2017年12月7日 星期四

訳書の功罪

どこやらの国のなんとやらいう翻訳文学賞,賞金は著者と訳者で等分だそうだ。
つまり,両者の功罪は相い半ばする。

著者の注と訳者の注は,厳密に区別する。無論,それが望ましい。

しかし,読者がみるのは,普通は訳文だけ。著者のとんでもないウッカリは,黙って正してあげるのが,むしろ親切かも知れない。訳者のとんでもないウッカリを,著者が忠告する余裕はあるまい。

いちいちこれは原著の注,これは訳者の注,なんてやられたら,五月蝿くてしようがないかも知れない。五月蝿く注記するのは,訳者の自己満足に過ぎないかも知れない。読者はそんなの分かっているよ!あるいは,もっと詳しくしてくれないとワカンナイ……。

所詮,功は著者に,罪は訳者に。他にどうしようもない,のかも知れない。

1 則留言:

  1. 平凡社東洋文庫『洛陽伽藍記』(入矢義高訳注)巻第二 城東に,司農張倫が造った景陽山に関する記事があって,中に「天水の人姜質は磊落な人がらで。麻の衣に葛の頭巾をつけ,隠者の風格があったが,この山を見てひどく気に入り,たまらなくなったらしく,そこで「庭山賦」を作った」として,その賦の訳文を載せる。ところがこの文は,とてもじゃないが,磊落な人がらとか,隠者の風格とかという感じじゃない。不審に思って訳注をみたら,「……その鄙俗ぶりが識者の物笑いになったとあるのが示唆するように,この作品はいかにもbanalな紋切り型である。訳文はその泥臭さを出来る限り再現しようと努めたつもりである」とあった。訳、注の用意,これに至るか。

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