2013年2月10日 星期日
いたずらに
ある大先生が尺牘の例として,自分の書いた「比已秋深、定多佳興、弟幸次郎、亦復碌碌、忙於授徒、兼又著書、雖歎塵冗、頑健如常、不必垂廑、……」を示し、「比已に秋深し、定めて佳興多からん。弟幸次郎、亦た復た碌碌たり。徒に授くるに忙しく、兼ねて又た書を著す。塵冗を歎ずと雖も、頑健常の如し。必ずしも廑を垂れざれ。……」などと,訓を添えるのはともかくとして,「徒」に「いたずら」と仮名をふるのはなんともはや。でもまあ,こんなのは,編集者のお節介なミスだろうと思って読みすすめると,「碑誌伝状の文章」の例として「女挐壙銘」をあげて,「五年、愈爲京兆」を「五年にして、愈(いよ)いよ京兆と為る」と訓んでいるのには,絶句です。この墓誌銘は,韓愈が書いたものなんですよ。そもそも大先生も,現代語訳は「後五年、韓愈は許されて北に帰り,栄転して京兆となった」としている。やっぱりどうも,先のミスも含めて,大先生の粗忽なんじゃないか。
2013年2月9日 星期六
叩之不發
『資治通鑑』卷百七十八・隋紀二 隋の文帝の開皇十九年
獨孤后性妨忌,後宮莫敢進御。尉遲迥女孫,有美色,先沒宮中。上於仁壽宮見而悅之,因得幸。后伺上聽朝,陰殺之。上由是大怒,單騎從苑中出,不由徑路,入山谷間二十餘里。高熲、楊素等追及上, 扣馬苦諫 。上太息曰:「吾貴為天子,不得自由!」高熲曰:「陛下豈以一婦人而輕天下!」上意少解,駐馬良久,中夜方還宮。后俟上於閣內,及至,后流涕拜謝,熲、素等和解之,因置酒極歡。先是后以高熲父之家客,甚見親禮,至是,聞熲謂己為一婦人,遂銜之。後の「熲の己を謂いて一婦人と為すを聞き,遂に之を銜む」から推せば,先の「陛下,豈一婦人を以って天下を軽んずるか」の一婦人とは獨孤后のことと解せざるを得ないけれども,私は最初は尉遲迥の女孫のことだと感じた。いや,難しいね,というのはよそ事で,ここに「扣馬苦諫」とあるのは「馬を扣(ひか)えて苦(ねんごろ)に諫む」と訓むよりなかろうから,『霊枢』九針十二原の「不知機道,叩之不發」だって,「機の道を知らざれば,これを叩(ひか)えて発せず」と訓んで好かろうと思う。「叩」を『太素』巻二十四・真邪補写(『素問』離合真邪論に相当)では「扣」に作り,「叩」と「扣」は,「ひきとめる」の意において通じる。
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