敦煌文書の中には,いくつもの俗字書が有って,その一つを郎知本『正名要錄』という。ところが『舊唐書』郎餘令傳というものが有って,餘令の從父に同じ經歷の知年というのが登場する。また,『日本國見在書目』には,『正名要錄』は司馬知羊の撰ということになっている。郎知年はかつて司馬であったらしいから,これは官名を誤って姓氏としたのだろう。羊は本か年の誤り。では本なのか年なのか。よくわからないが,本の異体字に夲が有り,年の異体字に秊が有る。そりゃ間違うことも有るはなあ。あとは,傳抄された史書を信じるか,当時の俗文書を信じるか。
2015年2月22日 星期日
2015年2月16日 星期一
太素の滎輸
05(四海合)岐伯曰必先明知陰陽表裏營輸所在四海定矣【胃脈以為陽表也手太陰足少陰脈為陰裏也衝脈為十二經脈及絡脈之海即亦表亦裏也】
10(經脈根結)足太陽根于至陰流于京骨注于崐崘入于天柱飛陽也【輸穴之中言六陽之脈流井榮輸原經合……
11(府病合輸)黄帝曰余聞五藏六府之氣滎輸所入為合今何道從入入安連過願聞其故【問藏府脈之滎輸之合行處至處也】岐伯答曰此陽脈之別入于内屬于府者也【此言合者取三陽之脈別屬府者稱合不取陰脈以陽脈内屬於府邪入先至於府後至於藏故也】黄帝曰滎輸與合各有名乎岐伯答曰滎輸治外經合治内府【五藏六府滎輸未至於内故但療外經之病此言合者唯取陽經屬内府者以療内府病也】
12(營衞氣行)知取足太陽榮輸【取前二穴不覺愈者可取足太陽第二榮穴及第三輸也】氣在於臂足先去於血脈後取陽明少陽之滎輸【手足四厥可先刺去手足盛絡之血然後取於手足陽明滎之與輸及手足少陽榮及輸也】
14(人迎脈口診)通其滎輸乃可傳於大數大數曰盛則徒寫虚則徒補【候知五藏六府病之所在先須鍼藥通其滎輸然後傳於灸刺大數謂空補寫之數也】
22(九刺)一曰輸刺輸刺者刺諸經滎輸藏輸也【取五藏經滎輸藏輸故曰輸刺】
24(真邪補寫)有餘不足補寫於滎輸余皆以知之矣
26(寒熱雜説)冬取經輸【冬時腎氣方閉陽氣衰少陰氣緊太陽沈故取經井之輸以下陰氣取榮輸實於陽氣療於骨髓五藏之病也】
この他にも滎輸はいくらも有るが,井滎輸経合の滎輸として現れるもので,ちゃんと滎輸と書かれているものは省いた。經脈根結の楊注中の「井榮輸原經合」も,単なる書き間違いとして省いてよかろう。営衛気行も第二とか第三とかいうことばが出てくるのだから,滎に改めてよいだろう。寒熱雑説の楊注中の「経井の輸を取って以て陰気を下し,榮輸を取って陽気を実す」も,井滎輸経合の内からの選穴による効能の違いのはなしであろうから,滎輸の誤りとみてよかろうと思う。
残るところは,府病合輸、人迎脈口診、九刺、真邪補寫であるが,『太素』ではもともと明らかに「滎輸」になっている。はて,「榮輸」などということばは本当に有ったのか。全部を「滎輸」としては拙いんだろうか。四海合に「營輸」などと出てくるのがいささか微妙ではあるが。
10(經脈根結)足太陽根于至陰流于京骨注于崐崘入于天柱飛陽也【輸穴之中言六陽之脈流井榮輸原經合……
11(府病合輸)黄帝曰余聞五藏六府之氣滎輸所入為合今何道從入入安連過願聞其故【問藏府脈之滎輸之合行處至處也】岐伯答曰此陽脈之別入于内屬于府者也【此言合者取三陽之脈別屬府者稱合不取陰脈以陽脈内屬於府邪入先至於府後至於藏故也】黄帝曰滎輸與合各有名乎岐伯答曰滎輸治外經合治内府【五藏六府滎輸未至於内故但療外經之病此言合者唯取陽經屬内府者以療内府病也】
12(營衞氣行)知取足太陽榮輸【取前二穴不覺愈者可取足太陽第二榮穴及第三輸也】氣在於臂足先去於血脈後取陽明少陽之滎輸【手足四厥可先刺去手足盛絡之血然後取於手足陽明滎之與輸及手足少陽榮及輸也】
14(人迎脈口診)通其滎輸乃可傳於大數大數曰盛則徒寫虚則徒補【候知五藏六府病之所在先須鍼藥通其滎輸然後傳於灸刺大數謂空補寫之數也】
22(九刺)一曰輸刺輸刺者刺諸經滎輸藏輸也【取五藏經滎輸藏輸故曰輸刺】
24(真邪補寫)有餘不足補寫於滎輸余皆以知之矣
26(寒熱雜説)冬取經輸【冬時腎氣方閉陽氣衰少陰氣緊太陽沈故取經井之輸以下陰氣取榮輸實於陽氣療於骨髓五藏之病也】
この他にも滎輸はいくらも有るが,井滎輸経合の滎輸として現れるもので,ちゃんと滎輸と書かれているものは省いた。經脈根結の楊注中の「井榮輸原經合」も,単なる書き間違いとして省いてよかろう。営衛気行も第二とか第三とかいうことばが出てくるのだから,滎に改めてよいだろう。寒熱雑説の楊注中の「経井の輸を取って以て陰気を下し,榮輸を取って陽気を実す」も,井滎輸経合の内からの選穴による効能の違いのはなしであろうから,滎輸の誤りとみてよかろうと思う。
残るところは,府病合輸、人迎脈口診、九刺、真邪補寫であるが,『太素』ではもともと明らかに「滎輸」になっている。はて,「榮輸」などということばは本当に有ったのか。全部を「滎輸」としては拙いんだろうか。四海合に「營輸」などと出てくるのがいささか微妙ではあるが。
2015年2月2日 星期一
何が出来ると思ったのか
かの女子大生は狂犬じみている,には違いないが,それにちょっかいを出して,より添っていたとやらいう,宗教家とやらいうオバサンにも,いささか,げんなりする。
わが家にも,宗教家とやらいうオバサンはしばしば訪れる。そのたびに無言で,手で制して,慇懃に,拒絶する。するとオバサンは,おだやかに,丁寧に,会釈して去る。そしてわたしは,その日一日,ずっと不愉快でいる。
わが家にも,宗教家とやらいうオバサンはしばしば訪れる。そのたびに無言で,手で制して,慇懃に,拒絶する。するとオバサンは,おだやかに,丁寧に,会釈して去る。そしてわたしは,その日一日,ずっと不愉快でいる。
2015年1月18日 星期日
2015年1月13日 星期二
移乖和
『太素』巻22三刺の篇末近く,「必一其神,令之在針,淺而留之,微而浮之,以移其神,□□□□」についての楊注を,「移乖和(也),守針下和氣,六也」と読み解いたところ,最初の字は「移」には見えないという異見が出た。見えるかどうかは争いようが無いが,とりあえず似た「移」は有る。『太素』巻28痺論の「黄帝曰:善。願聞周痺何如?岐伯對曰:周痺者,在血脈之中,隨脈以上,循脈以下,不能左右,各當其所」についての楊注に「言周痺之状,痺在血脈之中,循脈上下,不能在其左右不移其處,但以壅其真氣,使營身不周,故名周痺之也」の「移」は以下の如きものです。如何。なお,「換」ではどうか,という意見も有ったように思うが,換はおろか渙も喚も奐も『太素』には見えないようなので,似ているかどうか判断のしようがない。
迎随について
『霊枢』九針十二原の冒頭付近,小鍼の要の後半部分について,逢・逆・迎は通じて迎撃の意味であり,追・順・随は通じて追撃の意味であるという新解釈を聴いた。きわめて明快で魅力的なのだが,得心できないところも有る。「往者為迎,来者為迎」と言い換えられて互文であるとされるところもそうだが,『霊枢』逆順の「無撃堂堂之陣」に拠って,病勢が盛んなときには手を下さないという。症状が出ないうちに何とかするのが理想だが,たいしたことがないうちに何とかするのが次善,それもかなわなければ病勢が衰えてからにする。この説明も魅力的だし,それ自体に異論は無い。ただ「空中の機は清静にして微」であるといい,「掛けるに髪を以てもすべからず」といい,「これを叩けども発せず」あるいは「これを扣えて発せず」というところからすると,やはりタイミングを外すな,という語気をここには強く感ずる。つまり,刺すべき瞬間に刺し,抜くべき瞬間に抜け,はやまるな(来てないものを迎えにいってはダメ,ジッと待て),遅れるな(往ってしまったものを追いるようではダメ),躊躇するな。躊躇するなという注意は,『霊枢』には繰り返し説かれていると思う。粗(工)は闇の中にいるようなもので何もわからない,タイミングをはっきりとさとって外さないのは(上)工にのみ可能なのである。してみれば「往者為逆,来者為順」だけは,そのままの文字で,「(神気が)往ってしまうのは拙い,来てくれるのは喜ばしい」と解しておきたい。
2015年1月5日 星期一
并州大都督楊暉
581 隋の文帝の即位。
589 楊上善,生まれる。
604 文帝崩じ,煬帝の即位。并州(山西省)総管・漢王楊諒の反乱,鎮圧。
617 太原(并州)留守・李淵の挙兵。
618 李淵即位し,唐の成立。
675 李賢,皇太子に。楊上善(87),太子文学に。
680 太子李賢,廃される。
681 楊上善,死す。
684 李賢,自殺。
705 武后死去。
711 李賢の名誉回復。
楊上善の墓誌銘にいう父親の暉が,并州大都督だったというのは本当のことなのか。本当だったとして,それはいつのことなのか。まさか,唐の高祖・李淵が挙兵の最初に戦った相手じゃ無いよね。楊上善は,そこまでの有力者の末裔じゃ無いよね。
589 楊上善,生まれる。
604 文帝崩じ,煬帝の即位。并州(山西省)総管・漢王楊諒の反乱,鎮圧。
617 太原(并州)留守・李淵の挙兵。
618 李淵即位し,唐の成立。
675 李賢,皇太子に。楊上善(87),太子文学に。
680 太子李賢,廃される。
681 楊上善,死す。
684 李賢,自殺。
705 武后死去。
711 李賢の名誉回復。
楊上善の墓誌銘にいう父親の暉が,并州大都督だったというのは本当のことなのか。本当だったとして,それはいつのことなのか。まさか,唐の高祖・李淵が挙兵の最初に戦った相手じゃ無いよね。楊上善は,そこまでの有力者の末裔じゃ無いよね。
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