2012年6月13日 星期三

気については、ひとつ、気がかりなことが有る。
中国の過去の美術に関して、専門の画家によるものは、職人技に過ぎないと蔑視され、文人の手すさびを称揚する、というのが一般的であった。そこには教養からほとばしる気の生動が有る、というわけだ。しかし、これを現在の日本に置き換えると、いや、極端なはなし、小学校の図画工作で、「◯◯ちゃん、のびのびと描けましたね」という、安易な褒め言葉に通じないか。「へただけれども、のびのびと描けている、専門家の筆遣いや構図に囚われてない」という、逆立ちした論理。たしかに、子供の絵には、稀にそうしたものを見る。
でも、これを他に及ぼされてはかなわない。中国伝統医学にこの論理を及ぼされてはかなわない。それはまあ、専門医のしゃちほこばった知識で不治を宣せられるよりは、たいして根拠は無くとも一緒に頑張ろうといわれたほうが嬉しいかも知れない。でも、ねえ。
病における気がどうなとは、そんな気がするとか、気の持ちようでどうとでもなるとかいうことではなくて、いやそれも有るだろうけど、身体を順調に流れているべきものには、血液とかリンパ液とかだけじゃなくて、まだ他に、何だかよく分からないものが有って、それを取りあえず、気と呼んでいるとか、あるいはそもそも、身体そのものが流れているべきものであるとか、そんなふうに考えたい。
で、どのようにして順調に循環させるか。微針を以て、その経脈を通じ、その血気を調え、その逆順出入の会を営らさん、と欲す。

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