脈を診て肺虚だとか肝虚だとか,左は外傷で右は内傷だとか。信じられない。
なんとか信じられるのは,速ければ熱で遅ければ寒とか,浮いていれば風で沈んでいれば湿とか。でもこれも,熱とか寒とか,風とか湿とかの概念に修正を強いるかも知れない。
あとは季節との親和性。季節との親和性から,あるいは五蔵の特質からしての身体状況が熱・寒・風・湿になりがちな傾向の検討。そこいらあたりまでは,まあ何とか。
その他は,あまりも陰陽五行説への依存が気に障る。いわばいわるるもの,という程度の説得力。
信じられる人は信じればいい。所詮は方便なんですから。マニュアル無しに診療なんてできない。信じられない人は,ぎりぎり信じられる何かを構築しなければならない。これは信じられないとか,ここまでは信じるとかは,所詮は五十歩百歩。
比較脈診の歴史は,『内経』の時代から有るには有る。でも,その中ですでに思いついているけれども,その中ですでに破綻していると思う。以降もことごとく失敗の歴史のように思う。現代の六部定位脈診は希有の例でしょう。それも何時まで無事だか。
有効なんですよ。でも,断じて行えば鬼をもうごかすというしね。比較脈診のかけらも無い臨床の世界も,ちゃんと存在すると思うしね。そのほうが黄帝医学の正統なんじゃないかと思うしね。
何だか自分の苦手な世界を否定しているに過ぎないみたい。
回覆刪除確かに『霊枢』の人迎気口診で,人迎と気口を比較して,何倍だからどの脈というところは胡散臭い。馬王堆の脈書には無いし,経脈篇でさえ,治療の原則の指示とはマッチしてないみたいだけど。
まあまあ信じられるのは,比較脈診じゃなくて,脈状診のほうじゃないか,ということです。
回覆刪除季節の移り変わりに応じて,脈状は変化する,というのが体系化の始めであって,それに五蔵が関連づけられた。そこいらまでが,岐黄医学の根源ではなかろうか。
で,季節に相応しくない脈状はどうすれば是正できるのか。例えば季節外れに(五行では木に配される)弦脈を診たら,(金剋木の理屈から,五行説において剋するはずの金に配される)経脈とか経穴とかに術を施して力づければ,効果を期待できるのか,ということ。信じられるのか,ということ。浮いている脈を沈めるには合穴を,沈んでいる脈を浮かせるには兪を取れ(ようするに,より陰側に取るか,より陽側に取るか)と主張している会派は有るみたいです。これはちょっと試してみようか,というくらいには信じている。
日本人は比較が好きみたい,ということでもある。むかしむかし,中国から招いた先生に脈を診てもらったことが有る。にっこり笑って,大丈夫!といわれた。そりゃそうです。随行して,お世話がかりを勤めているんですから。でも,その時の気分としては,肺が弱いねとか,肝に気をつけなとか,まあ日本風にいえば,肺虚とか肝虚とかいうようなことをいってくれるかな,と思ったんです。で,そろそろと古典を読みすすめて,比較脈診で,五行の相生と相剋から,証をを割り出すというような方法は,余程特殊なものじゃないかと思い出したわけ。だから,苦手の人は避けても良い。得意な人は続ければ良い。避けたら避けたで,何か別の方法を探る必要は有る。しんどいけどね,ということ。