2012年8月4日 星期六

史記倉公伝考注 その1

試行本
    太倉公者,齊①太倉長②,臨菑③人也,姓淳于氏④,名意。少而喜醫方術⑤。高后八年⑥,更受師同郡元里⑦公乘➇陽慶⑨。慶年七十餘,無子⑩,使意盡去其故方,更悉以禁方予之⑪,傳黄帝、扁鵲之脈書⑫,五色診病⑬,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精⑭。受之三年,爲人治病,決死生多驗⑮。然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病⑯,病家多怨之者⑰。
【考注】
①齊:高帝六年(前201),庶長子肥を立てて斉王とする。恵帝六年,薨じて悼恵王と諡する。翌年,子の襄が立つ。文帝元年,薨じて哀王と諡する。翌年,子の則が立つ。文帝十五年,薨じて文王と諡する。翌年四月,叔父の将閭が立つ。もとの陽虚侯であり,後の景帝三年に勃発した,呉楚七国の乱の際に自殺して,孝王と諡された。
②太倉長:孝文本紀では太倉令とする。太倉長は,医学と関わりの有るお役目なのか?問対の最後のあたりで,淳于意から医を学んだものの一人として,菑川王の「太倉馬長」馮信というものの名が挙がっている。太倉を各地から集まってきた物資を保管するところと解すれば,薬用に供されるものもその内に含まれるはずで,そこそこの関係は有ったのかも知れない。馮信が学んだのは主に薬に関することである。詔問では,淳于意はすでに「故太倉長」である。ではどの斉王のときなのか?悼恵王から哀王,さらに文王,一応はいずれも可能であろうが,淳于意の年齢からして,悼恵王の下での重職はいささか難しかろう。もし,文王の太倉長であったとしたら,その治療をしなかった罪は,なおさら重いと言わざるを得ない。文帝の十六年に立った孝王の太倉長が,問対の時にはすでに「故太倉長」というのも,やや難しかろう。
③臨菑:淳于意の前の師匠は菑川の公孫光であり,後の師匠は公孫光の紹介による臨菑にいた陽慶である。無論,臨菑は大都市であり,また陽慶は医を業としていたわけではないから,臨菑の人であり医術修行中の淳于意が,臨菑にいた陽慶を知らなくても別に不思議はない。臨菑は斉の首都,菑川はその東南東で,そう遠くはない。
④姓淳于氏:春秋の頃の山東地方に淳于国というのが有った。菑川のさらに東南東にあたる。有名な人に,先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠がいる。秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越も,斉の出身である。後の時代には,三国時代に袁紹に仕えた武将に淳于瓊というのがいる。また鑑真和尚の俗姓も淳于である。
⑤少而喜醫方術:最初の師匠が誰かは記録が無い。後に,菑川の公孫光に師事し,その後にさらに臨菑の陽慶を紹介されている。問対の資料のはじめには,「意少時喜醫藥,醫藥方,試之多不驗者」とある。ところが,後の陽慶に師事するに至る経緯の説明の中では,「意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗精良」という。最初の修行の段階でも,そこそこの治療実績は有ったらしい。これは認識の違いだろう。そこそこの効果は有ったから,小成に甘んじるならば,一番はじめの師匠だけでも満足できたのだろうが,菑川の公孫光が古方を伝えていると聞けば,出かけていって師事し,その方が尽きたところでは,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年(180BC)のことである。陽慶に死なれた後で,吏の拘束をおそれて斉国内をさまよっている間にも,数師に事えて研鑽を怠らなかった。
⑥高后八年:高后は,高帝の后,呂雉のこと。高帝が崩御した後,政治の実権を握っていた。問対の中の「至高后八年」に注して,黄善夫本をはじめとする諸本には「徐廣曰:意年二十六」あるが,清の同治年間に,張文虎の校訂を経て刊行された金陵書局本では,「徐廣曰:意年三十六」に作る。瀧川亀次郎『史記會注考證』が,これを底本とする。中華人民共和国成立後,1959年から中華書局より刊行された,二十四史標点本シリーズの第一弾のとしての『史記』も,これを底本としている。
⑦同郡元里:同郡は,臨菑郡だろう。元里までは分からない。
➇公乘:中国の秦漢代には,一般庶民にも爵位が与えられていた。ただし,下から八位の公乗が,庶民および下級の吏に与えられる上限であった。したがって,公乗といえば,民間ではかなりの有力者であった。
⑨陽慶:問対の最後のほうには,楊中倩として登場する。
⑩無子:淳于意が弟子入りした時,陽慶はすでに七十余歳で,本文では「無子」というが,問対の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。話を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
⑪使意盡去其故方,更悉以禁方予之:問対の資料の中では,陽慶を紹介してくれた前の師匠である公孫光も,「是吾年少所受妙方也,悉與公,毋以教人」と言い,淳于意は「死敢妄傳人」と応えている。
⑫黄帝、扁鵲之脈書:どこまでが書名なのか,いささか迷うが,ここまでは間違い無い。黄帝は君主が田姓に替わってから斉で重んじられ,扁鵲も東方の人で,最後は妬まれて秦の侍医に暗殺されたことになっている。つまり,東方の系統の医学である。
⑬五色診病:五行説に拠って診断するということだろう。あるいは顔面の色を見るのかも知れない。
⑭知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精:人の生死を知り,嫌疑を決し,治す可きを定め,薬論に及んで,甚だ精し。
⑮受之三年,爲人治病,決死生多驗:対問の資料の冒頭付近では,「受讀解驗之,可一年所,明歳即驗之有驗,然尚未精也,要事之三年所,即嘗已為人治診病決死生,有驗精良」という。師匠が死んだから,三年で修行を終えることになってしまったとも言えるが,ほぼ学び得たのをみて,安心して死んだとも言えそうである。
⑯左右行游諸侯,不以家爲家:対問の資料中には,「臣意家貧,欲為人治病,誠恐吏以除拘臣意也,故移名左右,不脩家生,行游國中」とある。一般の患者を断って,貴人に取り入ったという気配は無い。
⑰不爲人治病,病家多怨之者:対問の資料中には,師の陽慶のこととして,「慶家富,善為醫,不肯爲人治病」と言う。それで誰かに怨まれたとは言わない。

司馬遷には,話を分かりやすくする為に,あるいは感動的にする為に,資料を脚色する傾向は無いか?

1 則留言:

  1. 他のところで、『史記』倉公伝の本文なんてさして長くないと言っているけれど、考えてみれば、医家としての記事なんて前半のこれだけじゃないですか。後半は実は孝女伝です。『漢辞海』にも、そのように紹介されているわけでしょう。

    >【緹縈】テイエイ[人名]前漢の孝女。父に代わって受刑を願い出た。

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