2012年3月28日 星期三

微針を以て

『霊枢』が、誰かが何らかの意図をもって古来の文献を編修しなおしたものであると仮定して、その編修意図は何処にうかがえるのか。おそらくは第一篇の九針十二原に在るだろう。そして、さらにはその篇の冒頭付近に置きそうである。
砭石を使用せず、峻剤を服用させることなく、「微針を以てその経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らす」ことによって、ありとあらゆる病を治したい、という宣言がそれであろう。そして続いて、「徐にして疾なるときは実し、疾にして徐なるときは虚す」などと、具体的な手技をいう。そもそも微針とは何か。一説には、九針十二原篇の九針全てを指すという。これは採れない。いうような手技が可能なものは、毫針とか員利針とか、かろうじて長針とか、半数に満たないからである。
こういったからとて、全てを毫針ですませよう、といっていると思われては迷惑である。
はなしは逆で、病気に合わせていろいろな針が有り、それを運用するさまざまな技術が有った、そちらが常識だったんだよ、といいたい。そこへ、経脈という虚構を通して、その適切な運用によって、全てを解決できると、言揚げしてみたのだ、と考える。
そういう宣言をする以前に、さまざまな針の形を工夫し、それらを運用するさまざまな技術を鍛錬するほうの蓄積が有ったわけだ。そうすることのほうが常識だった。だから、『霊枢』の編者は、微針の巧みな運用のみでやりたいといった舌の根も乾かぬうちに、実際には自身で、先ず砭石で血脈を去れとかいいだす。『霊枢』九針十二原篇の冒頭は、新たな針術による治療、「微針を以てその経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らす」ことによる治療の宣言であった、にもせよ、そればかりでは拉致あかぬことは、編者自身が百も承知、千も合点。
つまり、病に合わせて針の形が工夫され、その針を用いる技の鍛錬が有った、という歴史の重みのほうが実際であり、あらゆる病を毫針向けに観察し、毫針の運用技術によって経脈を通じるのみで、すべてを処理したいというのは夢。そして、編者は夢もさることながら、実際のほうを、本当はより大事にしているらしい。

われながら、わかりやすい文章とはいえないかも知れない。コメントでももらって、応答をくりかえせば、まあ、なんとかなるかも知れない。

2 則留言:

  1. 『霊枢』九針十二原の冒頭近くの「余欲勿使被毒藥,無用砭石」について、渋江抽斎の『霊枢講義』にも、張志聡の「毒藥は疾を攻める所以なり、砭石は邪を泄する所以なり」を引く程度である。『太素』九鍼要道では「余欲勿令被毒藥,無用砭石」で、楊上善は「砭石は膚を傷い、毒薬は中を損ずる」という。どちらも「峻剤を服用させることなく」だろう。
    しかし、「被毒藥」の「被」を、内服すると解することは可能なんだろうか。パソコンの検索機能を上手に使えば、用例の有無はわかるのかも知れない。でも、とりあえずは、私には難しい。
    「毒薬を被らせたりしない」は、効果的だが厳いと考えられた外用薬を塗布したりしない、という意味だったのではないか。もし、そうだとしたら、鍼について論じようという際には、薬の内服なんぞは初めから念頭に無いことになりはしないか。次元が違う。今なら、西洋現代医学か中国伝統医学か、くらいに違う。あるいは、現代西洋医学中の薬物の服用か、外科の手術か、くらいには違う。
    もともとの針術は、あくまで異常の部位に、外から直接的に働きかけようとするものであった、かも知れない。

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    1. 『史記』の高祖本紀に、「高祖(劉邦)は酒をあおって夜、沢中の小径を通り、一人を先に行かせて様子をみさせた」とあり、その「酒をあおって」の原文は「被酒」です。してみると、「被毒藥」を「きつい薬を内服させる」と解しても良いのではないか。

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