2012年6月30日 星期六

治せるわけが無い

鍼灸医学に,本当に,病が治せるのか。

治せるわけが無い。
誤解しないでいただきたい。「わけ」が無い,と言っている。治らないのではない。
日本のいわゆる経絡治療にせよ,中医鍼灸にせよ,マニュアルには治せる「わけ」をうたっている。そんなものは嘘か,あるいは方便であると,やっと悟った。
『内経』に,筋の病では圧して痛むところを輸となし,そこに瞬間的に熱刺激を与えれば癒えるとある。やってみればいい。身体の内部の機能は五蔵が分担して管理している。五蔵には原穴が有る。取ってみればいい。水穀を摂取し,こなして,排泄するのは,六府の役目である。六府には下の合穴が有る。試してみたらどうか。
無論,それで全てが上手くいくわけが無い。そこで,いろいろと苦労する。マニュアルを引っかき回して,さまざまに試みたりもする。別に魔法の呪文のような特別な「わけ」が有るわけじゃない。「あたり!」により早く到達するための,割合に有効な秘訣を期待するだけである。『内経』あたりを読むのも,最初の最初の一歩に,覚悟を定める為である。

私自身は,やっとここまで悟るのに,随分と時間をついやしすぎた。
それでもきっとこれからも「わけ」を求めて足掻くだろう。因果な性格だ。

2012年6月25日 星期一

粗いという魅力

現代日本の古典的な鍼灸治療では,身体の情況を五蔵の虚実として把握し,それを,五蔵の名を冠した経脈とそれに関連する(母子とか表裏とか)経脈の補瀉で解決するのが,基本となっているらしい。
ところが,『霊枢』邪気蔵府病形には,五蔵の脈の急緩、大小,そして滑濇の病症が列挙され,それぞれを多寒か多熱か,多気少血か血気皆少か,さらには陽気が盛んで微かに熱か,多気少血で微かに寒かの状態として把握し,それぞれに対応する治法を試みようとしている。寒熱と気血の多少と,両者の兼ね合いとして,まとめようとしているらしいが,上手くそろわない。また,無理にはそろえない。
『素問』調経論では,志 の有余、不足と,微あるいは未并として把握し,それへの対処法が述べられている。経文に,五蔵との関連は明記されてないようだが,まあ,常識の存在は認めてよかろう。しかし,昨今のように,どの蔵の問題か,問題は虚なのか実なのか,だから名を冠した経脈を補いあるいは瀉すというような,よく言えば整った,わるく言えば杓子定規なのとは違う。例えば,形の有余と不足では,腹脹涇溲不利とか四肢不用とかになり,(足の)陽明の経を瀉し,(足の)陽明の絡を補う。志の有余と不足では,腹脹飱泄とか厥とかになり,(足の少陰の)然筋(然谷の下の筋?)の血を瀉し,(足の少陰の)復溜を補う。これらを未だ整理が不十分と言うことはできようが,原始の魅力に満ちているとも言えそうである。
新しい,教科書的な知識に拠っては,古い記録を誤解する,ことも有る。古い記録には,古代の名医の感動が,粗いままに籠められていると思いたい。

2012年6月22日 星期五

上海の街角を案内するテレビ番組に,四川北路近くの市場風景があって,盥に魚の札が附いていた。スッポンである。別に滋養に良いものとして,先ず第一に指を屈すべき魚という意味ではなくて,ヨロイをつけたサカナという意味である。
日本には,古来,をカブトと誤解していたむきが有るので,ハテナを出されるかも知れない。冑という詞語は,経典著作にも出るらしいし,上に,下に冑であるから,間違うのも無理はなかろうが。
美猴王は,竜宮へ武具をねだりにいって,如意金箍棒の他に,藕絲歩雲履と鎖子黄金と鳳翅紫金冠をまきあげている。もし,がカブトであったら,カンムリの上にカブトをかさねるという,珍妙なことになってしまう。むかしの訳者の中には,それで平然という人もいましたがね。

無題

もしも,橋の下さんの下にいたら,わざわざ墨を入れにいき,わざわざ酒を飲み(これはもともとか),さらに,わざわざ政治活動を覗きにいきそうな,気がする。

2012年6月18日 星期一

重合経而冠鍼服

この八字は,『素問』の王冰序に見える。「合經」は,やはり「經合」が正しいのだと思う。森立之『素問攷注』の,全元起本では「経と調の二論は第一巻に在り」,鍼経に冠する,魅力的ではあるけれど,やはり無理でしょう。「鍼服」を「鍼經」にしたのも,単に森立之のミスじゃないか。上海の段逸山教授は,王冰本にも全元起本にも、針服篇とか針服という文字を含む篇とかが、無いのに困っているらしいが,『素問』八正神明論の冒頭に「用鍼之服,必有法則焉」とある。してみると,「鍼服」は八正神明論を指しているのではないか。八正神明論は,全元起本では第二巻の,同じ巻の中では王冰本も全元起本も各篇の順は同じとすれば,真邪論すなわち経合論の前に在る。第二巻に在るときの名が経合論でないのは残念だが。重合而冠鍼服=第一巻の経合を重ねて,第二巻では真邪論とする篇の前に,「」云々の篇を冠する。古い書物の名は,取りあえず,冒頭近くのいくつかの文字によることが多い。八正神明論という名の前には,冒頭の「用鍼之服」によって,鍼服と呼ばれていた可能性も無くは無い。
(劉衡如さんが,すでにこうした説のおおむねを,述べていらっしゃった。)

2012年6月15日 星期五

耳目の得るところに非ず

『太素』巻二十四・本神論(『素問』の八正神明論に相当)の末近くに,「黃帝曰:何謂神?歧伯曰:請言神,神乎神,不耳聞,目明心開爲志先。」とあって,楊上善は「能知心神之妙,故曰神乎神也。神知則既非耳目所得,唯是心眼開於志意之先耳。」(仁和寺本『太素』では楊注中の「神乎神」を「神於神」に誤る)と言う。「耳目の得るところに非ず」というからには,経文は「請言神,神乎神,不耳聞,目明,心開爲志先。」とあるべきではないか。もっとも,八正神明論もここのところ,「請言神神乎神耳不聞目明心開爲志先」として,二つ目の「不」字は無い。ただ,李克光・鄭孝昌主編『黄帝内経太素校注』に,服子温云うとして,「目の下に不字を脱するを疑う。楊注の神知則既非耳目所得は証たる可し」を引く。彼の本も,まんざら棄てたものではない。服子温の説は,もともとは八正神明論についてのもののようで,郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』でも指摘している。

2012年6月13日 星期三

読書会について

読書会のBLOG「岐黄会 はなそうかい」を公開しています。

今後、読書会の予告とか報告とかは、そちらが主になると思います。

気については、ひとつ、気がかりなことが有る。
中国の過去の美術に関して、専門の画家によるものは、職人技に過ぎないと蔑視され、文人の手すさびを称揚する、というのが一般的であった。そこには教養からほとばしる気の生動が有る、というわけだ。しかし、これを現在の日本に置き換えると、いや、極端なはなし、小学校の図画工作で、「◯◯ちゃん、のびのびと描けましたね」という、安易な褒め言葉に通じないか。「へただけれども、のびのびと描けている、専門家の筆遣いや構図に囚われてない」という、逆立ちした論理。たしかに、子供の絵には、稀にそうしたものを見る。
でも、これを他に及ぼされてはかなわない。中国伝統医学にこの論理を及ぼされてはかなわない。それはまあ、専門医のしゃちほこばった知識で不治を宣せられるよりは、たいして根拠は無くとも一緒に頑張ろうといわれたほうが嬉しいかも知れない。でも、ねえ。
病における気がどうなとは、そんな気がするとか、気の持ちようでどうとでもなるとかいうことではなくて、いやそれも有るだろうけど、身体を順調に流れているべきものには、血液とかリンパ液とかだけじゃなくて、まだ他に、何だかよく分からないものが有って、それを取りあえず、気と呼んでいるとか、あるいはそもそも、身体そのものが流れているべきものであるとか、そんなふうに考えたい。
で、どのようにして順調に循環させるか。微針を以て、その経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らさん、と欲す。

2012年6月11日 星期一

7月の読書会

7月の読書会は,第5日曜です。

7月29日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の 多目的室です。

『素問』校読は,標本病伝論 とか 皮部論 なんぞを。

2012年6月7日 星期四

近者編絶

『太素』巻14人迎脈口診に、「雷公問於黃帝曰:細子得之受業,通九鍼六十篇,旦暮勤服之,者編絕,者簡垢,然尚諷誦弗置,未盡解於意矣。」とあり、楊上善注に「南方來者,九鍼之道有六十篇,其簡之書,遠年者編有斷絕,其近年者簡生塵垢,言其深妙,學久日勤,未能逹其意也。」とある。蕭延平は「近、遠二字,據注宜互易。」という。それはそうだ。今、気がついた。もっとも、『霊枢』は「近者編絶,久者簡垢」に作る。

2012年6月6日 星期三

促織

『聊斎志意』に、促織というのが有る。名作の誉れも高いらしい。だからか、むかし平凡社からB5版箱入り二冊本で出たときには、古い本のその挿絵が表紙デザインに用いられている。
促織はコオロギである。かいつまんで言えば、明代の宮中で、盛んだったコオロギ合わせのお話。西方の地方官がよせばいいのに、一匹献上した。それがまた、意外にも活躍したので、さらに献上せいということになったが、西方にはそうそうコオロギなんていない。上官は下役に命令をおしつける。下役は途方にくれる。でも、まあいろいろ苦労のすえなんとか一匹捕まえる。それを、下役の小さな子供がうっかりひょんと逃がしてしまう。下役は当然ながら叱責する。叱られて、子供は井戸に身を投げる。その後の一節を平凡社の増田渉訳で示せば:
日も暮れかけたので子供の屍骸を片づけるために、藁づつみにして葬ろうと、近づいてさわってみると、まだかすかに息があった。驚きよろこんで、すぐ寝台の上に寝かしておいた。すると夜中になって再び生き返った。夫婦はやっと安心した。だが、子供は痴呆のように、昏昏と眠りつづけている。一方、こおろぎのいなくなったからっぽの籠をふりかえると、成は気が滅入って、声もたて得ず、子供の様子をみようともしないで、暮れ方から夜明けまで、まんじりともしなかった。
ここのところ、人民文学出版社の初稿に近そうな原文では、以下のようになっている。
日将暮,取児藁葬。近撫之,気息惙然,喜置榻上,半夜復甦。夫婦心稍慰。但蟋蟀籠虚,顧之則気断声呑,亦不敢復究児。自昏達曙,目不交睫。
つまり「子供は痴呆のように、昏昏と眠りつづけている」に相当する句は無い。子供は、あっさりと回復してしまっている。
さて、子供が逃がしたからといって、そのままですむわけも無く、さらに探してなんとか一匹、やや貧弱にも見えるものを捕らえて献上すると、意外や意外の大活躍で、地方官も上からのお覚えめでたく、下役にもたびたび賜り物が有って、豊かになったという。その末尾に近い部分を平凡社の増田訳で示せば:
知事はよろこんで成の夫役を免じ、また学使にたのんで県の試験及第者の資格を与えてもらった。それからは虫を飼うのがうまいという評判をとり、巡撫からたびたび特別に目をかけられた。
ちょっと待ってよ、痴呆のように、昏昏と眠りつづけている子供はどうなったの、と柴田天馬訳を引っ張り出してみれば、「資格を与えてもらった」と「それからは虫を飼うのがうまいという評判」とに相応する句の間に:
ひと歳あまりの後、成の子は、精神が、もとのとおりに直って、言うのであった。
「あたい促織になって、はしっこく、うまく闘をしたよ、今やっと甦ったの!」
さては柴田天馬が、かってにめでたしめでたしにしたのか、と思ってインターネットで調べたら、どの(流布本の)原文にもこの部分の句は有る。つまり、初稿と流布本の間には、子供と最後に活躍するコオロギの関係なんて無いものと、仮死の子供の化身したコオロギが活躍したのだと説明する改編との間には、平凡社本が拠った中途半端な本が有ったことになる。平凡社の増田訳では、痴呆のように、昏昏と眠りつづけていた子供は、その後どうなったのか。

金星

星新一『夜明けあと』(1991年2月 新潮社)の明治七年(1874)に:
金星が太陽面を通過。英米仏などから、観測隊が来日。なんの役に立つのかとの疑問に、解説の記事がのった(東日)。いま読んでもわかりにくい文。
東日は、東京日日新聞がフルネームらしい。毎日新聞の前身らしい。

2012年6月4日 星期一

落書

今までに見たうちで、最も衝撃的な落書きは、1989年6月の初めのころの、かの国の巨大都市郊外で見た、当時も現在もかの国を強力に支配する、ある政党の打倒を叫ぶもの。あれは幻覚だった、のか。