同年4月21日から27日にかけて,衛生部中医司は瀋陽において中医古籍整理出版座談会を開催した。会議の主要な内容は,中医古籍整理出版規劃中の第一批12種の古籍の整理出版についてであった。会議に出席したのはそれぞれの任務の責任を負うもの,整理を行うものと関係する分野の専門家、学者、編輯を合わせて40人ほどであった。12種の古医籍は今回の整理の重点的な課題であり,もとの6種の古医籍を基礎として,6種を追加したものである。それには『素問』(天津中医学院郭靄春主編)、『霊枢経』(遼寧省中医研究院史常永主編)、『脈経』(広州中医学院沈炎南主編)、『難経』(上海中医学院金寿山、吴文鼎、凌耀星主編)、『黄帝内経太素』(成都中医学院李克光主編)、『内経知要』(主編者が決まらないうちに,専門家の審議によって,その学術的価値が他の11種ほどでないとして,取り消された)が含まれる。このうちの『霊枢経』のみが出版されてない。『霊枢経』の校注と語訳を主編するはずであった史常永先生が,任務を全う出来なかった理由は分からない。史常永先生が重篤な病に罹られたというのが,一番まっとうな理由かと思われるが,疑わしいことも有る。中医古籍整理出版規劃では,校注と語訳の編写にあたるべきものと,その審定にあたるべきものの,二つのグループが組織された。そして,1991年発行の『脈経』,1992年発行の『素問』,1996年発行の『甲乙経』の審定人の中に,史常永先生は名を連ねている。審定会議に参加できる状態であったのなら,どうして編写の仕事をしなかったのか。それに主編のもとには(弟子たちで?)組織された人員がいたはずである。主編の体調不良くらいは,そのものたちがカバーすべきではないのか。やはり,編写と審定の間は,ぎくしゃくしていたのでは無いかと思う。例えば,郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』、『黄帝内経素問語訳』と郭靄春編著の『黄帝内経素問校注語訳』とでは,重要な疑難箇所で採用された説に相違が有る。おそらく,編写の独善を咎めて変更をせまる審定会議という場面も少なくなかったのだろう。で,『霊枢経』においてついに決裂した。だから,段逸山先生も「後來因故未能整理」という微妙な書き方をし,『霊枢』が未整理のままに終わった理由の公式な発表もついに無いと思う。
かつて別のBLOGに書いた記事ですが,「岐黄会はなそうかい」のBLOGで,話題にしたので,ここにもやや整理したものを載せておきます。
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