(『素問』の)北朝伝本は,現存する文献の中では,ただ一つ隋唐の楊上善撰『黄帝内経太素』が現存する『素問』『霊枢』の内容と基本的に同じなだけである。北朝の時には多くの避諱が有り,例えば北朝東魏の孝静帝の名が元善見であるから,『黄帝内経太素』の文中では「善」を改めて「喜」としていて,これは元善見の諱を避けて文字を改めたのである。故に『黄帝内経太素』一書において,楊上善が拠った底本は北朝伝本のはずである。(『黄帝内経針灸学之研究』李順保主編 学苑出版社)何のことやらさっぱり判らない。私の新新校正の電子データを調べたところ,善も喜もそれぞれ200ほどヒットする。紛らわしいものも有ったように記憶しているが,仁和寺本の影印を確認したところ,紛うかたなく善というのも決して少なくない。李先生は,袁昶もしくは蕭延平の字面を過信したものと思われる。あるいはまた『素問』の善が『太素』では喜になっていると言いたいのかも知れぬが,そうならそうと多くの例を挙げて言ってもらわねば,安易に頷くわけにはいかない。
2014年7月30日 星期三
善か喜か
2014年7月12日 星期六
中国絵画の気
>p.2……後漢時代の石製の祠堂に施されたレリーフの拓本である。中央の人物は、不老不死の薬の元締めの神様、西王母である。この西王母の両肩から伸びる、孫悟空の觔斗雲のような形のものが「気」である。
>注意すべきは、気は、実際にこのような形をもっているわけではない、ということである。気そのものは基本的には不可視な存在である。しかし、西王母が特別な存在であることを示すために、霊妙な気を発する存在として表現されている。そのために、形のない気が形象化されている。
>……金の王庭筠の「幽竹枯槎図」である。これは、画家のもっている気が表現されている。逆境にもめげず高潔を保つ精神性を枯木と竹が表現し、そして事物の形にとらわれない筆づかいが自由な境地を表現している。我々が精神や心と呼んでいるものも、気のはたらきによると考えられていたので、画家の精神性が表現されたということは、画家のもっている気が表現された、あるいは形象化された、と言えるのである。……
>簡単に言えば、中国絵画における気の表現は、気を直接形象化した表現から、実物の形象を使いつつ気を表現するという転換をとげたわけである。……
>p.42 六朝時代の絵画を考えるとき、いくつかの重要な転回点があることに注意が必要である。最大のポイントは、「気の評価論」の登場である。気を直接形象化してきた漢代までと異なり、この時代には、目に見えない気を、目に見える形象を使って表すことを意識し始める。……
>p.4……南宋、李迪の「紅白芙蓉図」である。これをどう見るか。気の考え方からすれば、この絵はまさに芙蓉の気を表している。芙蓉の気、それは読者の方がこの絵を見て感じる、その匂い立つ美しさそのものが芙蓉の気である。
>p.98……蘇東坡の「書鄢陵王主簿所画折枝」……
> 論画以形似 絵画を論ずるに形が似ていることを問題にする
> 見与児童隣 そんな見解は子供同然……
>p.193 この文人山水画の終焉に関連して、鄒一桂に次のような言葉がある。「現実の対象と形が似ていないのにその対象の精神までとらえた絵など存在しない。この御仁は絵がへただったからこんなことを言ってとりつくろったのだ」。……
>注意すべきは、気は、実際にこのような形をもっているわけではない、ということである。気そのものは基本的には不可視な存在である。しかし、西王母が特別な存在であることを示すために、霊妙な気を発する存在として表現されている。そのために、形のない気が形象化されている。
>……金の王庭筠の「幽竹枯槎図」である。これは、画家のもっている気が表現されている。逆境にもめげず高潔を保つ精神性を枯木と竹が表現し、そして事物の形にとらわれない筆づかいが自由な境地を表現している。我々が精神や心と呼んでいるものも、気のはたらきによると考えられていたので、画家の精神性が表現されたということは、画家のもっている気が表現された、あるいは形象化された、と言えるのである。……
>簡単に言えば、中国絵画における気の表現は、気を直接形象化した表現から、実物の形象を使いつつ気を表現するという転換をとげたわけである。……
>p.42 六朝時代の絵画を考えるとき、いくつかの重要な転回点があることに注意が必要である。最大のポイントは、「気の評価論」の登場である。気を直接形象化してきた漢代までと異なり、この時代には、目に見えない気を、目に見える形象を使って表すことを意識し始める。……
>p.4……南宋、李迪の「紅白芙蓉図」である。これをどう見るか。気の考え方からすれば、この絵はまさに芙蓉の気を表している。芙蓉の気、それは読者の方がこの絵を見て感じる、その匂い立つ美しさそのものが芙蓉の気である。
>p.98……蘇東坡の「書鄢陵王主簿所画折枝」……
> 論画以形似 絵画を論ずるに形が似ていることを問題にする
> 見与児童隣 そんな見解は子供同然……
>p.193 この文人山水画の終焉に関連して、鄒一桂に次のような言葉がある。「現実の対象と形が似ていないのにその対象の精神までとらえた絵など存在しない。この御仁は絵がへただったからこんなことを言ってとりつくろったのだ」。……
『中国絵画入門』宇佐見文理著・岩波新書1490 より
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