『太素』巻六の首編冒頭近くに「故精之來謂之精,兩精相搏,謂之神」とある。「搏」は誤りで「摶」に改めるべきだという説が有力だけど,卷二の六気に「兩神相薄,合而成形,常先身生,是謂精」云々と有りますからね,私は「搏」に軍配を挙げる。
で,楊上善の注に,「即前兩精相搏,共成一形,一形之中,靈者謂之神者也,斯乃身之微也」という。この「微」,実際には几の部分が夕の様に書かれている。その字形は『干祿字書』で「微」の通なんだから,「身之微」で問題無さそうなんだけど,でも仁和寺本『太素』では,「徴」も同じ形に書かれることが多いんです。例えば五音の一つとしての徴(チ)もそうなんです。夢診断の「徴夢」もそうなんです。
「微」は,隠蔽された,きわめて小さい,かすかなもの。まあ,身にあるきわめてかすかなものでも,意味不明では無い。でも,「徴」は,きざし,しるし,何かが起こる気配。両精が相い迫って,形を成して,その中に生じた霊妙なものを神という,これすなわち生命を宿した何ものかになろうとする気配である。このほうが良いような気がするんだが。
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