『太素』巻六の首編冒頭近くに「故精之來謂之精,兩精相搏,謂之神」とある。「搏」は誤りで「摶」に改めるべきだという説が有力だけど,卷二の六気に「兩神相薄,合而成形,常先身生,是謂精」云々と有りますからね,私は「搏」に軍配を挙げる。
で,楊上善の注に,「即前兩精相搏,共成一形,一形之中,靈者謂之神者也,斯乃身之微也」という。この「微」,実際には几の部分が夕の様に書かれている。その字形は『干祿字書』で「微」の通なんだから,「身之微」で問題無さそうなんだけど,でも仁和寺本『太素』では,「徴」も同じ形に書かれることが多いんです。例えば五音の一つとしての徴(チ)もそうなんです。夢診断の「徴夢」もそうなんです。
「微」は,隠蔽された,きわめて小さい,かすかなもの。まあ,身にあるきわめてかすかなものでも,意味不明では無い。でも,「徴」は,きざし,しるし,何かが起こる気配。両精が相い迫って,形を成して,その中に生じた霊妙なものを神という,これすなわち生命を宿した何ものかになろうとする気配である。このほうが良いような気がするんだが。
2015年10月30日 星期五
2015年10月29日 星期四
『太素』楊注の形音義
例えば,巻2調食に「血与鹹相得則血涘,血涘則胃汁注之」云々とあり,楊上善は「涘,音俟,水厓,義当凝也」と注する。この場合,はたして凝の意という場合にも,アイという音のつもりなのだろうか。ここでは意義から推して,別の字「凝」の省略であると主張しているのではないか。一般的かつ常識的な説明と,この場での意義を並列させた場合も有るように思う。
また例えば,巻8陽明脈病に「陽明厥則喘如悗,悗則悪人」とあり,楊上善は「悗,武槃反,此経中為悶字」と注する。これなどは,「悗は,普通はバンと読む字だけれど,この経では(モンと読む)悶の字として使われている」と言っているのではないか。他の処の楊注には繰り返し「悗,音悶」とある。楊上善は「悗」にバンとモンと,二通りの音が有って,それぞれ意味が異なることを認識していたはずである。
また或いは,巻11気府に「大椎以下至尻廿節間各一,胝下凡廿一節,脊椎法」とあり,楊上善は「胝,竹尸反,此経音抵,尾窮骨,従骨為正」と注する。同じ形の字が,普通は竹尸反つまり音チであるが,この『太素』経では音テイで尾骶骨の意味の別の字と言うのだろう。意符を交換してできた俗字と,従来から有る字を区別しているのであって,音と義の齟齬が有るわけでは無い。経絡の絡を「胳」とするのと同様に,もとは胼胝(皮膚の表面が角質化して厚く固くなったもの)の意義の「胝」に同形異字を造ってしまっているから,その違いを述べたのだと考えられる。
つまり最も丁寧には,音はしかじか,ただしここでは別の音,だからここではしかじかの義と書く(ex.胝)べきである。ところが「ここでは別の音」は多くの場合に略される。時には別の箇所だけで,『太素』に於ける音が示される(ex.悗)。最もひどい例では,『太素』での義に相応しい釈音が,どこにも(少なくとも目につきやすいところには)見当たらない(ex.涘)。それで深刻な音義の齟齬が有るように見えることになった。実は訓詁の記述形式が粗略であるだけなのかも知れない。
勿論,二つの文字が俗字では同形となり,混同されて,一方の音を取り,もう一方の義を取る,それで音と義の齟齬が生じるということも有るだろう。例えば巻2調食に「其大気之{扌専}而不行者,積於胸中,命曰気海」とあり,楊上善は「謗各反,聚也」と注する。謗各反なら「搏」である。聚なら「摶」だろう。
また例えば,巻8陽明脈病に「陽明厥則喘如悗,悗則悪人」とあり,楊上善は「悗,武槃反,此経中為悶字」と注する。これなどは,「悗は,普通はバンと読む字だけれど,この経では(モンと読む)悶の字として使われている」と言っているのではないか。他の処の楊注には繰り返し「悗,音悶」とある。楊上善は「悗」にバンとモンと,二通りの音が有って,それぞれ意味が異なることを認識していたはずである。
また或いは,巻11気府に「大椎以下至尻廿節間各一,胝下凡廿一節,脊椎法」とあり,楊上善は「胝,竹尸反,此経音抵,尾窮骨,従骨為正」と注する。同じ形の字が,普通は竹尸反つまり音チであるが,この『太素』経では音テイで尾骶骨の意味の別の字と言うのだろう。意符を交換してできた俗字と,従来から有る字を区別しているのであって,音と義の齟齬が有るわけでは無い。経絡の絡を「胳」とするのと同様に,もとは胼胝(皮膚の表面が角質化して厚く固くなったもの)の意義の「胝」に同形異字を造ってしまっているから,その違いを述べたのだと考えられる。
つまり最も丁寧には,音はしかじか,ただしここでは別の音,だからここではしかじかの義と書く(ex.胝)べきである。ところが「ここでは別の音」は多くの場合に略される。時には別の箇所だけで,『太素』に於ける音が示される(ex.悗)。最もひどい例では,『太素』での義に相応しい釈音が,どこにも(少なくとも目につきやすいところには)見当たらない(ex.涘)。それで深刻な音義の齟齬が有るように見えることになった。実は訓詁の記述形式が粗略であるだけなのかも知れない。
勿論,二つの文字が俗字では同形となり,混同されて,一方の音を取り,もう一方の義を取る,それで音と義の齟齬が生じるということも有るだろう。例えば巻2調食に「其大気之{扌専}而不行者,積於胸中,命曰気海」とあり,楊上善は「謗各反,聚也」と注する。謗各反なら「搏」である。聚なら「摶」だろう。
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