不多了,我已經不多了。……不多不多!多乎哉?不多也。
単に茴香豆のことのみならず,己が何事かを為すための時間が。もう已にそう多くないと嘆いていると思う。
跌斷,跌,跌……
単に躓いて腿の骨を折ったというのみでなく,人生において躓いたと嘆いていると思う。
いずれも,主人公の嘆きばかりではなく,作者の嘆きでもあろうと思う。だから,長衫を穿ちて站ち喝みをする唯一の人のモデルは,作者自身であり,だからそこに一抹の同情が有る。
2013年9月11日 星期三
もう一杯の美酒 もう一切の佳肴
私は天性冷たい人間なんだろうと思う。
終に臨んでいると聞いたからとて,駆けつけて,その場に居合わせたいと思ったことは無い。その後の儀礼もただ虚しい。元気な内にもうすこし話しておけばよかったと思うことは有る。
自分の場合はどうか。その期におよんで,呼び寄せて,逢いたいと想うようなものはいない。これからもできないと思う。今,まあまあ元気なときには,逢いたいと思う友人は,それはまあ,いくら私でも数人はいる。でも,今なら一番逢いたい友人に,そうなったときには,一番逢いたくないかも知れない。燦しすぎるような気がする。
やがては訪れるその期の前に,やっておきたいことは,ささやかながら有るには有る。合理的には無意味,とは思いながらも,有る。何故だろうと思いながら,だから,取りあえず生きている。人には,もう一杯の美酒を乾し,もう一切の佳肴を喰らってから,と言い紛らわしながら,取りあえず生きている。
終に臨んでいると聞いたからとて,駆けつけて,その場に居合わせたいと思ったことは無い。その後の儀礼もただ虚しい。元気な内にもうすこし話しておけばよかったと思うことは有る。
自分の場合はどうか。その期におよんで,呼び寄せて,逢いたいと想うようなものはいない。これからもできないと思う。今,まあまあ元気なときには,逢いたいと思う友人は,それはまあ,いくら私でも数人はいる。でも,今なら一番逢いたい友人に,そうなったときには,一番逢いたくないかも知れない。燦しすぎるような気がする。
やがては訪れるその期の前に,やっておきたいことは,ささやかながら有るには有る。合理的には無意味,とは思いながらも,有る。何故だろうと思いながら,だから,取りあえず生きている。人には,もう一杯の美酒を乾し,もう一切の佳肴を喰らってから,と言い紛らわしながら,取りあえず生きている。
2013年9月10日 星期二
哭
阮步兵喪母,裴令公往弔之。阮方醉,散髮坐牀,箕踞不哭;裴至,下席於地。哭弔唁畢,便去。或問裴:「凡弔,主人哭,客乃為禮;阮既不哭,君何為哭?」裴曰:「阮方外之人,故不崇禮制;我輩俗中人,故以儀軌自居。」時人歎為兩得其中。(『世說新語』任誕)歩兵校尉の阮籍が母を亡くしたので,中書令の裴楷が弔問にでかけた。すると,阮は酒に酔い,ざんばら髪のまま,寝台に足を投げ出して坐り,哭泣の礼もしてなかった。裴はそこに着くや,地に座をしめて,哭泣し弔問しおえると,そのまま退出した。ある人が裴に問うた。「およそ弔問というものは,主人が哭泣してから客が礼をつくします。阮が哭泣もしてないのに,貴方はなぜ哭泣したのですか。」裴が応えて言う。「阮は方外の人だから,礼制などは無視している。だが我々は世俗の人である。だから礼儀作法に従うことによって人並みの顔をしているのだ。」時の人は歎じてどちらも中っているとした。
2013年9月9日 星期一
針を停めず 徐に針を引かず
『太素』巻21諸原所生に,「刺熱者如手探湯」とあって,楊上善注に「刺熱者決寫熱氣不久停鍼徐引鍼使病氣疾出故如手探湯言其疾也」という。経文の意味は,まあまあ分かるつもりだった。九針要道に,補法には徐刺速抜,瀉法には速刺徐抜と思しき記事があるから,この熱に対するのは,まあ速刺速抜だろう,と。
でも,楊上善が言っているのはどういうことなんだろう。銭教授の『新校正』の句読に従えば,「刺熱者,決寫熱氣,不久停鍼,徐引鍼使病氣疾出,故如手探湯,言其疾也。」である。これって,「……久しく針を停めず,徐に針を引いて病気をして疾く出さしむ……」と訓むんじゃないのかね。それだと徐抜だよね。何だか納得し難い。で,いろいろ考えて,ひょっとしたら「久停鍼」と「徐引鍼」の双方を,「不」一字で否定しているんじゃないか,と。
でも,それって語法的に大丈夫なんでしょうか。それって,句読点の打ち方で表現するには,どうすれば良いのでしょうか。
でも,楊上善が言っているのはどういうことなんだろう。銭教授の『新校正』の句読に従えば,「刺熱者,決寫熱氣,不久停鍼,徐引鍼使病氣疾出,故如手探湯,言其疾也。」である。これって,「……久しく針を停めず,徐に針を引いて病気をして疾く出さしむ……」と訓むんじゃないのかね。それだと徐抜だよね。何だか納得し難い。で,いろいろ考えて,ひょっとしたら「久停鍼」と「徐引鍼」の双方を,「不」一字で否定しているんじゃないか,と。
でも,それって語法的に大丈夫なんでしょうか。それって,句読点の打ち方で表現するには,どうすれば良いのでしょうか。
2013年9月7日 星期六
故欲閉戶獨處
『霊枢』経脈に:「胃足陽明之脈……是動則病洒洒振寒,善呻數欠,顔黒,病至則惡人與火,聞木聲惕然驚,心欲動,獨閉戸塞牖而處」とあり,『霊枢経校釈』には,「心動,欲は,もとは心欲動に作るが,『素問』脈解篇によって改め,欲字は下につづけて読み,『脈経』『千金』『図経』と合わせる」という。してみると,『霊枢』と『太素』が「心欲動」に作る少数派です。しかも,『太素』は,楊上善注に「故に戶を閉じて独処せんと欲するなり」というところからみるに,「獨閉戶牖而處」でなく「欲獨閉戶牖而處」だった可能性が有る。さらに,馬王堆の陰陽十一脈では,「聞木聲惕然驚心欲動閉戸塞牖而處」を「□木音則■然而驚心腸欲獨閉戶牖而處」(※□は残缺,『霊枢』では聞。■は傷と心を上下に置く形,『霊枢』では惕。腸は,実は愓にあたるだろう。『馬王堆漢墓帛書[肆]』が,惕とするのは疑問)とする。「愓」は,『説文』に放也,『集韻』に直疾貌。心が直疾であるのと,心が動ずるのとは,まあ似たようなもの。「心愓」が『霊枢』で「心動」に変わったと思われる。音も近いんじゃないか。しかして「欲」字は,陰陽十一脈でもその下に在る。
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