『霊枢』九針論に,毫針の用法を説いて,一般的には「靜以徐往,微以久留,正氣因之,眞邪俱往,出針而養者也」と句読する。しかし,楊上善は「養者,久留也」といい,郭靄春はこれを採っている。そうだとすると,針を出してと久しく留めてとでは矛盾しないか。そこで,「眞邪俱往出。針而養者也」としたい。「往」と「出」は,同義あるいは近義の字を重ねたものであろう。あるいはまた,このところは四字句を主とするところからすれば,「出」は「往」についての注釈の文字の混入とも考えられる。
『霊枢経校釈』は,「出针以后,还要継続疗养」などというが,九針十二原にも「靜以徐往,微以久留之而養,以取痛痹」ということもあり,取りたくない。
2013年5月26日 星期日
黄帝内経霊枢集注
最近,大陸から妙に『霊枢』の参考書が入ってくるなあ,と思ってよく見たら,張志聡の『黄帝内経霊枢集注』が三種類です。学苑出版社と中医古籍出版社と山西科学技術出版社。こんなの何処が違うのかね。まあ,新たに印刷するにあたっての点校者が違う。でも,どんな人かなんて,インターネットくらいじゃろくに分からない。実はこの外にも,『黄帝内経集注』というのが浙江古籍出版社から出ていて,『素問』と『霊枢』の二つの部分が一冊に製本されている。で,私の持っているのは2002年12月の印刷なんだけど,今,本屋さんが広告しているのは2009年5月なんです。紹介の写真で見る限りでは同じもののようです。こんなの何処が違うの。まあ,誤植の訂正くらいはあるのかな。もの好きに全部持っている,あるいは見ることができる人がいたら,品定めをお願いします。
2013年5月15日 星期三
軍隊と慰安
軍と売春はつきもの。お言葉のとおりだと思います。
誤解が無いように,最初にことわっておきますが,題字しか読んでません。不愉快ですから。
で,無理矢理に鉄砲を担がされて,憎くも無い人を殺しに行かされるのと,無理矢理に慰安婦にされるのは似たようなものだとも思っています。
誤解が無いように,ことわっておきますが,どちらも非道だと言っているんです。軍隊が崇高な任務にあたっている雄々しい集団だなんて,全く思わない。
軍隊に慰安,それは必要でしょう。でも,酒くらいにしておけば,ってそれで済むような人たちじゃないわね。良民は兵士になんかならない,というのが中華の伝統だった,ような。
誤解が無いように,最初にことわっておきますが,題字しか読んでません。不愉快ですから。
で,無理矢理に鉄砲を担がされて,憎くも無い人を殺しに行かされるのと,無理矢理に慰安婦にされるのは似たようなものだとも思っています。
誤解が無いように,ことわっておきますが,どちらも非道だと言っているんです。軍隊が崇高な任務にあたっている雄々しい集団だなんて,全く思わない。
軍隊に慰安,それは必要でしょう。でも,酒くらいにしておけば,ってそれで済むような人たちじゃないわね。良民は兵士になんかならない,というのが中華の伝統だった,ような。
2013年5月12日 星期日
脈診なんて信じられない
脈を診て肺虚だとか肝虚だとか,左は外傷で右は内傷だとか。信じられない。
なんとか信じられるのは,速ければ熱で遅ければ寒とか,浮いていれば風で沈んでいれば湿とか。でもこれも,熱とか寒とか,風とか湿とかの概念に修正を強いるかも知れない。
あとは季節との親和性。季節との親和性から,あるいは五蔵の特質からしての身体状況が熱・寒・風・湿になりがちな傾向の検討。そこいらあたりまでは,まあ何とか。
その他は,あまりも陰陽五行説への依存が気に障る。いわばいわるるもの,という程度の説得力。
信じられる人は信じればいい。所詮は方便なんですから。マニュアル無しに診療なんてできない。信じられない人は,ぎりぎり信じられる何かを構築しなければならない。これは信じられないとか,ここまでは信じるとかは,所詮は五十歩百歩。
比較脈診の歴史は,『内経』の時代から有るには有る。でも,その中ですでに思いついているけれども,その中ですでに破綻していると思う。以降もことごとく失敗の歴史のように思う。現代の六部定位脈診は希有の例でしょう。それも何時まで無事だか。
有効なんですよ。でも,断じて行えば鬼をもうごかすというしね。比較脈診のかけらも無い臨床の世界も,ちゃんと存在すると思うしね。そのほうが黄帝医学の正統なんじゃないかと思うしね。
なんとか信じられるのは,速ければ熱で遅ければ寒とか,浮いていれば風で沈んでいれば湿とか。でもこれも,熱とか寒とか,風とか湿とかの概念に修正を強いるかも知れない。
あとは季節との親和性。季節との親和性から,あるいは五蔵の特質からしての身体状況が熱・寒・風・湿になりがちな傾向の検討。そこいらあたりまでは,まあ何とか。
その他は,あまりも陰陽五行説への依存が気に障る。いわばいわるるもの,という程度の説得力。
信じられる人は信じればいい。所詮は方便なんですから。マニュアル無しに診療なんてできない。信じられない人は,ぎりぎり信じられる何かを構築しなければならない。これは信じられないとか,ここまでは信じるとかは,所詮は五十歩百歩。
比較脈診の歴史は,『内経』の時代から有るには有る。でも,その中ですでに思いついているけれども,その中ですでに破綻していると思う。以降もことごとく失敗の歴史のように思う。現代の六部定位脈診は希有の例でしょう。それも何時まで無事だか。
有効なんですよ。でも,断じて行えば鬼をもうごかすというしね。比較脈診のかけらも無い臨床の世界も,ちゃんと存在すると思うしね。そのほうが黄帝医学の正統なんじゃないかと思うしね。
訂閱:
文章 (Atom)