兪か俞かなんて,どうでもいいと思う。でも兪と輸が並んで出てくると,ちょっと気にくわない。気にくわないのがこうじると,兪のコードのところに俞を作字したり……。昔はやってた。バカだね。でも,もっと気にくわないのは,今は兪と俞と双方に別々のコード番号が振られていること。だから,どちらかを選ばないと入力できない。肺兪を顧従徳本『素問』通りに肺俞と入力しなければ,ヒットしないかも知れない。肺俞でも肺兪でも,『霊枢』ではヒットしない。肺腧でないとね。さすがに月に兪でないと,ということは無さそうですが。
2017年6月16日 星期五
大蛇か蜈蚣か
米原の近くに,柏原という駅がある。ここに一つの伝説があって,柏原の弥三郎(もしくは伊吹の弥三郎)という乱暴者がいて,土地の大物の大野木殿の婿になっていた。ところが弥三郎の悪行が過ぎて,義父もたまりかねて,成敗した。
この弥三郎の正体は,大蛇だということになっている。
ちょっと待ってよ,ノギというのはナギと同じく蛇のことではなかったか。蛇が蛇を成敗した,のか。(わたしの先祖に,小野木というのがいる。)
俵の藤太は,瀬田の唐橋の大蛇の化身である姫君に頼まれて,蜈蚣退治をしている。敵役が大蛇でなくて,蜈蚣というのがおもしろい。鏃に唾したのが,蜈蚣にとって大毒というのもおもしろい。
宋の『独醒雑志』という怪奇小説集に,報寃蛇というのが載っている。これを防ぐのに宿の主人が筒を貸してくれて,枕元に置いて寝ると,夜中に蛇が屋根裏から堕ちるのに応じて,筒から大蜈蚣が這い出して,蛇を制しかつ斃した。蛇と蜈蚣が敵同士という話は,これに拠るのだろうか。もっと古い謂われが有るんだろうか。こっちは蛇が敵役。
ひょっとすると,蜈蚣の毒に唾が効くというような方書も,有るんじゃないか。
この弥三郎の正体は,大蛇だということになっている。
ちょっと待ってよ,ノギというのはナギと同じく蛇のことではなかったか。蛇が蛇を成敗した,のか。(わたしの先祖に,小野木というのがいる。)
俵の藤太は,瀬田の唐橋の大蛇の化身である姫君に頼まれて,蜈蚣退治をしている。敵役が大蛇でなくて,蜈蚣というのがおもしろい。鏃に唾したのが,蜈蚣にとって大毒というのもおもしろい。
宋の『独醒雑志』という怪奇小説集に,報寃蛇というのが載っている。これを防ぐのに宿の主人が筒を貸してくれて,枕元に置いて寝ると,夜中に蛇が屋根裏から堕ちるのに応じて,筒から大蜈蚣が這い出して,蛇を制しかつ斃した。蛇と蜈蚣が敵同士という話は,これに拠るのだろうか。もっと古い謂われが有るんだろうか。こっちは蛇が敵役。
ひょっとすると,蜈蚣の毒に唾が効くというような方書も,有るんじゃないか。
2017年6月12日 星期一
漢字
腕の動きは,横へは左から右へ,縦には上から下へ。だから漢字の書き順はそうなっている。
なるほど。
しかし,それだったら,左から右への横書きのほうが,自然な動きではあるまいか。勿論,書き順に多少の変化は生じるだろうが。
そういえば,現代中国の人が,門を门と書くのは当然ながら,冂と書いて丶をうつのを何度も見ている。
連綿体の様子もかなり変化するでしょうなあ。
人の目は横に並んでいる,だから横書きのほうが自然に読める,といった人もいる。
パソコンじゃ横書きのほうが扱いやすい。パソコン画面で読むのが普通になれば,そのうち紙の新聞も横書きになる,といった人もいる。
考えてみれば,甲骨文字は甲や骨に刻んだんだろうから,鑿は手前から向こうへ,つまり字形の下から上へ,じゃなかったろうか……。
なるほど。
しかし,それだったら,左から右への横書きのほうが,自然な動きではあるまいか。勿論,書き順に多少の変化は生じるだろうが。
そういえば,現代中国の人が,門を门と書くのは当然ながら,冂と書いて丶をうつのを何度も見ている。
連綿体の様子もかなり変化するでしょうなあ。
人の目は横に並んでいる,だから横書きのほうが自然に読める,といった人もいる。
パソコンじゃ横書きのほうが扱いやすい。パソコン画面で読むのが普通になれば,そのうち紙の新聞も横書きになる,といった人もいる。
考えてみれば,甲骨文字は甲や骨に刻んだんだろうから,鑿は手前から向こうへ,つまり字形の下から上へ,じゃなかったろうか……。
2017年6月4日 星期日
痺
何時の頃からか、麻痺でなく麻痹と書く人が増えた。理由も薄々は分かっていた。別に卑しい病というのが拙い、というわけじゃ無さそう。
ところがである、ごく最近、変なことに気づいた。
『山海經』南山経に、「南山二経之首,曰柜山,……有鳥焉,其状如鴟而人手,其音如痺,其名曰鴸,其名自号也,見則其県多放士」とあり、郭璞は痺に注して「未詳」と云う。『爾雅』釈鳥に「鷯鶉,その雄は鵲,牝は痺」とあるのを、郭璞は見てないのだろうか。その鳴き声は雌のウズラのようだ、で良さそうに思うが。
因みに、痹は『説文解字』に、「溼病なり。从疒に従い畀の声」とある。溼は、『漢辞海』には湿の異体字として載っている。
郭璞にとっては、痹でも痺でもシビれのことだったんだろうか。
ところがである、ごく最近、変なことに気づいた。
『山海經』南山経に、「南山二経之首,曰柜山,……有鳥焉,其状如鴟而人手,其音如痺,其名曰鴸,其名自号也,見則其県多放士」とあり、郭璞は痺に注して「未詳」と云う。『爾雅』釈鳥に「鷯鶉,その雄は鵲,牝は痺」とあるのを、郭璞は見てないのだろうか。その鳴き声は雌のウズラのようだ、で良さそうに思うが。
因みに、痹は『説文解字』に、「溼病なり。从疒に従い畀の声」とある。溼は、『漢辞海』には湿の異体字として載っている。
郭璞にとっては、痹でも痺でもシビれのことだったんだろうか。
訂閱:
文章 (Atom)