2012年7月27日 星期五

中国から覗く

googleのblogは,中国からは見にくいのか?それはまあ,見にくいかも知れない。でも,全く絶望的,というわけでも無さそうです。
このblog,実は前のが不調(理由はわからない,たぶんに私の知識不足のせい)で,今年に入ってからgoogleに切り替えてます。で,統計の参加者を覗くと,全期間の国別のページビューとして,日本がダントツなのは当然ながら,次はロシア,アメリカ合衆国,台湾ときて,中国なんです。台湾の半分くらいなんですがね,中国からは見にくいだろうという思い込みからすると,ケッコウ健闘してもらっているんじゃなかろうか。
見て欲しい人が見ているか。それは分からない。けれど,それは日本国内からのページビューだって,同じことだろうから。

2012年7月26日 星期四

倉公の生涯の時を推し量る

淳于意が師としての陽慶に見えたとき,つまり高后の八年には,彼は何歳だったのか。徐広の注には「年二十六」とあるが信じない。後世の注に過ぎないし,後文の「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」を,「今師匠に死なれてから,もう十年ばかりたちます,私が師事して三年を経た三十九歳のときのことでした」と解したいからである。(この解は,筑摩書房の小竹兄弟訳とほぼ同じ。)
人の上書によって長安に送られたのは何時なのか。これはもう,『史記』倉公伝の「文帝四年」は誤りで,孝文本紀の「文帝十三年」が正しかろう。何故に誤ったのか。倉公伝の本文を,トントンと調子よく話し進めるについて,筆が滑ったのではないか。高后の八年に陽慶に見え,三年学んで,師匠に死なれ,それにともなって何かがバレて,あるいは批判がたかまって,文帝の四年に誣告された。時間の流れがスムーズで分かりやすい。分かりやすくするために,筆を曲げた可能性すら感じる。例えば,本文では,陽慶は年七十余で子が無い,だから淳于意に禁方を授けた。なるほど,分かりやすい。ところが答問には子の殷が登場する。むしろ,弟子入りの仲介者である。
ところで,誣告の理由は何なのか。密かに禁方を受けていたのがバレたのか,あるいは治療を断って病家に恨まれたのか。しかし,それは都へ送られて断罪されるべきことなのか。召し出された理由は,実は斉の文王の治療をしないで,直接に仕えていた陽虚侯,後の斉の孝王の利益を謀っていると疑われたのではないか。それならまあ,考え方によっては謀反に近いかも知れない。しかし,朝廷側にしてみれば,東方の大封である斉の王が死んで,その領土をその親族たちに分割できれば,そのほうが好都合である。で,季女の上書を口実にして,淳于意を赦し,結果として(といえるか?),斉の文王は死んで,斉は分割された。
では,詔して医術について問われたのは何時なのか。それはもう,陽虚侯が首尾良く斉王になった文帝の十六年以降である。診籍に登場する封号などからみて,そういうことになる。なぜ,十三年の都送りからそれだけの時間がかかったのか。おそらくは,朝廷が淳于意の医術の価値を認めるのに,気付くのに,それだけの時間を要したということだろう。ただ,答問のはじめのほうに「今師匠に死なれてから,もう十年ばかりたちます」というのが気にかかる。「今」が誤字なのだろうか,それとも「所」で表現される「ばかり」には,案外と長さにはばが有るのだろうか。最後ちかくの,弟子についての問いに答えている淳于意には,すでに引退している気配がする。

2012年7月20日 星期五

不改其楽

何を楽しみとするのか。おのれの是とする生活を楽しみとする。世の中の役にたつ存在であることの楽しみも有ろうし,おのれのこころの自由を得ることの楽しみも有ろう。しかし,ここには「改めず」という句が有る。理想と考えていたはずの境遇に在って,それとは裏腹な不如意に陥っても,それによって,満足度が揺らぐようなことはない。理想と考えていた境遇に達するのが難しくなっても,それによって,志したはじめの昂揚が薄れるわけでもない。
あるひと曰く:師匠である私自身は,日暮れて道遠しの心境で,ややともすれば不遇をかこちがちになる。ところが甥にして弟子でもあるおまえは,なんとまあ,私が教えたとおりに,身も心も持して揺るがない,その楽しみを改めない。偉いものだなあ。

2012年7月15日 星期日

素問の大きさ

近ごろ用いる『素問』、『霊枢』は,当然ながら日本内経医学会が発行しているもの。まあ,実際には,パソコン上のテキストを利用するほうが多いけれど,もともとの様子が心配になれば,影印を覗いてみるわけだ。で,最近は小さな文字がややつらい。『素問』の王冰注や新校正は,夜間の節電の下,疲れた目にはややつらい。それで,もともとの顧従徳本ではどんな程度の大きさの文字だったのかと気になって,開いてみたら,巻頭付近に:
上海涵芬樓景印明顧氏翻宋本原書板心高營造尺六寸七分寛四寸九分
とあります。はずかしながら,最初,尺六寸七分✕四寸九分とみて,とんでもない,そんなに細長いわけがない,と思いました。勿論,営造尺で切ります。つまり,六寸七分✕四寸九分です。営造尺は昔の大工が使った尺で,つまり家屋や城壁を営造するときに使用した尺のようで,一般の尺より,若干長くて1尺=30.65センチ。してみると,もともとの顧従徳本は,高さ20.53センチ✕幅15.01センチ。面積で四倍ほどに拡大コピーして,B5のスクラップブックに貼り込むと,昔の本物に近い大きさということになる。昨今の影印本がB5でシリーズ化するのにも,根拠が有ったんですね。

2012年7月1日 星期日

清明上河図の展開

清明上河図は,大好きなんだけど,辟易するところも有る。
例えば,このBLOGのタイトルに使っている部分,お店の土間のかたちが歪んでいるでしょう。それは逆遠近法だそうです。現代の我々からするとはなはだ奇妙ではあるけれど,どうも中国だけのものではなくて,古くはむしろ一般的(?)だったらしい。
そのあおりも有ってか,その上のやや左よりの部分ですが,これも変でしょう。
観るものからほぼ同じ距離のはずの人物に,これだけの大小の隔たりが有ります。
いくらなんでも……。
でもね,これは絵巻物なんです。開いていって,閉じていって,中央の建物群がそれぞれの「世界」の境界であるとしたら……。
つまるところ,現代の目で観れば奇妙な,あるいは敢えて言えば稚拙に思えるところにも,むかしの人の立場から言えば,様々な工夫が潜んでいるのかも知れない,というおはなし。