2018年1月21日 星期日

『太素』の人迎脈口診

なぜ人迎脈口診が気にかかるのか
なんだかうしろめたさがつきまとうから。
 『霊枢』は人迎脈口診というけれど、そして、『素問』は三部九候診というけれど、周囲を見渡しても、そんな脈診をやっているのは、いない。古典を宣揚しておきながらこれでは、それはまあ、うしろめたい。
 もともとの三部九候診はすでに変質してしまって、通行本の『素問』にはない①。『霊枢』は、その根本理念からすれば、「五蔵に疾有れば、応は十二原に出る」の原穴診でいいはずなのに、人迎脈口診が導入された。
 導入するには、それだけの必要があったのだとしても、『霊枢』経脈篇のものを標準として考えたのでは、間違いの素ではないか。経脈の連環には流注と病症があり、それは馬王堆の陰陽十一脈を祖型としているとして、治法とカンジンの脈診はどこからきたのか。『霊枢』禁服篇あたりからかと思われるが、そんなところから持ってくるべきではなかったろうし、持ってきかたも拙かった。経脈篇にとっては余計な付けたしであり、また、その人迎脈口診そのものが、おそらくは失敗作にすぎない。

もう少しマシな人迎脈口診はないものか
 『太素』巻14の診候之一に、ずばり人迎脈口診という篇がある。
  L48禁服(人迎/寸口)
  L49五色(人迎/脈口)
  L05根結(脈口)
  S11五蔵別論(気口)
  L09終始(人迎/脈口)(一部はS09六節蔵象論に類文)
  S46病能論(人迎)
  L74論疾診尺(人迎/寸口)②
 『霊枢』を経典として尊重するのなら、これらの人迎寸口診のすべてを総合し採用すべきなのか。そんなことはなかろう。無理だし、ただ混乱を招くだけ。そもそも最初に、人迎脈口診なんてやっているものはないと、貶したのだし、経脈篇の人迎寸口診は、失敗作ではないかと、疑ったのであるから、むしろ『霊枢』の中に「本来の人迎脈口診」を探し求めるべきである。『素問』『霊枢』の中に完成されたものの如く記述される、言い換えれば行き詰まった方式に、拘ることはない。

『霊枢』禁服篇の人迎寸口診
 経脈篇の人迎寸口診が禁服篇から持ってこられたとすると、禁服篇のもののほうが、まだしも発想の原点に近いことになる。もっとも、ここには実は二つの異なった脈診法がある。
 一つは、人迎と寸口の脈動を比較して病処を判断する。「人迎大なること寸口より一倍なれば、病は足少陽に在り、一倍にして躁なれば、手少陽に在り」などと、陽を診る人迎と、陰を診る寸口の、どちらが何倍大きいかで、病が三陰三陽のどこに在るかを割り出す。
 もう一つは、外を人迎に、中を寸口に分担させて、脈状によって病状を判断する。 

人迎(外 寒)
寸口(中 食)
脹満,寒中,食不化
熱中,出縻,少気,溺色変
痛痺
 
乍甚乍間
乍痛乍止 






 人迎が盛んなのは、身内に陽気が盛んなのであって、したがって熱を病む。人迎が虚しているのは、身内の陽気が虚しているのであって、したがって寒を病む。寸口が盛んなのは、身内に陰気が盛んなのであって、したがって腸胃が冷えて、脹満し、食物が化さない。寸口が虚しているのは、身内の陰気が虚しているのであって、(それに陽気が乗じるから)したがって腸胃が熱して、便は粥状になり、気が乏しく、溺も色を変ずる。緊と代は、痛痺あるいは痺と乍甚乍間あるいは乍痛乍止で同じようなものだろうが、治法に微妙な違いがあるようだから、病症の実際にもいささかの差はあるのかもしれない。ただし、治法の記述には文字の疑問(衍?奪?)が多くて、どうにも解釈に自信がもてない。人迎(主外)の代になぜ飲薬なのか、なぜ寸口(主内)の緊にだけ施灸なのか。さらには、後文に「大数」といい、その内容も前文と微妙に異なるのか。そもそも、ここの病症と治法も、出自が異なるのではないか。なににせよ、治法は脈状に拠って判断した病状に対するもので、病処を判断する脈診とセットにして、L10経脈篇に持っていくべきものではなかった。

『霊枢』五色篇に与後をいう
 脈口と人迎の脈状を診て病状を判断することは、五色篇にもあって、予後の見立てをいう。 
脈(右)


人(左)


滑小緊沈
病益甚
在中
気大緊浮
病益甚
在外
滑  浮
病日損③

滑  沈
病日損

滑  沈
病日進
在内
滑盛 浮
病日進
在外

 脈の滑は新病か、そうでなくともまだまだ病勢は盛んであることを意味する④。それでも、脈口が浮、人迎が沈となれば、病は日に日に衰えるだろう。脈口が沈、人迎が浮となっては、ますますひどくなる。
 次いで病因の大略として、気口(『太素』は脈口)の盛堅は食に傷なわれたのであり、人迎の盛堅は寒に傷なわれたのである。これはむしろ禁服篇の、寸口が中を主り、人迎が外を主るというはなしと呼応する。中から食に傷なわれると、腸胃が冷える。外から寒に傷なわれると、発熱する。もともと、診るのは、食なり寒なりに傷なわれての、その結果として身体の内に、何が起こっているかである。あたりまえのはなしだが、人迎が外を主るといっても、脈にふれることで、外界の気象を知ろうとするのではない。

 脈診でわかることは、もともと病処(どこに)ではなく、病状(どんな)である。そうはいっても、他に方法、器具がないのであれば、病処も脈診で知りたい。

『霊枢』終始篇で「どこで」を診る
 人迎で陽の量、脈口で陰の量を診て、その程度に拠って病処の三陰三陽を割り出そうとするのは、陰陽学説を利用した新たな工夫としては評価できる。それにしても、終始篇に見えるもののほうがより古いと思われる⑤。「人迎が一盛であれば。病は足少陽に在り、一盛にして躁であれば、病は手の少陽に在り」という。別に人迎と脈口を比較、検討するわけではない⑥。平常時との違いを感じ取る。
 類文が、S09六節蔵象論にも見える。同じような人迎脈口診が、『素問』『霊枢』の双方にあるわけで、結局、これが(「どこで」を診る)古来の方法(工夫)ではなかったか。

脈口だけ診ていても人迎脈口診か
 『霊枢』根結篇の、脈口を持して、何十動かに一代すれば、五蔵のうちいくつかに気が無いと判断するのは、人迎は診ないのに、『太素』の人迎脈口診に在る。なぜか。おそらくは、診者は人迎脈口診をやっているつもりなのであろう。ただ、今、問題にしているのは中(五蔵の気)であるから、中を主る脈口を診る。人迎はひとまず棚上げになる。別に否定し廃止したつもりはない。

変は気口に見れる
 『素問』では五蔵別論にみえる「気口何以て独り五蔵の為に気を主るか」云々も、気口だけしか登場しないのに、『太素』の人迎脈口診に在る。これが一番わからない。
 「凡そ病を治するには、必ずその上下を察す」とある上と下とを、楊上善は説明なしに人迎と寸口とする(上は人迎を察し、下は寸口を診る)。しかし、経文に人迎という詞は出ないのだから、にわかには同意しがたい。
 上下で察する気を、口から入って胃に蔵される気と、鼻から入って心肺に蔵される気であるとすれば、飲食の気は足の太陰の気口で、呼吸の気は手の太陰の気口で診るのかもしれない。わかりやすいような気もするが、手足の太陰の気口を診て、それを人迎気口診というのは、いかになんでも無理ではないか。
 窮余の一案として、あるいは胃に蔵された気については、「胃脈の気口としての人迎穴」を診るというつもりなのかもしれない。確かに、脈の端の拍動処を、気の発する口=気口と呼ぶことも、その詞の原義からすれば不可能ではないだろう。結句、楊上善の説でいいのかもしれない。

人迎だけを診る
 逆に、『素問』病能論の胃脘癰の診には、人迎だけしか登場しないのに、これも『太素』の人迎脈口診に在る。
 楊上善のつもりとしては、胃脘癰であれば胃脈を得て、この胃脈とは寸口の脈のことであって、その脈状は沈細であり、下の寸口が沈細であれば、気が逆している、逆していれば、上の胃脈すなわち人迎の脈は甚だ盛んとなり、それは熱が胃口に聚っているということだから、つまり胃脘の癰である、ということらしい。しかし、経文に「人迎は胃脈なり」といいながら、注文に「胃脈を得るとは、寸口の脈なり」はおかしいだろう。多紀元簡の『素問識』にも、楊上善の説は否定されている。
 そこで、清の尤怡『医学読書記』(多紀元堅『素問紹識』に引く)には、沈細である胃脈を足の趺陽とする。趺は足の甲、衝陽穴である。つまり、胃脈とは足陽明の脈であり、その下の趺陽と上の人迎を診る。あるいは、そうかもしれない。

 副次的にわかったこととして、妙な脈診が『太素』の人迎脈口診という篇に在って、楊上善は解釈に苦労している。これから推せば、前からあった『太素』に対して、辻褄合わせの注を施したことになる。楊上善が『太素』を撰して注したのではない。ただし、楊上善は経文に人迎、脈口が登場しない箇所で、しばしば注に人迎、脈口を持ち出す。当時、実際に診るのは脈口に限られるようになりつつも、人迎と対であるという意識も相当に根強かったらしい。

 人迎の脈を診ていても、必ずしも人迎脈口診というわけではない。『太素』巻19脹論(L57水脹)に「水(水湿痰飲の類)の始めて起るや、目果の上微かに癰し、臥して新たに起きるの状の如し、頚脈動じ、時に欬し、陰股の間寒え、足脛癰し、腹乃ち大なるは、其の水已に成るなり」とあり、楊上善の注に、頚脈とは「足陽明人迎の脈」という。他に『太素』巻15尺寸診(S18平人気象論)にも「頚脈動疾喘欬は水と曰う」とある。特定の病症を診るべき特定の脈処という知識は集積されつつあった。ここでは頚脈の動なら、水という病症である。いわゆる人迎脈口診とは関わらない。本当は、頚の人迎で胃脘癰を診るのだって、同じことではなかったかと思う。

人迎と寸口の大小浮沈が等しい
 『太素』の人迎脈口診の篇末の一段(L74論疾診尺)には、病んでいるのに寸口と人迎の脈の大小および浮沈が等しいものは、已え難いという。脈状は四時に応じて変化すべきであり、人迎と寸口では応じかたも異なる。同じになるはずがないものが同じだとしたら、事態はより深刻である。それに、病んでいるとは陰陽バランスが崩れているということであり、治療とはその回復をはかることのはずなのに、そのバランスに崩れがみえないとあっては、調整の方針もたたない。

 これで『太素』の人迎脈口診という篇を構成する文章の、そこに在るべき理由の穿鑿は一応終わった。ただし、実のところ、何故そこに在るのかわからない断片はまだまだ残っている。『太素』の編撰は基本的には鋏と糊である。人迎脈口診を説いているとみられた文章を集めてくるのに、ついてきてしまっただけというものも多いのではないかと思う。
 
左人迎 右気口
 普段は、独り気口を取って、中のことだけを気にすればよいとして、特に外をも探りたければどうするか。やはり頚の人迎脈を診るべきなのか、それとも左の腕関節部で代用できるのか。
 ダメだという意見としては、『太素』巻09脈行同異の楊上善注に、人迎、寸口は、黄帝の正経(『素問』『霊枢』)にきちんと上下といってあるのに、近ごろの人は憑りどころもなく、かってに左右に持ってこようとする、と嘆いている⑦。
 しかし、左右の脈には違いがあって、そのどちらがより敏感に外界と相い応ずるかを、考えていた可能性は有る。『太素』巻16雑診(『素問』では病能論だが、『太素』の文字のほうがわかりやすい)に、黄帝が、右の脈を診たら沈、左の脈はそうではなかった、病主はどこに在るのかと問うて、岐伯は、冬に診たのであれば、右の脈が沈で緊なのは当然のことであって、これは四時に応じているわけだが、左の脈が浮いて遅いのは、四時に逆している云々と答えている。おそらくは、右脈は、気象のより大きなサイクルに応じていて、寒いはずの季節なのに、妙に温かくて反ってそれに傷なわれたなどというときは、その応は先ず左脈に診える。未だ正解を得たという自信はないが、左人迎、右気口もあながち無理では無いのかもしれないとは思う。
 『史記』倉公伝に付録する診籍にも、斉郎中令循、斉中尉潘満如、済北王侍者韓女などの病に、脈の左右をいうが⑧、上下(人迎、脈口)の陰陽を左右に代行させて大丈夫かについて考えるには、やはり『素問』病能論のほうが適当であろう。うまくいけば、両手左右を以て人迎、寸口とするのにも、正経に憑るべきところがあると、なるかもしれない⑨。

結論として 人迎脈口診は 比較脈診ではな
 比較しないで、どうして大小や浮沈がわかるのか、という人がいるかもしれない。しかし、ちょっと考えてみてほしい。例えば、電線に雀がとまつているとする。何羽かと問われたらどうするか。端から数える、というのが科学的な態度というものかもしれない。しかし、一目見て、直感的に答える態度、比較しないでも四羽や五羽は、勘でわかると主張する態度も、伝統医学というような世界においては、案外と貴重なのかもしれない。努力して、より多くを一目で把握できるように修行せよ、と(西洋の)魔法入門書にあった。

人迎脈口診は 脈状診である
 『霊枢』編著者が、首篇で「五蔵に疾有るや、応は十二原に出る」と宣言しておきながら、人迎脈口診を導入したのは、かれ(原穴診)は「どこで」であり、これ(人迎脈口診)は「どんな」であるべき、ということなのかもしれない。人迎脈口診にとって「どこで」とは、分担した「中か外か」だけである。

①通行本の『素問』三部九候論で、診脈処をいう一段はもと篇末に在った。どうして「義不相接」な、そんなところに置かれたのか。後世の人が工夫して、書き加えたものだからではないか。そもそも,上部では現場の脈状で現場の病状を診るのに、中・下部では,本(ねもと)の脈状によって、標(こずえ)の病状を診る。これではチグハグではないか。
②脈口か、気口か、寸口か。どう違うのか、どれを標準とすべきか。よくわからないが、しいていえば、寸口はより新しく、かつ腕関節部に限定されるのだろう。この稿では原則として、話題にする篇での表現に拠る。
③脈口の滑浮は、『霊枢』では病日進だが、『太素』は病日損。劉衡如は拠って改めるべきだといい、柳長華主編の精校叢書は改めている。
④類似の文(滑だと病が日に進む)が、L19四時気に「気口人迎を持して以てその脈の堅、かつ盛かつ滑を視れば病は日に進み、脈の軟なるは病将に下る」とあるが、『太素』では巻23雑刺に置く。明らかに「持気口人迎」というのに、なぜ人迎脈口診と名付けた篇に取り込まなかったのかはわからない。
⑤もっとも、より古いといっても、利用された陰陽学説はすでにかなり成熟している。例えば、陽明と太陽の、どちらの陽がより盛んであるかも、すでに解決ずみである。
⑥そうでなければ、脈口と人迎と倶に少とか、俱に三倍、四倍以上とは表現しえないはず。もともと、脈口と人迎のどちらが大きいかという問いは、ナンセンスだったおそれもある。清の何夢瑤『医碥』に、「人迎の脈は、恒に両手寸口の脈より大なること数倍、もとより寸口の反って人迎より大なるもの無し」という。
⑦これを教えてくれたのは、原塾の初めのころの井上雅文先生。「だって使えるんだからしかたがない」と笑ってみえた。
⑧五蔵を、左右の手首に配当するらしい。むしろ三部九候診の系統か。
⑨ただ、つらつら考えるに、人迎脈口診には、何らかの意味で上下を取るという一面がありそうである。最も代表的なものは無論のこと頚と腕だろうが、頚と足甲もありそうに思う。腕と踝の関係だってわからない。もともと、本の脈状によって、標の病状を診るということがあったはずである。それが原穴は五蔵の診断兼治療点であるという方向にまとまっていくのと同様に、標は人迎に、本は脈口に代表させるという方向にも整理はすすんだのではないか。左右に持ってきたのでは、上下の関係の重視という路線からは逸脱になる。

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