2012年7月26日 星期四

倉公の生涯の時を推し量る

淳于意が師としての陽慶に見えたとき,つまり高后の八年には,彼は何歳だったのか。徐広の注には「年二十六」とあるが信じない。後世の注に過ぎないし,後文の「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」を,「今師匠に死なれてから,もう十年ばかりたちます,私が師事して三年を経た三十九歳のときのことでした」と解したいからである。(この解は,筑摩書房の小竹兄弟訳とほぼ同じ。)
人の上書によって長安に送られたのは何時なのか。これはもう,『史記』倉公伝の「文帝四年」は誤りで,孝文本紀の「文帝十三年」が正しかろう。何故に誤ったのか。倉公伝の本文を,トントンと調子よく話し進めるについて,筆が滑ったのではないか。高后の八年に陽慶に見え,三年学んで,師匠に死なれ,それにともなって何かがバレて,あるいは批判がたかまって,文帝の四年に誣告された。時間の流れがスムーズで分かりやすい。分かりやすくするために,筆を曲げた可能性すら感じる。例えば,本文では,陽慶は年七十余で子が無い,だから淳于意に禁方を授けた。なるほど,分かりやすい。ところが答問には子の殷が登場する。むしろ,弟子入りの仲介者である。
ところで,誣告の理由は何なのか。密かに禁方を受けていたのがバレたのか,あるいは治療を断って病家に恨まれたのか。しかし,それは都へ送られて断罪されるべきことなのか。召し出された理由は,実は斉の文王の治療をしないで,直接に仕えていた陽虚侯,後の斉の孝王の利益を謀っていると疑われたのではないか。それならまあ,考え方によっては謀反に近いかも知れない。しかし,朝廷側にしてみれば,東方の大封である斉の王が死んで,その領土をその親族たちに分割できれば,そのほうが好都合である。で,季女の上書を口実にして,淳于意を赦し,結果として(といえるか?),斉の文王は死んで,斉は分割された。
では,詔して医術について問われたのは何時なのか。それはもう,陽虚侯が首尾良く斉王になった文帝の十六年以降である。診籍に登場する封号などからみて,そういうことになる。なぜ,十三年の都送りからそれだけの時間がかかったのか。おそらくは,朝廷が淳于意の医術の価値を認めるのに,気付くのに,それだけの時間を要したということだろう。ただ,答問のはじめのほうに「今師匠に死なれてから,もう十年ばかりたちます」というのが気にかかる。「今」が誤字なのだろうか,それとも「所」で表現される「ばかり」には,案外と長さにはばが有るのだろうか。最後ちかくの,弟子についての問いに答えている淳于意には,すでに引退している気配がする。

6 則留言:

  1. しかし、公乗陽慶のもとでの修行の始まりが高后八年(前180)で、師匠が死んで、従ってそこでの修行が終了したのが、三年後の文帝三年(前177)であり、そのときに淳于意が三十九歳であったとすると、「人上書言意,以刑罪」などという目にあった文帝十三年(前167)には、すでに四十九歳である。「意に五女有り、随いて泣く」という可能性はかなり低いのではないか。お手柄の季女が十代半ばというのはまあまあとして、長女とか次女とかは既婚と考えるのは自然だろう。

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  2. 社会史の研究者によると,一年の妊娠期間と三年ほどの授乳期間を想定するものらしい。だとすると,長女と季女の年齢差は十六年ほどということになろうが,世の中には双子も年子も有ることだから,少しは縮小は可能だろう。大昔のことだから,上書してもの申す少女が十歳そこそこということも有ろうし,二十代半ばで未婚ということは,当時だって無いことは無かろう。それにそもそも,随って泣くものが未婚であるなんて,何に拠ったのか。姉のうちの何人かは既婚だったかも知れないし,ことここに及んでは,既婚だって随って泣くことも有ろう。婿だっておろおろしていたにすぎなくとも,罵倒するのは女のほうにしておいた。

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  3. 当時の原稿は竹簡であったと思われる。現在の電脳は勿論のこと,紙に書かれた資料をペラペラと調べるのよりも,相互の突き合わせは遙かに困難であったろう。べつに筆を曲げるつもりなど無くとも,うっかりは発生しがちであったろう。
    答問の中に,「慎毋令我子孫知若學我方也」と言いながら,「慶子男殷來獻馬」の機会に前の師匠が,紹介を依頼してくれたなんぞと言う。だから,師事した三年の間に子の殷が死んでしまったのだ,などと辻褄合わせをする学者もいる。
    陽慶自身は裕福になったから,子の殷に禁方を伝える気は無くしたのだろう。大昔には,医術で世渡りするのは,綱渡りのようなものだ。だから,禁方をけなげな弟子に伝えた。けれども,前の師匠も,「吾有所善者皆䟽,同産處臨菑善爲方」として,陽慶のことを切り出しているように,その一族には医術で世渡りするものはいた。そして,禁方はある意味で一族の財産なんだから,密かに他に伝えたのが知られては,拙いことも有ろう。

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  4. 南京の沈澍農さんは,《倉公伝》中的時間問題蠡測において,何愛華さんの「高后八年は前180年と為す,この年には,裴駰《集解》に引く徐広は,意の年三十六(別本に二十六に作るものが有る)という」の説を引きながら,その引くところの底本が何本なのかを知らないという。そして高后八年に、意は二十六歳であったはずとする。
    瀧川資言氏の史記會注考證に,集解「徐廣曰、意年三十六、」を引き、「張文虎曰、集解三十六、從舊刻本、各本三譌二、案高后八年、年三十六、加文帝三年、適三十九、與史合、」と考證する。
    沈澍農さんともあろうものが……。
    ただし、「加文帝三年、適三十九、與史合、」には戸惑う。陽慶のもとで修行した三年を加えて三十九歳の時に、師匠に死なれたというのだと思う。「文帝」二字の意味するところは何なのか。

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    1. 張文虎は清末の儒学者。戴震の弟子筋らしい。著書に『史記札記』8巻が有る。

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  5. そもそも答問の部分は,司馬遷が添えたのではなくて,別に保存されていたのを,後の世の誰かが併せたのだと思う。少なくとも,司馬遷の添削は受けてないだろう。特に淳于意の答えの文章は下手くそ。例えば,「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」という十九字の中に,なんと年の字が四回も出てくる。しかも同じような意味の歳の字まである。だから,この部分は難解である。だけど逆に,原資料であるという期待は高まる。

    今では師匠の陽慶が死んでからすでに十年ばかりになります。師匠が死んだのは,そのもとで修行して三年の時がすぎたころで,わたくし淳于意は三十九歳になっていました。

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