2016年6月20日 星期一

筋瘻頸腫

『太素』卷13身度 經筋
手太陽之筋,起於小指之上,上結於捥,上循臂內廉,結於肘內兌骨之後,彈之應於小指之上①,上入結於腋下
其支者,後走掖後廉,上繞肩甲,循出足太陽之筋前,結於耳後完骨;
其支者,入耳中
其直者,出耳上,下結於②,上屬外眥。
其病小指支痛③,肘內兌骨後廉痛,循臂陰入腋下④,腋下痛,掖後廉痛,繞肩、肩甲⑤引而痛,應耳中鳴痛,引瞑,良久乃能⑥視。頸筋急則爲筋瘻頸腫,寒熱在頸者。
治在燔鍼却刺,以知爲數,以痛爲輸。
其爲腫者,而兌之
其支者,上曲牙,循耳前屬目外眥,上額結於角。⑨
其病當所過者支轉筋。
治在燔鍼却刺,以知爲數,以痛爲輸,名曰仲夏痹。
【校異】
①彈之應於小指之上:筋の走行と直接に関わらない句を挟むの異例である。
②顑:『霊枢』は「頷」に作る。
③小指支痛:『霊枢』には「痛」字は無い。
④循臂陰入腋下:この走行の句は不必要。
⑤繞肩肩甲:『霊枢』は「繞肩胛」作る。
⑥能:『霊枢』は「得」に作る。
⑦この数句が二重に有るのは異例である。
⑧傷:『霊枢』は「復」に作り,『太素』楊注にも「傷,或爲復也」(銭教授の指摘に従う)と言う。
⑨再び筋の走行を述べるのは異例である。

下線を引いた部位名は,筋の走行と病症が(順序までも)きっちりと対応する。
例外の「頸筋急則爲筋瘻頸腫,寒熱在頸者,傷而兌之。」は,おそらくは出処を殊にする句なのだろう。
「傷而兌之」は,鑱針でも用いて膿を除くのだと思う。言わずもがなだが,兌は鋭に通じる。

2016年6月17日 星期五

気づいたときには満開で

 雨にぬれて……

2016年5月20日 星期五

新新新新新校正

案内が遅れましたが,『黄帝内経太素新新校正』の第四修訂版を,今年の万愚節に出してます。
さすがにこれでおしまいにしたい。

日本内経医学会に発売元をお願いしています。



2016年2月19日 星期五

臨床的に……

古典を読むということには,少なくとも三つの段階が有る。
先ず字句の誤りを正し,詞義の辨別をしなければならない。
次いで原著者は,何を経験し,何を伝えようとしているのかを,読み解く必要が有る。
その上で,原著者は自分の経験をこう表現しているが,現代人の目からすれば本当はこうじゃないかと,言い換える必要が有るかも知れない。
本当にそうなのか,実証を試みるのは,さらにその後である。
例えば「虚すればその母を補う」,話を単純化するために,五蔵の虚証と判じて,その名を冠した経をとり,さらに五行の相生関係に拠って母の経も取る,とする。五行説の信奉者はそれでいいだろうが,現代の科学者はこの説明で満足できるのか。
取る経の組み合わせは:
心虚:手少陰(火)と足厥陰(土)
肺虚:手太陰(金)と足太陰(土)
脾虚:足太陰(土)と手少陰(火)
肝虚:足厥陰(木)と足少陰(水)
腎虚:足少陰(水)と手太陰(金)
心虚は治療の対象にならないことになっているけれど,まあ理屈の話ですから。
で,肝虚以外は手足の組み合わせになっている。すると肝虚も,例えば手足の同名経を取ってみたらどうか。つまり手足の厥陰を取る。それってつまり,現今の心虚は無いよ,心包虚なら有るよ,の組み合わせだよね。そこで,肝虚は,心包虚として治療したほうが効くのと違うか。
な~んてところまで踏み込まないと,古典から臨床へという,「科学的な」研究にはならないのと違うか。
手足の同名経の組み合わせと,いっそ前後(太陰―少陰)の組み合わせ。手少陰と足少陰という組み合わせも有りうるんじゃないか。あるいは手少陰と足厥陰という組み合わせがダメなんじゃないか。
   手太陰← →足太陰
      ↖ ↗
   手厥陰← →足厥陰
      ↙ ↘
   手少陰← →足少陰

2016年1月31日 星期日

撣散して蔵さず

『太素』巻6五蔵精神(『霊枢』本神)に「喜樂者,撣散而不藏」とあり,楊注に「撣,土安反,牽引也」という。しかし,前後の怵惕思慮の流・溢,悲哀動中の竭・絶,愁憂の閉・塞,盛怒の迷・惑などから推すに,撣と散は似通った意味で有るべきだろう。
そこで,工具書をあれこれひっくり返して,『集韻』では,時連切に「博雅:撣援,牽引也」とあり,他干切に「持不堅也」とあるのを見出した。だからここの「撣」は,音はタンで,義は「持すること堅からず」のはずである。楊注の音は良いけど,義はちょっとね,と思った。
ところがである。『太素』巻27十二邪の「胃不實則諸脈虛,諸脈虛則筋肉懈惰,筋肉懈惰,行陰用力,氣不能復,故爲撣」にも同じ楊注が有った。そこでは前に「入房用力,氣不得復,四支緩縦,故名爲撣」といい,後に「謂身體懈惰,牽引不収也」という。これって,つまり「撣」とは「ゆるんでしまう」であり,「牽引不収」であるということですよね。
「撣」ってどういう意味なの?ひきつっちゃうの?ゆるんじゃうの?
ゆるんじゃうから,ひきつれちゃうんだろうなあ。


2016年1月5日 星期二

肝在味為辛

『甲乙経』巻一・五蔵変腧第二に「肝為牡蔵,其色青,其時春,其日甲乙,其音格,其味酸。」(『霊枢』では順気一日分為四時)とあり,細字注に「素問曰:肝在味為辛。於経義為未通。」とある。これについて張燦玾主編『針灸甲乙経校注』には「此十四字,明抄本作大字正文。拠文義,顕係後人注文,故仍従此本。“肝在味為辛”,詳察今『素問』中無此義,疑所謂“『素問』曰”,疑有誤。」という。謹んで案ずるに,この通りの文句は確かに今の『素問』には見えないが,『太素』巻三・陰陽雑説に「東方青色,入通於肝,開竅於目,藏精於肝,其病發驚駭,其味辛,其類草木,其畜雞,其穀麥,其應四時,上爲歲星,是以春氣在頭也,其音角,其數八,是以知病之在筋也,其臭臊。」とあり,「其味辛」の下に楊上善は「肝味正酸而言辛者,於義不通。有云:金刻木爲妻,故肝有辛氣。」という。したがって,仁和寺本の書き間違いではない。かつて確かに奇妙な『素問』が有ったはずである。因みに現行の『素問』では金匱真言論に相当し,そこでは「其味酸」に作っている。残念ながら,心と肺については『太素』も,『甲乙』の引文のようにはなってない。

2015年12月22日 星期二

戦え!

子供たちは戦争が好きだ。マンガもゲームもほとんどが戦争ごっこだ。
戦え!で,まあまあ無事なのはスポーツの分野ぐらいだろう。
今どきの日本人には闘争心が欠ける,と監督たちは嘆く。
いや,別に今どきではないだろう。バトミントンと羽根突き,サッカーと蹴鞠,どちらが長閑かは誰でも知っている,と思う。
闘争心に欠ける?いいじゃないか,誇っていいんじゃないか。

フレデリック・ブラウンのSF短編小説に,「スポンサーから一言」というのが有る。
ある時,世界中の国のラジオやテレビから,まったく「同時刻」に,「スポンサーから一言,戦え!」,と流れる。世界中が驚き調べるが,どこから発信されたものか解らない。そもそも,当時の技術では,世界中のそれぞれの現地時間X時ぴったりにそれぞれ送信する,なんてことは不可能ということになっている。で,驚き怪しみ,散々迷ったすえ,人類はこの何処の誰だかわからない「スポーンサー」からの命令には,少なくともスポンサーの正体が(例えば,神さまだか悪魔だか)分かるまでは,従わないことにした。
勿論,こんなの夢物語ですよ。人類はそんなに賢くない。本当は,ハイハイと,素直にミサイル発射のボタンを押しちゃうと思う。

2015年12月17日 星期四

姓・氏・名

自分の苗字を,あんまり好いてない。
まずもって単純な音読で,意味不明で,つまり名前に景色が無い。
また,変わった苗字で,匿名性が乏しい。なんだかいつなにをしても,ははああいつかと,ばれそうな気がする。
そして,画数が少ないので,だだくさに書くと,なんだかバランスが悪い。

いずれも自意識過剰です。

意味不明だったけど,いろいろ調べて,どうも寒い川と関係が有るらしい。
人は他人の苗字なんかすぐ忘れる。それにわたしみたいな苗字と名前でも,じつは全く同じというのが,全国を探せば少なくとも一人はいる。グーグルの検索で発見した。それに佐藤、田中のたぐいでは,逆につまらんと思ったかも知れない。
画数のせいでバランスを欠きがちなんてのは,下手くその言い訳。

苗字と姓は違います。わたしの本姓は,どうもらしい。源平藤橘のしんがりです。これは結構気にいっている。だけど,いまさらタチバナ・ノ・ナニガシと名乗れるように,法律を改正しろと言ってもねえ。
あ,氏はまた別ものです。それと,日本的な姓氏と,中国的な姓氏も別です。橘だというのは,どちらかというと,中国的な方の話し。