ある全国紙の同じ面の上部に,文さんと金さんが抱擁している写真がのっていて,そのやや下方にザギトワがMASARUを抱いている写真がのっていた。だから……,だからどうということも無いがね。
2018年5月27日 星期日
假廉
万暦本『金瓶梅詞話』第十七回で,弾劾された蔡京の子分に賈廉というのがいて,第十八回では王廉になっている。そこで最近出た翻訳では王廉は賈廉に改められている。で,本筋の巻き添えになりそうな西門慶が巻き添えを逃れる話は,賄賂を使って,弾劾書の名を賈慶と書き換えてもらったことになっている。書き換えたとは言うけれど,公文書ですからね,筆を加えて違う字に見せた,というようなことのはずでしょう。多分,西门を賈と誤魔化した。まあ,校正ということの理屈にもあっているように思う。でもね,岩波文庫の訳では,第十七回の弾劾された子分の中には賈廉の名は無く,したがって第十八回の王廉はそのまま,そして西門慶は賈廉と書き換えられた。慶を廉にというのも,筆書きならまあ何とかなりそう。この間,岩波文庫には,底本は本当はどうで,こうこういう理由で削ったとか改めたという注記は無い。乱暴な話だね。でもね,話の段取りとしては,賈は假に通じて,「いつわりの廉潔」のほうが「いつわりの吉慶」より,余程皮肉がきいていると思う。あるいはまた主人公の姓を,なんでわざわざ西門豹などという硬骨漢から取ったのか,の秘密もここにあるのかも知れない。そういえば,『紅樓夢』の主人公も,賈姓でしたね。賈という姓は,中国でさほど珍しくもないと思うけれど,どうしても「いつわりの」ととられてしまうのかもね。諱を避ける,なんて理不尽な習慣も,漢語というものの性質上,用心するにこしたことはない,なのかも知れない。
2018年5月23日 星期三
2018年5月22日 星期二
うつうつとして
鬱病患者と鬱傾向の人というのがいるのだろう,と。
私自身は鬱傾向であって,鬱病ではないとは思っている。
でも,インターネット上でチェックしたら,中程度警告。
しっかり「すぐに精神科に相談」を勧められた。
そんなにヤバイところにチェックをいれたつもりはない。
どうしてそうした警告になったかも,理解できてない。
普段は,もう少しヤバく落ち込んでいる。
でも,わたしはお医者さんにはかかれない。
薬は信用してない。私には救いにはならない,と思う。
鬱病患者にもなれない,そういう種類の鬱傾向です。
多分,自殺願望は無い。
それが救いになるとも思ってない。今のところ。
多分,他の人からみても,あんたなんて鬱病じゃない!
ということだと思う。
私自身は鬱傾向であって,鬱病ではないとは思っている。
でも,インターネット上でチェックしたら,中程度警告。
しっかり「すぐに精神科に相談」を勧められた。
そんなにヤバイところにチェックをいれたつもりはない。
どうしてそうした警告になったかも,理解できてない。
普段は,もう少しヤバく落ち込んでいる。
でも,わたしはお医者さんにはかかれない。
薬は信用してない。私には救いにはならない,と思う。
鬱病患者にもなれない,そういう種類の鬱傾向です。
多分,自殺願望は無い。
それが救いになるとも思ってない。今のところ。
多分,他の人からみても,あんたなんて鬱病じゃない!
ということだと思う。
2018年5月15日 星期二
專か尃か
『太素』巻2 調食に:
其大氣之■而不行者,積於胷中,命曰氣海,出於肺,循喉嚨,故呼則出,吸則入。
とある。■は木偏に専。先ず木偏は俗字で手偏と紛れるのは普通のことだから気にしない。で,ここは手偏のほうが相応しいと考える。そもそも,外の箇所では手偏も木偏も才に近い形になることが多い。
問題は声符の方で,普通には専は專の常用漢字体ということになろうが,実際には尃の右肩の一点などは,俗字では書き落とされることも多いので,手偏に専の形は,搏でハクで うつ・とる なのか,あるいは摶でタンで あつまる なのか,にわかには決定しがたい。
どの字に解すべきかとなると,先ず他の書物ではどうなっているかをみる,ということを思いつく。『太素』の調食のこの部分は『霊枢』五味にある。ところが問題の字は,我らが明刊無名氏本では搏だが,明趙府居敬堂本では摶である。
次に考えるべきは,注では何をいっているか。幸いなことに,楊上善は「謗各反,聚也」と音も義も注記しておいてくれた。謗はハウ(歴史的仮名遣い)で各はカクだから謗各反はハク。ところが「聚」という義は,代表的な古字書などには搏にも摶にも見つからない。ただ偉い先生がたの考証をみると,摶は團に通じ,團に聚の義はあるわけだから,ここは摶と判断すべきだとなる。楊上善は釈音を間違えたことになるが,まあ他でも度々間違えているわけだから……。それに原鈔の問題の字の右下にアツと書かれているらしい。これはおそらくはフリガナだろうからアツまる,聚まると,鈔者も読むつもり,読ませるつもりだったのだろう。
ここはひとまず解決がついたとして,他にも声符専に書かれた字をどう決定すべきかが不安である。『太素』と『素問』『霊枢』を対比してみると,薄あるいは揣になっていることが多い。薄ならハクで搏という関係はまあいいらしい。義は迫とか拍とかにつらなっていく。
しかし揣はどうなのか。対応関係は摶とであろうが,音はスイあるいはシである。でいろいろ調べてみると,『漢語大字典』クラスの字書になると,別にタンに近い音も載っている。(小型の辞典のなかでは『新字源』に載る。)しかも古くは團と通じて用いられたらしい。つまり揣には同形異字の,摶と異体字関係にあるものが有るらしい。傍証としては『説文』に「𨄔(足專):脚腸(ふくらはぎ)也,或作腨」と載る。形符の足と肉は同類,声符の専と耑は同音もしくは近音,で互いに取り替えて用いるというのは異体字発生の常道であった。
一応:
別本で揣 or 形右上に点なし or 音タン or 義あつまる なら 摶?!
別本で薄 or 形右上に点あり or 音ハク or 義うつ とる なら 搏?!
という関係は成立するらしいが,ことが俗の情勢にあることだから,形・音・義のどこにでもウッカリミスは発生する。結局のところは深く読み込んで判断するしか無い。たとえば長鍼の身は『霊枢』によって薄(うすい?)とすべきか,『太素』によって團(まるい?)とすべきか。真腎の脈は『太素』によって揣でタンで聚とみるべきか。いや楊上善は音は初委反(シ)というし。『素問』『甲乙経』によって薄を取って,したがって迫ってくるような脈と考えようか。楊上善が義は動也というのも,薄→迫・拍のほうが相応しいかも知れない。楊上善の釈音はここでも間違っている。いや,そもそも搏を摶と見間違って,しかも揣と書き間違えたか。なやましい。
というようなわけで,『太素』の新新校正などというお遊びは四回目で,流石に止めると言ったけれど,そうは行かないかも知れない。一年後,二年後,四年後だったから,次はきっと八年後だろうが。喜寿の祝いの引き出物に予定しておこう。
其大氣之■而不行者,積於胷中,命曰氣海,出於肺,循喉嚨,故呼則出,吸則入。
とある。■は木偏に専。先ず木偏は俗字で手偏と紛れるのは普通のことだから気にしない。で,ここは手偏のほうが相応しいと考える。そもそも,外の箇所では手偏も木偏も才に近い形になることが多い。
問題は声符の方で,普通には専は專の常用漢字体ということになろうが,実際には尃の右肩の一点などは,俗字では書き落とされることも多いので,手偏に専の形は,搏でハクで うつ・とる なのか,あるいは摶でタンで あつまる なのか,にわかには決定しがたい。
どの字に解すべきかとなると,先ず他の書物ではどうなっているかをみる,ということを思いつく。『太素』の調食のこの部分は『霊枢』五味にある。ところが問題の字は,我らが明刊無名氏本では搏だが,明趙府居敬堂本では摶である。
次に考えるべきは,注では何をいっているか。幸いなことに,楊上善は「謗各反,聚也」と音も義も注記しておいてくれた。謗はハウ(歴史的仮名遣い)で各はカクだから謗各反はハク。ところが「聚」という義は,代表的な古字書などには搏にも摶にも見つからない。ただ偉い先生がたの考証をみると,摶は團に通じ,團に聚の義はあるわけだから,ここは摶と判断すべきだとなる。楊上善は釈音を間違えたことになるが,まあ他でも度々間違えているわけだから……。それに原鈔の問題の字の右下にアツと書かれているらしい。これはおそらくはフリガナだろうからアツまる,聚まると,鈔者も読むつもり,読ませるつもりだったのだろう。
ここはひとまず解決がついたとして,他にも声符専に書かれた字をどう決定すべきかが不安である。『太素』と『素問』『霊枢』を対比してみると,薄あるいは揣になっていることが多い。薄ならハクで搏という関係はまあいいらしい。義は迫とか拍とかにつらなっていく。
しかし揣はどうなのか。対応関係は摶とであろうが,音はスイあるいはシである。でいろいろ調べてみると,『漢語大字典』クラスの字書になると,別にタンに近い音も載っている。(小型の辞典のなかでは『新字源』に載る。)しかも古くは團と通じて用いられたらしい。つまり揣には同形異字の,摶と異体字関係にあるものが有るらしい。傍証としては『説文』に「𨄔(足專):脚腸(ふくらはぎ)也,或作腨」と載る。形符の足と肉は同類,声符の専と耑は同音もしくは近音,で互いに取り替えて用いるというのは異体字発生の常道であった。
一応:
別本で揣 or 形右上に点なし or 音タン or 義あつまる なら 摶?!
別本で薄 or 形右上に点あり or 音ハク or 義うつ とる なら 搏?!
という関係は成立するらしいが,ことが俗の情勢にあることだから,形・音・義のどこにでもウッカリミスは発生する。結局のところは深く読み込んで判断するしか無い。たとえば長鍼の身は『霊枢』によって薄(うすい?)とすべきか,『太素』によって團(まるい?)とすべきか。真腎の脈は『太素』によって揣でタンで聚とみるべきか。いや楊上善は音は初委反(シ)というし。『素問』『甲乙経』によって薄を取って,したがって迫ってくるような脈と考えようか。楊上善が義は動也というのも,薄→迫・拍のほうが相応しいかも知れない。楊上善の釈音はここでも間違っている。いや,そもそも搏を摶と見間違って,しかも揣と書き間違えたか。なやましい。
というようなわけで,『太素』の新新校正などというお遊びは四回目で,流石に止めると言ったけれど,そうは行かないかも知れない。一年後,二年後,四年後だったから,次はきっと八年後だろうが。喜寿の祝いの引き出物に予定しておこう。
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