未だ? 已に?  例年は今頃が 見頃だったはず?
隣の藤棚 これは未だ だ!

並太陰之経

『太素』巻第九の十五絡脈に,「手太陰之別,名曰列缺,起於掖下分間,太陰之經直入掌中,散入於魚際」云々とあって,楊上善の注に,「並,薄浪反」とあります。
ホウであれば,「傍」に通じ,近寄る,接近するの義で,ソ・フと訓む。
つまり,「……太陰の経にそうて直ちに掌中に入り……」です。
どれほど違うのか,分かりませんが。

2012年4月26日 星期四

ソフトとハードとアップデート

中国伝統医学,中でも鍼灸医学を説明するには,現代ではパソコンを例にしてはどうだろう。
パソコンには,マザーボードやプロセッサやハードディスクやケーブルやキーボードやマウスなど,そしてケースが要る,つまりハードウエアの無いパソコンなどというものは有り得ない。人体においても,皮膚や血管や筋肉や骨骼や内臓など,つまり物質としての肉体が無いわけにはいかない。
しかし,パソコンは,スイッチを押して電源が入り,ソフトウエアが立ち上がってこそ,パソコンである。人も,ただそこにどてっと横たわっている肉の塊を,人とは言いがたい。人では五蔵がソフトウエアを分担して,人を人らしい生命たらしめている。
そして,人のパソコンとの最大の違いは,運転に要するエネルギーを輸入し配給し,ハードウエアを維持し更新する装置を,自前で持っていることではないか。つまり人には六府が有る。

五蔵の不調は,原穴に現れる。そして,原穴に現れた異常を治めてやれば,五蔵の不調も治まると期待される。もし反応も効果も思わしくないとなれば,経脈上を指先側あるいは肘・膝側に探ってみる。そこで,本輸というグループが想定される。何故に,原穴か。最初は五蔵の近くに診断兼治療点が有ったはずである。ところが偶然にか,考えに考えて,探しに探しての結果か,腕・踝関節付近に特異なポイントを見いだした。その方が使いやすいには違いなかろう。では,もともとの,五蔵付近の診断兼治療点は何処だったのか。今いうところの背兪などはよいかも知れない。そこで,五蔵の病を疑ったら,原穴を取ってみる。思わしくなければ,指先あるいは肘・膝側に探ってみる。原穴と背兪で挟み撃ちもおもしろい。
六府の不調は,下合穴を試みる。六府のうちでも,胃・大腸・小腸は,一組だろう。だから,足陽明の膝下に三里上巨虚下巨虚が並ぶ。水に関しては,三焦と膀胱の治療点として膝の後ろに委陽委中が並ぶ。そもそも三焦と膀胱は一体に近いから,これは妥当だろう。胆は,消化器系全体の不調,あるいは中毒のような事態を想定しているのかも知れない。陽陵泉を取る。もう一つ,脾は蔵であるけれども,他の四蔵とは別格のようで,水穀の精微を分配する役目を負うているのだから,これも下合穴じみた陰陵泉で対応させてよさそうである。『霊枢』九針十二原篇には,陽陵泉と陰陵泉も番外風ながら登場する。そういえば,『霊枢』の十二原穴には,五蔵の十原の他に,鳩尾脖胦が有る。これはひょっとすると,府の原穴ではあるまいか。鳩尾は上腹の担当で主な症状は脹,脖胦は下腹の担当で主な症状は泄,なんてね。
ハードウエアとしての肉体はどうするか。ケースに相当しそうな筋肉系統であれば,圧して気持ちいいとか痛いとかに,火鍼を試してみてはどうだろう。その他のハードウエアの故障で,鍼灸ではちょっと難しそうなものは,別の手立てを考える。外科のお医者さんに頼ったからとて,裏切り者よばわりは,ちょっと違うのではあるまいか。
『霊枢』の幾篇かに,頚周りに陽経が到達したポイントのセット(ほとんどに天の字を冠する)の記載が有る。消化器系統あるいは筋肉系統のどちら用なのか,本当は分からないけれど,どっちにしても試してみる価値は有りそう。
背兪―(蔵)―原穴
頚周りの天穴―鳩尾or脖胦―(府)―下合穴
頚周りの天穴―圧痛点

2012年4月25日 星期三

五十六難の連歳不已

西岡由記『図説難経』(2012)に,五十六難の「肝之積 名曰肥氣 在左脇下 如覆杯 有頭足 久不愈 令人發咳逆 㾬瘧 連不已」の「歳」は「噦」と読むべしという説が紹介されている。臨床的には,左脇の下にしこりが有ると,逆気して噦(しゃっくり?)が続くことはしばしば経験しているし,またそもそも文章的にも,「久不愈」と「連歳不已」では,慢性化する解説がかさなるのはおかしい,とのことです。

でも,今までの中国の学者さんにも,そうした異見の人は無かったというのは,しこりができて,それが簡単に消えてくれればいいけれど,そうでないと咳き込んだり,瘧を発病したりして,何年も苦しむことになる,ということで別に不都合を感じなかったということでしょ。

もう一つ蛇足を付け加えると,そもそも十七難に,経言として「病或有死,或有不治自愈,或連年月不已」というのが有る。同じ書物の中で,かしこでは「連年月不已」,ここでは「連歲不已」だとすると,どうしてそんな言い換えをしたのか,不審ではある。そこで,何愛華『難経解難校訳』(1992)では,『脈経』、『甲乙』、『病源』巻十九『積聚』、『要方』、『外台』、『校訂』に拠って「月」字を補って,「連歳月不已」としている。現代中国人にとっても,「月」字が有ったほうが自然な言い回し,ということなんですかね。「年」じゃなくて「歳」なのは,もとの字がそれかそれに近い形だったから,ということなんですかね。

2012年4月22日 星期日

5月の読書会

5月の読書会は,ひさびさの第2日曜です。

5月13日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の 音楽室!です。

2012年4月21日 星期六

さすがに……

土手が崩れる恐れがありますので 上がらないで下さい

のこるところはこれだけ

2012年4月15日 星期日

未だかくの如し

上にサクラ 下にタンポポ 中にチビッコ とママ?

よこになって みあげてみれば

2012年4月12日 星期四

『太素』脈論の(新)新新校正

『太素』巻16脈論の、『素問』では経脈別論21に相当する部分、新校正でも:
是以夜行則喘,喘出於腎,淫氣病肺。
有所墯恐,喘出於肝,淫氣客於脾。
有所驚駭,喘出於肺,淫氣傷於心。
度水跌仆,喘出於腎與骨,當是之時,勇者氣行已,怯者則著而爲病。
と句読していましたが、楊上善注に従えば:
是以夜行則喘,喘出於腎。
淫氣病肺,有所墯恐,喘出於肝。
淫氣客於脾,有所驚駭,喘出於肺。
淫氣傷於心,度水跌仆,喘出於腎與骨,當是之時,勇者氣行已,怯者則著而爲病。
とすべきです。新校正の編修方針としてはそうあるべきでした。ただし、本当はどちらが正しいのか、というのとは別のはなしです。

2012年4月8日 星期日

2012年4月2日 星期一

4月に読書会をもう一度

4月1日のお花見は、やはり無理でした。……ことしはムチャクチャおそい。

3月をお休みにした代わりとして、4月の読書会は、もう一度やりましょう。
4月22日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の多目的室 です。

4月の第4日曜日のお花見は……、それは、いくらなんでも、無理でしょう。

2012年4月1日 星期日

万愚節

『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』の台湾版『黃帝內經精要解說圖解』が、一月の半ばに出ています。
翻訳の精度を確認するためにと、あちらの出版社に要求して、やっと数冊が届けられました。発行後おおよそ二ヶ月半です。
ひどいものです。ほとんど毎ページで首をかしげ、数ページに一カ所くらいは明らかな誤りが見つかりそうです。
別に、中国古代医学の素養が無ければ無理だとか、そういう意味ではなくて、なんでもない内容や表現を理解できてないと思う。
例えば、原文は:
パソコンのケースの中には様々なパーツが入っています。こうしたハードウエアなくして、もちろんパソコンはありえません。しかし、電源が入ってソフトウエアが立ち上がらなくては、やはりパソコンとはいえないでしょう。
翻訳は:
電腦內部有各式各樣的零件,即便沒有硬體設備,還是電腦,但如果插上電源,卻沒有啓動軟體,就不是電腦。
変じゃないですか。「ハードウエアなしのパソコンなんて有り得ないけど……」と言ったのが,「ハードウエアなんてなくてもパソコンなんだけど……」に変わってませんか。
教養知識のレベルもいささか疑わしい。唐の玄宗の時代に起こった「安祿之亂」って、何ですか。(わかりますよね、安禄の乱のはずです。)
涙が出そうです。……だから、笑っちゃいます。

現物を見て、アラさがしをしたいという、物好きな人はいませんか。
なんだったら、に連絡するか、ここにコメントしてください。(数人にですが)お贈りしたいと思います。

前に不安を告げたとき、翻訳についてのエージェンシーから:
専門用語や原理などの翻訳にミスがあるかどうかは、こちらは判断できません。もし読者を誤導したりするような重大なミスがあれば、ぜひ教えていただきたいです。対応策を考えさせていただきたいと思います。
と返信が有ったけど、そんなこと言われたって、そんなレベル、そんな量ではないような。

2012年3月31日 星期六

春刺散兪

『素問』診要経終論篇第十六に「春刺散兪」とあって、多紀元堅の『素問紹識』に先兄(多紀元胤)曰くとして、「按ずるに、散兪は本輸に対して言う、譬えば太陰肺経のごときは、少商、魚際、大淵、経渠、尺沢の外は、共に間散の穴と為し、これを散兪と謂う」とあるが、これは採りづらい。(それにしても、『素問攷注』に引くのに「太陽肺經」とするのはなんともはや。それは確かに小島宝素本では「太陽肺經」だが、「陽」字は誤りだから訂正すべしとシルシを付けている。多紀元堅が最晩年まで書き継いだ自筆稿本では、ちゃんと「太陰肺經」になっている。)
按ずるに、診要経終論と『素問』四時刺逆従論篇第六十四には、相通じるところが多い。四時刺逆従論の帝曰には「春氣在經脈」とあるが、応じた岐伯曰には「人氣在脈」だからとある。この脈は、実は経脈ではなくて、血脈なのではなかろうか。『太素』巻二十一の九針要道に「血脈在輸橫居」とあり、楊上善注では「脈が輸穴の中に横居してある」という。つまり、輸穴というものは、今日の通念のように必ずしも経脈上に配置されるべきものではなく、身体上に散在するものであり、そこに血脈としてわだかまったものは取り除くべきである、といったものであった可能性がある。輸に在る血脈に春の気、絡に在る絡脈に夏の気を配する。まあ、その程度には微妙に異なるが、春と夏とでは、刺すべき対象にそんなに違いは無いのだろう。輸に在る血脈は、絡脈あるいは孫絡に在るよりは、まだやや深い。
で、診要経終論では、気は春には身体の処々に散在する兪に芽生えるとし、四時刺逆従論では、そこに横たわった血脈に息吹としてあらわれるとする。結局、同じようなことなのだろう。
散兪は、素直に「身体の処々に在する穴」で、よさそうに思う。

2012年3月28日 星期三

無與衆謀

『素問』陰陽別論に「謹熟陰陽,無與衆謀」とあり、王冰注には「生死の疑も自ずから決し、正行して惑い無し、何ぞ衆謀議するを用いんや」といい、『太素』陰陽雜説の楊上善注には「謹んで能く陰陽脈気の道に淳熟して、心に決するものは、復た疑うこと有らず、故に衆人と謀議せざるなり」という。そんな必要は無いというつもりらしい。最近の中国の講釈もおおむね同じ。
ところが、和刻本の訓点を見ると、「陰陽ヺ熟シテ、衆ト謀ルコト無レ」のつもりではないか、と思える。他と謀って、当たり障りの無いことをする、などという態度では駄目ということではないのか。ましてや針は豪傑の術と喝破した先人もいることであるし。

微針を以て

『霊枢』が、誰かが何らかの意図をもって古来の文献を編修しなおしたものであると仮定して、その編修意図は何処にうかがえるのか。おそらくは第一篇の九針十二原に在るだろう。そして、さらにはその篇の冒頭付近に置きそうである。
砭石を使用せず、峻剤を服用させることなく、「微針を以てその経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らす」ことによって、ありとあらゆる病を治したい、という宣言がそれであろう。そして続いて、「徐にして疾なるときは実し、疾にして徐なるときは虚す」などと、具体的な手技をいう。そもそも微針とは何か。一説には、九針十二原篇の九針全てを指すという。これは採れない。いうような手技が可能なものは、毫針とか員利針とか、かろうじて長針とか、半数に満たないからである。
こういったからとて、全てを毫針ですませよう、といっていると思われては迷惑である。
はなしは逆で、病気に合わせていろいろな針が有り、それを運用するさまざまな技術が有った、そちらが常識だったんだよ、といいたい。そこへ、経脈という虚構を通して、その適切な運用によって、全てを解決できると、言揚げしてみたのだ、と考える。
そういう宣言をする以前に、さまざまな針の形を工夫し、それらを運用するさまざまな技術を鍛錬するほうの蓄積が有ったわけだ。そうすることのほうが常識だった。だから、『霊枢』の編者は、微針の巧みな運用のみでやりたいといった舌の根も乾かぬうちに、実際には自身で、先ず砭石で血脈を去れとかいいだす。『霊枢』九針十二原篇の冒頭は、新たな針術による治療、「微針を以てその経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らす」ことによる治療の宣言であった、にもせよ、そればかりでは拉致あかぬことは、編者自身が百も承知、千も合点。
つまり、病に合わせて針の形が工夫され、その針を用いる技の鍛錬が有った、という歴史の重みのほうが実際であり、あらゆる病を毫針向けに観察し、毫針の運用技術によって経脈を通じるのみで、すべてを処理したいというのは夢。そして、編者は夢もさることながら、実際のほうを、本当はより大事にしているらしい。

われながら、わかりやすい文章とはいえないかも知れない。コメントでももらって、応答をくりかえせば、まあ、なんとかなるかも知れない。

2012年3月27日 星期二

耄碌

少し前から、会の長老にして耄碌爺と、自ら戯称している。
で、最近になってむかし書いた文章の説明を求められて、立ち往生することが有る。
書いたときには、膝を打って悦んだはずなんですよ。それが今、意味不明……。


かなり前から、長老は嘲弄されてきたわけだろうが、今さらながらに頭を抱える。
でも、やはり、膝を打って悦ぶような発見(?)が有れば、懲りずに書くと思う。


請い願わくは、分かりにくい箇所が有りましたら、思いつきの情況を記憶しているうちに、問うてやってください。

2012年3月11日 星期日

太素VS霊枢

T26寒熱雑説
黄帝内経太素校注(李克光・鄭孝昌)、
黄帝内経太素新校正(銭超塵・李雲)
☞臂陽明有入鼽徧齒者,名曰迎,下齒齲,取之臂,惡寒補之,不惡寒寫之。

L21寒熱病
黄帝内経霊枢訳釈(南京中医学院)、
霊枢経校釈(河北医学院)、黄帝内経霊枢校注語訳(郭靄春)
☞臂陽明有入鼽徧齒者,名曰迎,下齒齲取之。臂惡寒補之,不惡寒瀉之。

2012年3月8日 星期四

楊上善VS王冰

『太素』調陰陽:故人病久則傳化,上下不并,良毉弗爲。
✎楊上善云:人病雖久,得有傳變,上下陰陽不并,至其所王,必當自愈,故良毉不爲也之。

『素問』生氣通天論:故病久則傳化,上下不并,良醫弗爲。
✎王冰云:并,謂氣交通也。然病之深久,變化相傳,上下不通,陰陽否隔,雖醫良法妙,亦何以爲之!《陰陽應象大論》曰:「夫善用針者,從陰引陽,從陽引陰,以右治左,以左治右。」若是氣相格拒,故良醫弗可爲也。

これほど極端に解釈が異なるのも、珍しいのではあるまいか。

2012年3月7日 星期三

もともとの『素問』?

王冰次注本『素問』平人氣象論第十八に:

胃之大絡,名曰虚里,貫鬲絡肺,出於左乳下,其動應衣,脈宗氣也。盛喘數絶者,則病在中;結而橫有積矣,絶不至曰死。乳之下,其動應衣,宗氣泄也

とある。
上に「出於左乳下,其動應衣,脈宗氣也」と有り、下にも「乳之下,其動應衣,宗氣泄也」と有っては、いかになんでもくどすぎる。案の定、新校正に、全元起本には下の十一字は無いと云う。
しかし、『太素』卷十五・尺寸診には、通行本『素問』と同じ箇所には無いけれど、この下の「欲知寸口脈太過與不及,寸口之脈中手短者,曰頭痛」の條を隔てて、「乳之下,其動應於衣,宗氣洩」と有る。
在る位置は異なるにしても、『太素』にも有るとなると話は複雑である。『太素』は『素問』と『霊枢』から再編されたとして、その『素問』は王冰以前の『素問』だったはずである。その『素問』にはこの数句は有ったことになり、しかも全元起本には無かった。一体いつ、どのような事情で紛れ込んだのか。

2012年3月4日 星期日

肺だか心だかがボウボウ

『靈樞』經脈篇に、肺手太陰之脈の是動病として、「病肺脹滿,膨膨而喘咳缺盆中痛,甚則交兩手而瞀,此爲臂厥。」とあるが、馬王堆漢墓から出土した陰陽十一脈灸經の臂鉅陰之脈の是動病としては、「心彭彭如痛,缺盆痛,甚則交兩手而戰,此爲臂厥。」とある。つまり、經驗の蓄積としては、心に關わるものであったのに、横隔膜上の藏として肺と心を想定したときに、肺の病として、レッテルの貼り替えをした可能性を思う。
ところが、『甲乙經』卷八の五藏傳病發寒熱第一下には、「臂厥,肩膺胷滿痛,目中白翳眼青,轉筋,掌中熱,乍寒乍熱,缺盆中相引痛,數不得息,臂内廉痛,上鬲,飲已煩滿,大淵主之。」という。すでに、肺の原穴である大淵の主治症として、この資料を利用した氣配が有る。してみると、陰陽十一脈灸經から『靈樞』經脈への手直しは、『甲乙經』の經穴部分の原資料と目される『明堂』が編まれるよりも前、ということになりそうなんだが……。

腧穴學の根本資料としての『明堂』も、そんなに信賴に値するのか、というお話でした。

2012年3月2日 星期五

漢籍を玩ぶ

鍼灸師の学問資料の取り扱いかたなど、あんまり疑ってもみなかったというか、ほんとはほとんどあてにしてないというか。

中年にさしかかるころから、ふとした気まぐれに、手にとって、見よう見まねに、うろ覚えに、気になるところを突きとめようとする。所詮、学者先生のようにはいきません。それなのにやるのは、学者先生が気にかけてくれないのが第一で、第二には、突拍子もないことを言い出すのは素人の特権で、そして第三には、だって面白いんだもの。先生さまに独占させておくことはない。
でも、鍼灸師にも、日本内経医学会の会員にも、もともと大学での専門が漢籍だった、なんて人もいそうだし、その人たちの学問資料の取り扱いが、堂に入ったものかどうかなんて、それも知らない。

でも、たとえば、南京あたりの新進気鋭の教授が、われわれの異見を悦んで、聴いてくれているのは、虚を突くような奇想を、期待するからじゃなかろうか。

常識が必要なのは当たり前です。たとえば、推薦図書一覧に、はじめての漢籍、なんて本があがったら、読んでみようかと思うのが普通でしょ、日本内経医学会の会員だったら。

2012年3月1日 星期四

4月の読書会

3月は都合により中止、そのかわり万愚節に用意しました。

4月1日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 2階の多目的室 です。

請注意:加納城址での花見を、という声もあがっています。多目的室に見当たらなかったら、そちらも覗いてやってください。

『素問』の診要経終論を読む予定です。
あわせて四時刺逆従論の後半も参考に。
つまり、春にはどこを刺すべきか、なんてことを検討したいと思います。
『霊枢』にも、そんなような篇は有ったはずだから、それもね。

2012年2月29日 星期三

標題の背景のお話

中央のこちら向きに、講釈をたれているひとがいる。
その左にふたり、右にひとりの聴き手がいる。
右のは、通りかかった忙しく働くひとにも気をとられている。
さらに右には、無関心に、売り物の菓子かなんぞを準備するひとがいる。
その前に立つふたりは、無駄話にあきれている。多少の興味はありそう。
左端の下方の御仁は、閑談に加わって、それを煽り、あるいはひやかすつもり。

2012年2月26日 星期日

経と注の齟齬

黃帝内經太素 卷十五 診候之二 色脈診
其色見淺者,湯液主治,十日已;其見深者,必齊主治,廿一日已;其見大深者,醪酒主治,百日已;其色夭面兌,不爲治。
楊上善注:
五色各有二種:一者生色,赤如雞冠;二者死色,赤如衃血。
其赤色輕淺,不如雞冠,此有病也,其病最輕,故以湯液,十日得已。
赤色復深,不如雞冠,其病次輕,故以湯液,廿一日方已。
赤色大深,不如雞冠,其病將重,故以藥醪,百日方差。
赤色如衃血,其病必死,面兌亦死,皆不可療也。
兌,尖小,謂面瘦無肉也。

校注にも、新校正にも、そしてだから新新校正にも、何も言ってない。

2012年2月22日 星期三

友好を一時停止

……戦闘行為があって多くの方が亡くなったが、いわゆる虐殺はなかった。……亡くなった父が1945年の終戦時に南京にいた時、地元住人にやさしくしてもらった。虐殺のようなことがあれば、対応が違っていたはず。……

カワムラという男、やっぱり阿呆だった。表敬訪問をうけて言うことか!

2012年2月20日 星期一

黄帝内経太素新新校正


日本内経医学会の発行図書で、品切れになっていた 『黄帝内経太素新校正』は、いくらかの修訂を加えて、僅かな部数ですが、印刷して有ります。






日本内経医学会のWEBページの更新が、何だか上手くいってないようなので、ここにも書き込んでおきます。

2012年1月19日 星期四

黄帝內經精要解說圖解

2012年1月18日に、台湾・周商出版より翻訳・出版されました。


博客來書籍館で商品圖片の一部を見ることができます。

2012年1月16日 星期一

2月の読書会

2月の読書会も,第3日曜です。

2月19日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の多目的室 です。

2012年1月4日 星期三

1月の読書会

2012年1月の読書会は,第3日曜です。

1月15日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の多目的室 です。

2012年1月1日 星期日