私の『太素新新校正』に,漢字の些細な筆画に拘る傾向が有ると思われているとしたら,それはまあ誤解です。それはまあ,などと引っかかる言い方をするのは,拘ってないわけでもないからです。でも,それは原鈔に見える俗字を解釈してコレだと示すのに,印刷物として固定するのに,楊上善の時代の正字に近づけようと試みているからなんです。無論,そんなことは不可能です。『干禄字書』を最大の依拠とはしていますが,決定的に資料不足です。では,どうするか。『康煕字典』体に従う,ということで逃げています。時代錯誤という叱責は覚悟しています。だから,これは逃げです。
『干禄字書』の正字も,『康煕字典』体も,現代人にはなじみが薄いかも知れない。だから,なんでそんなものに拘るのかという批判の声は聞こえてきます。私自身の内心からも聞こえてきます。でも,どんな字体だって良いじゃ無いか,というノーテンキでは入力はできません。読む方は良いです。漢字というものは,極めてフレキシブルなものです。耶だって邪だって,説だって說だって,狭だって狹だって,荅だって答だって,爲だって為だって,虛だって虚だって,普通の教養が有る普通の日本人なら読めるでしょう。でもどれでも良いとして作成した資料を並べて,あの本はこの字形,この本はこの字形,などと議論しだしたら滑稽です。いや,冗談じゃないですよ。外字をふんだんに使った『素問』『霊枢』をインターネット上で見つけて,四苦八苦する人は,実際にいたんです。文字化けしているんだから読めるわけがないのに。
だからね,『干禄字書』では何ともならないから『康煕字典』,というのは如何に何でも乱暴だ,とは思っています。そこで,現在は宋代の版本に実際に使われている字形を探ろうかな,と。でも,これにも信頼に足る資料なんてそうはない。王寧さんが主編で王立軍という人が著した『宋代彫版楷書構形系統研究』というのが有りますが,持っているのはそれくらいですかね。私,別に漢字研究者じゃないですから。漢字研究者に成りたくないわけでもないけれど。
黃帝ですか,黄帝ですか,それとも皇帝ですか。