2015年5月12日 星期二

戴霖

明藍格鈔本『甲乙経』の巻末に:
乾隆辛卯休寧戴霖校 書内倘有當正之處因無善本靈樞姑俟異日乃定
とある。これについて,篠原孝市氏は,東洋医学研究会が1981年に影印出版したときの解説中に,「休寧の人で乾隆36(1771)年に跋を書いた戴霖について,筆者は何ら知るところがない」と言われている。それからもう何十年もたっているのであるから,すでに何か発表が有るのではないかとは思うけれど,取り敢えずgoogleで検索してもはかばかしい結果を得なかったので,贅言しておきたい。
この話はひょっとしたら,昔すでに誰かにしたかもしれないが,はっきりしないし,まして書いた記憶も無いので,……まあ取り敢えず。
中国清代の考証学の大物に,戴震というのがいますよね。生没年は1724~1777年。この人も安徽省休寧の出身なんです。で同じく雨冠の諱を持っている。としたら,戴震と戴霖は兄弟もしくは同族で同世代の人なんじゃないか。戴震は1777年に亡くなっているんだから,1771年に明鈔本『甲乙経』に跋を書いた戴霖おそらくは弟分なのだろう。
李開という人の『戴震評伝』が,2009年6月に南京大学出版社から出ているらしいから,これをみればはっきりするんじゃないかと思うけど,持ってません。

2 則留言:

  1. 『顏子家訓・勉学』に:
    近世人有り子の為に名を制するに,兄弟皆山傍に字を立て,而して峙(山寺)と名づくるもの有り;兄弟皆手傍に字を立て,而して��(扌幾)と名づくるもの有り。(張湧泉『漢語俗字研究』より引く)

    そのために歭の俗字,機の俗字をわざわざ作っちゃったというお話です。

    回覆刪除
  2. 『戴震評伝』は,インターネットで見つかりました。関係部分の抄訳です。

    ……戴震が死んだ後の第三年目に,子の戴中立もまた死んでしまって,跡継ぎが無かったので,夫人は宗族に謀って,族弟(同姓のイトコとかハトコとか)である戴漁卿(戴霖)の子の戴中孚を立てて跡継ぎの嗣子とした,……

    回覆刪除