なんのつもりだ。徘は行ったり来たりする,徊はぐるぐるまわる。どこともなく歩きまわること。
どこが気に入らないんだ。
わたしなんぞは,東京に出れば神保町あたりを徘徊して書物を購い,時間に余裕が有れば横浜中華街を徘徊して,飯を食い買い物をする。「一人歩きして」なんぞとは金輪際,言われたくない。
棚と棚を眺め徊ったり,たまに引き抜いたり,たまに(必要も無い書物を)購入したり。それはまあ,とりとめもない。
中華街ですれ違った幸せそうな若い(幼稚い?)カップルの,男の人が一人で来る(徘徊している?)なんてなんでなんだろ,なんていう呟きが耳に入ったことも有る。それはまあ,小籠包を歩き食いするためじゃない。
日本人は一字一字の字義に拘りすぎる傾向が有ると思う。国語審議会だかで,人名には使える漢字のリストから塵というのは外されたらしい。塵芥なんて名をつける親は有るまい,ということらしい。銭超塵先生,どうしましょう。つける親は有るまいということなら,疾病なんてのも要らなさそうに思う,でしょう。ところがどっこい,中国の歴史上には棄疾さんも去病さんも,燦然としている。
言い換えてしばらくたつと今度は,ひとり歩き,外出,お出かけ,お散歩にも,いや~な雰囲気が出てくる。そして日本語は痩せ衰える。
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