2012年6月15日 星期五

耳目の得るところに非ず

『太素』巻二十四・本神論(『素問』の八正神明論に相当)の末近くに,「黃帝曰:何謂神?歧伯曰:請言神,神乎神,不耳聞,目明心開爲志先。」とあって,楊上善は「能知心神之妙,故曰神乎神也。神知則既非耳目所得,唯是心眼開於志意之先耳。」(仁和寺本『太素』では楊注中の「神乎神」を「神於神」に誤る)と言う。「耳目の得るところに非ず」というからには,経文は「請言神,神乎神,不耳聞,目明,心開爲志先。」とあるべきではないか。もっとも,八正神明論もここのところ,「請言神神乎神耳不聞目明心開爲志先」として,二つ目の「不」字は無い。ただ,李克光・鄭孝昌主編『黄帝内経太素校注』に,服子温云うとして,「目の下に不字を脱するを疑う。楊注の神知則既非耳目所得は証たる可し」を引く。彼の本も,まんざら棄てたものではない。服子温の説は,もともとは八正神明論についてのもののようで,郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』でも指摘している。

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