2012年6月25日 星期一

粗いという魅力

現代日本の古典的な鍼灸治療では,身体の情況を五蔵の虚実として把握し,それを,五蔵の名を冠した経脈とそれに関連する(母子とか表裏とか)経脈の補瀉で解決するのが,基本となっているらしい。
ところが,『霊枢』邪気蔵府病形には,五蔵の脈の急緩、大小,そして滑濇の病症が列挙され,それぞれを多寒か多熱か,多気少血か血気皆少か,さらには陽気が盛んで微かに熱か,多気少血で微かに寒かの状態として把握し,それぞれに対応する治法を試みようとしている。寒熱と気血の多少と,両者の兼ね合いとして,まとめようとしているらしいが,上手くそろわない。また,無理にはそろえない。
『素問』調経論では,志 の有余、不足と,微あるいは未并として把握し,それへの対処法が述べられている。経文に,五蔵との関連は明記されてないようだが,まあ,常識の存在は認めてよかろう。しかし,昨今のように,どの蔵の問題か,問題は虚なのか実なのか,だから名を冠した経脈を補いあるいは瀉すというような,よく言えば整った,わるく言えば杓子定規なのとは違う。例えば,形の有余と不足では,腹脹涇溲不利とか四肢不用とかになり,(足の)陽明の経を瀉し,(足の)陽明の絡を補う。志の有余と不足では,腹脹飱泄とか厥とかになり,(足の少陰の)然筋(然谷の下の筋?)の血を瀉し,(足の少陰の)復溜を補う。これらを未だ整理が不十分と言うことはできようが,原始の魅力に満ちているとも言えそうである。
新しい,教科書的な知識に拠っては,古い記録を誤解する,ことも有る。古い記録には,古代の名医の感動が,粗いままに籠められていると思いたい。

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