しつこいけど
原文:燓太廟者,漸殿帥
東洋文庫の訳:太廟を燓いた者は、長官指揮官を切る
ここの「者」字は,動詞や動詞句の後に置いて,それを体言化する用法ではない。
謹んで案ずるに,ここの「者」字は,条件の後に置いて,仮定の意を表す。例えば『史記』楚世家に「伍奢有二子不殺者,為楚国患」(伍奢に二子有り殺さざれば,楚国の患いと為らん)。『漢辞源』にも載っている。例はそこから引いた。
改訳:太廟を燓いたならば,指揮官を切る!
2015年8月28日 星期五
2015年8月27日 星期四
2015年8月14日 星期五
有と在
仁和寺本『太素』巻三・陰陽大論に「故清陽出上竅,濁陰出下竅」とあって,その楊注中に「起於中膲,並有於胃口,出上膲之後」と言う。この「有」は「在」の誤りとして,新新校正には:
新校正は「有於胃口」の「有」を「行」に作るが,大正模写本を見れば「有」である。ただし,これは和訓が同じであることからきた誤りで,正しくは「在」とあるべきところだろう。としておいた。ところがである。明藍格抄本『甲乙経』巻三・手少陽及臂凡二十四穴第二十八に「消爍有肩下臂外開腋斜肘分下胻刺入六分灸三壯」とあって,戴霖が欄外に「有乃在之誤」と書き込んでいる。まさか,明藍格抄本『甲乙経』の抄者も日本人,なんてことは無かろう。してみれば,中国人にも「有」と「在」を間違える理由が有ることになる。実は鍼灸古典聚珍『新校正 黃帝三部針灸甲乙経』(と言っても,試作本の複印)でも,巻六・内外形診老壯肥瘦病旦慧夜甚大論第六の「在内者,五藏爲陰,六府爲陽;在外者,筋骨爲陰,皮膚爲陽。」を「有内者,五藏爲陰,六府爲陽;有外者,筋骨爲陰,皮膚爲陽。」に誤っていた。
2015年8月12日 星期三
禁之則逆其志
『太素』巻二・順養に:
『霊枢』師伝は「馭」を「敗」に作る。では「敗」と「馭」では,いずれが是か。
「馭」は「御」に通じ,節制の意が有る。「道」は「道理」。つまり,これに告げるにその制を以てし,これに語るにその理を以てする。(これに告げるにその欲に順わずに節制すべきを以てし,これに語るにその志に逆らっても道理によるべきを以てする。)「馭」を取る。
また新校正は,「馭」は下の「苦」、「乎」とみな古韻魚韻に在るといい,したがって「馭」の方がいいだろうとする。
黃帝曰:胃欲寒飲,腸欲熱飲,兩者相逆,便之奈何?且夫王公大人,血食之君,驕恣從欲輕人,而無能禁之,禁之則逆其志,順之則加其病,便之奈何?治之何先?「示」の下の「之」は前後文例に拠って補った。
歧伯曰:人之情,莫不惡死而樂生,告之以其馭,語之以其道,示之以其所便,開之以其所苦,雖有無道之人,惡有不聽令者乎?
『霊枢』師伝は「馭」を「敗」に作る。では「敗」と「馭」では,いずれが是か。
「馭」は「御」に通じ,節制の意が有る。「道」は「道理」。つまり,これに告げるにその制を以てし,これに語るにその理を以てする。(これに告げるにその欲に順わずに節制すべきを以てし,これに語るにその志に逆らっても道理によるべきを以てする。)「馭」を取る。
また新校正は,「馭」は下の「苦」、「乎」とみな古韻魚韻に在るといい,したがって「馭」の方がいいだろうとする。
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