どうして古典を読むのか,と問われると,面倒だから,古典なんて読んだって臨床とはあんまり関係ないですよ,と応えてしまう。結構,うけるけれど,これではいくら何でも誤解される。
針とか灸とかは第一義的には技術だから,先ず手を動かす修行が大切なのは当たり前。でも,どう動かすのかは,師匠や先輩から教わるわけだし,師匠や先輩が何に拠ってるかは,結局のところ古典しかない。ある程度から先は,自分も古典を紐解かないわけにはいかなくなる。
古典を読むと,やらなきゃならないことはむしろ減ると思う。やっちゃいけないことも,誤読から始まっていることが多い。
すぐに役立つことが書いてあるわけじゃないかも知れない。極端な譬えだけど,寿司職人になるには,魚の目利きから包丁の研ぎかた,さらには全く関係なさそうな一般教養も要るんじゃないのか。歳時記ぐらいは愛読しているべきじゃないのか。でもね,回転寿司の店員でいいなら,店のマニュアルを読めばたくさん。そのほうが手っ取り早く稼げるんでないの。でもね,自分は本当は何になりたいのかは,考えてみる価値が有ると思う。
鍼灸師養成学校にかよっていたころに,あるいはせめて資格をとったばかりのころに,古典について,せめていま丁度の認識があったら,もっと安心して手の修行をしていたと思う。もう少しはましな臨床家になれていたと思う。たとえば六部定位脈診が苦手だと,古典的な針を志す資格なんてないんじゃないか,と恐れていたけれど,考えてみればあれは三部九候診のミニチュアに過ぎない。腕関節でチマチマがうまくいかなかったら,大きく全身を撫で回せばいいじゃないか。
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