2012年8月21日 星期二

臍以下皮寒

学苑出版社『霊枢講義』の師伝第二十九の,臍以上皮熱,腸中熱,則出黄如糜。の下の善按に,楊氏、馬氏以「臍以上皮熱」五字屬上,誤。就句法攷之,楊氏、馬氏以五字屬上文者,似是。竊謂「臍以下皮寒」,「寒」字或誤,疑當作「熱」,則上下文意甚覺平穩。とあり,臍以下皮寒,胃中寒,則腹脹,腸中寒,則腸鳴飧泄。の下の善按に,楊氏、馬氏以「臍以下皮寒五字」屬上文,非是。というのは理解に苦しむ。楊上善や馬蒔の説を,取るのか取らないのか。そこでオリエント出版社から出た渋江全善自筆本の影印で確かめると,「就句法攷之」以下は,欄外の書き足しで,「善按」を冠している。さては,途中で考えが変わって書き加えたかと思うが,もう少し親切な書きようが有るべきだろうと,やはりオリエント出版社から出た山田業広補正本(勿論,業廣の自筆)の影印を見てみた。すると,なんと「臍以下皮寒,胃中寒,則腹脹」云々のの欄外に置いてあるこの按語,「按就句法攷之楊氏馬氏以五字属上文者似是竊謂臍以下皮寒〃字或誤疑當作熱則上下文意甚覺平穩」の「善」を塗りつぶして,「業廣」と改めてある。何が何だか解らない。

2012年8月13日 星期一

自由な治療

これは考えていることであって,あんたにはできているのか,と問われるとつらいところなんだけど,『霊枢』を読んで,それに拠る治療というと,どんなだろうか,と。

五蔵の病は原穴で,六府の病は(下)合穴で,ということで良いのではないか。それが『霊枢』流の本治法。無論,それで上手くいかなければ,何らかの理屈で,本輸のセットに助けを求める。経脈の組み合わせも考える。そういう時に,奥の手として,現今の各派のマニュアルを役立てれば良い。
さらには病所を上下で挟み撃ちという発想も有りそうだから,原穴と背輸,合穴と膏、肓の原,なんて組み合わせも,標準仕様なんじゃなかろうか。
頚周りの「天」を冠する穴は,体表の組織のつらなりを考えた場合のものかな。でも,そうとは限らない症状の記載も有りそうだよね。大牖五部なんてのも有ることだし。
そして,残りの随伴症状は,適当に,『霊枢』諸篇から拾い上げたか,あるいは誰かから教わったかの特効穴でも使って,必要に応じてパッパッって済ませる。この標治法は,いわゆる経絡治療の場合とさして差は無かろう。
ただ,当然ながら,『霊枢』流では本治法のみ,標治法のみというのが,むしろ普通だったんだろう。

その他にたぶん,経筋治療がより有効,という世界は有りそう。

針灸治療というのは,本来,もっともっと自由な世界なんじゃないか。

2012年8月10日 星期五

後來因故未能整理

『段逸山挙要医古文』に,1980~90年代における中医古籍整理叢書について,『霊枢』だけは「後來因故未能整理」だという。『中医文献雑誌』を来源とする2008年10月15日付の「新中国中医文献整理研究工作簡要回顧」(編輯は張燦玾先生)というWEB上の記事において,「1982年1月16日に衛生部は,中医古籍に対する整理出版を行うことを決定した」と述べたうえで,次のような記事が有る。
同年4月21日から27日にかけて,衛生部中医司は瀋陽において中医古籍整理出版座談会を開催した。会議の主要な内容は,中医古籍整理出版規劃中の第一批12種の古籍の整理出版についてであった。会議に出席したのはそれぞれの任務の責任を負うもの,整理を行うものと関係する分野の専門家、学者、編輯を合わせて40人ほどであった。12種の古医籍は今回の整理の重点的な課題であり,もとの6種の古医籍を基礎として,6種を追加したものである。それには『素問』(天津中医学院郭靄春主編)、『霊枢経』(遼寧省中医研究院史常永主編)、『脈経』(広州中医学院沈炎南主編)、『難経』(上海中医学院金寿山、吴文鼎、凌耀星主編)、『黄帝内経太素』(成都中医学院李克光主編)、『内経知要』(主編者が決まらないうちに,専門家の審議によって,その学術的価値が他の11種ほどでないとして,取り消された)が含まれる。
このうちの『霊枢経』のみが出版されてない。『霊枢経』の校注と語訳を主編するはずであった史常永先生が,任務を全う出来なかった理由は分からない。史常永先生が重篤な病に罹られたというのが,一番まっとうな理由かと思われるが,疑わしいことも有る。中医古籍整理出版規劃では,校注と語訳の編写にあたるべきものと,その審定にあたるべきものの,二つのグループが組織された。そして,1991年発行の『脈経』,1992年発行の『素問』,1996年発行の『甲乙経』の審定人の中に,史常永先生は名を連ねている。審定会議に参加できる状態であったのなら,どうして編写の仕事をしなかったのか。それに主編のもとには(弟子たちで?)組織された人員がいたはずである。主編の体調不良くらいは,そのものたちがカバーすべきではないのか。やはり,編写と審定の間は,ぎくしゃくしていたのでは無いかと思う。例えば,郭靄春主編の『黄帝内経素問校注』、『黄帝内経素問語訳』と郭靄春編著の『黄帝内経素問校注語訳』とでは,重要な疑難箇所で採用された説に相違が有る。おそらく,編写の独善を咎めて変更をせまる審定会議という場面も少なくなかったのだろう。で,『霊枢経』においてついに決裂した。だから,段逸山先生も「後來因故未能整理」という微妙な書き方をし,『霊枢』が未整理のままに終わった理由の公式な発表もついに無いと思う。


かつて別のBLOGに書いた記事ですが,「岐黄会はなそうかい」のBLOGで,話題にしたので,ここにもやや整理したものを載せておきます。

あれから

あれからもう満十二年です。
ということはもう十三回忌のとしですか。
少し遅れて偲ぶ会が予定されたけれど,その日は先約が有って,初めて会う人たちの前で『内経』に関する講釈をします。
考えてみれば,それも一種の先生孝行ということですね。

仲間のうち若手の中には,面識の有った人はすでに珍しいらしい。
年を取ったわけだ。
先生の年に近づいて,越えるまではなんとも落ち着かない。
超えたらもっと落ち着かないのかも知れないけれど……。

皆さんに,宜しくお願いします。

2012年8月9日 星期四

秘伝書の行方

『史記』倉公伝に関して,もう一つの難問を忘れていました。
詔問と応対の後,淳于意が陽慶から受けた黄帝、扁鵲の脈書などは,どうなったのかね。没収されたとか,暗に要求されて献上したとかいう記事は無いけれど,状況的に考えるとそのまま保ちつづけられたか,いささか心配になります。
それに『漢書』芸文志・方技略を見ると,『黄帝内経』『黄帝外経』とか『扁鵲内経』『扁鵲外経』とか『白氏内経』『白氏外経』とか,これは,それまで有った書籍を整理した上で付けられた新たな書名でしょう。その材料として,「黄帝、扁鵲之脈書」なんてのは,相応しいのではないか。
何を言っているのかと言うと,もし原物はともかく,写しでも献上していれば,我々も『素問』『霊枢』を通して,淳于意が陽慶から受けた秘伝書を,見ている可能性が有るのかな,と。

何処かに誰かの考察は無いですか。

2012年8月5日 星期日

緹縈

あれ,テイイだっけ?テイイだっけ?
というわけで,『漢辞海』を引いてみました。
すると┃緹┃の字の下にちゃんと,【緹縈】が載ってました。
それは良いけど……。
【緹縈】テイエイ  人名  前漢の孝女。父に代わって受刑を願い出た。
あんまりだと思いません?出典の表示も無い。
出典を〈史・扁鵲倉公列伝〉とするか,〈史・孝文本紀〉とするか,どちらが良いかは微妙だけど。

2012年8月4日 星期六

史記倉公伝考注 その1

試行本
    太倉公者,齊①太倉長②,臨菑③人也,姓淳于氏④,名意。少而喜醫方術⑤。高后八年⑥,更受師同郡元里⑦公乘➇陽慶⑨。慶年七十餘,無子⑩,使意盡去其故方,更悉以禁方予之⑪,傳黄帝、扁鵲之脈書⑫,五色診病⑬,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精⑭。受之三年,爲人治病,決死生多驗⑮。然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病⑯,病家多怨之者⑰。
【考注】
①齊:高帝六年(前201),庶長子肥を立てて斉王とする。恵帝六年,薨じて悼恵王と諡する。翌年,子の襄が立つ。文帝元年,薨じて哀王と諡する。翌年,子の則が立つ。文帝十五年,薨じて文王と諡する。翌年四月,叔父の将閭が立つ。もとの陽虚侯であり,後の景帝三年に勃発した,呉楚七国の乱の際に自殺して,孝王と諡された。
②太倉長:孝文本紀では太倉令とする。太倉長は,医学と関わりの有るお役目なのか?問対の最後のあたりで,淳于意から医を学んだものの一人として,菑川王の「太倉馬長」馮信というものの名が挙がっている。太倉を各地から集まってきた物資を保管するところと解すれば,薬用に供されるものもその内に含まれるはずで,そこそこの関係は有ったのかも知れない。馮信が学んだのは主に薬に関することである。詔問では,淳于意はすでに「故太倉長」である。ではどの斉王のときなのか?悼恵王から哀王,さらに文王,一応はいずれも可能であろうが,淳于意の年齢からして,悼恵王の下での重職はいささか難しかろう。もし,文王の太倉長であったとしたら,その治療をしなかった罪は,なおさら重いと言わざるを得ない。文帝の十六年に立った孝王の太倉長が,問対の時にはすでに「故太倉長」というのも,やや難しかろう。
③臨菑:淳于意の前の師匠は菑川の公孫光であり,後の師匠は公孫光の紹介による臨菑にいた陽慶である。無論,臨菑は大都市であり,また陽慶は医を業としていたわけではないから,臨菑の人であり医術修行中の淳于意が,臨菑にいた陽慶を知らなくても別に不思議はない。臨菑は斉の首都,菑川はその東南東で,そう遠くはない。
④姓淳于氏:春秋の頃の山東地方に淳于国というのが有った。菑川のさらに東南東にあたる。有名な人に,先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠がいる。秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越も,斉の出身である。後の時代には,三国時代に袁紹に仕えた武将に淳于瓊というのがいる。また鑑真和尚の俗姓も淳于である。
⑤少而喜醫方術:最初の師匠が誰かは記録が無い。後に,菑川の公孫光に師事し,その後にさらに臨菑の陽慶を紹介されている。問対の資料のはじめには,「意少時喜醫藥,醫藥方,試之多不驗者」とある。ところが,後の陽慶に師事するに至る経緯の説明の中では,「意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗精良」という。最初の修行の段階でも,そこそこの治療実績は有ったらしい。これは認識の違いだろう。そこそこの効果は有ったから,小成に甘んじるならば,一番はじめの師匠だけでも満足できたのだろうが,菑川の公孫光が古方を伝えていると聞けば,出かけていって師事し,その方が尽きたところでは,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年(180BC)のことである。陽慶に死なれた後で,吏の拘束をおそれて斉国内をさまよっている間にも,数師に事えて研鑽を怠らなかった。
⑥高后八年:高后は,高帝の后,呂雉のこと。高帝が崩御した後,政治の実権を握っていた。問対の中の「至高后八年」に注して,黄善夫本をはじめとする諸本には「徐廣曰:意年二十六」あるが,清の同治年間に,張文虎の校訂を経て刊行された金陵書局本では,「徐廣曰:意年三十六」に作る。瀧川亀次郎『史記會注考證』が,これを底本とする。中華人民共和国成立後,1959年から中華書局より刊行された,二十四史標点本シリーズの第一弾のとしての『史記』も,これを底本としている。
⑦同郡元里:同郡は,臨菑郡だろう。元里までは分からない。
➇公乘:中国の秦漢代には,一般庶民にも爵位が与えられていた。ただし,下から八位の公乗が,庶民および下級の吏に与えられる上限であった。したがって,公乗といえば,民間ではかなりの有力者であった。
⑨陽慶:問対の最後のほうには,楊中倩として登場する。
⑩無子:淳于意が弟子入りした時,陽慶はすでに七十余歳で,本文では「無子」というが,問対の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。話を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
⑪使意盡去其故方,更悉以禁方予之:問対の資料の中では,陽慶を紹介してくれた前の師匠である公孫光も,「是吾年少所受妙方也,悉與公,毋以教人」と言い,淳于意は「死敢妄傳人」と応えている。
⑫黄帝、扁鵲之脈書:どこまでが書名なのか,いささか迷うが,ここまでは間違い無い。黄帝は君主が田姓に替わってから斉で重んじられ,扁鵲も東方の人で,最後は妬まれて秦の侍医に暗殺されたことになっている。つまり,東方の系統の医学である。
⑬五色診病:五行説に拠って診断するということだろう。あるいは顔面の色を見るのかも知れない。
⑭知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精:人の生死を知り,嫌疑を決し,治す可きを定め,薬論に及んで,甚だ精し。
⑮受之三年,爲人治病,決死生多驗:対問の資料の冒頭付近では,「受讀解驗之,可一年所,明歳即驗之有驗,然尚未精也,要事之三年所,即嘗已為人治診病決死生,有驗精良」という。師匠が死んだから,三年で修行を終えることになってしまったとも言えるが,ほぼ学び得たのをみて,安心して死んだとも言えそうである。
⑯左右行游諸侯,不以家爲家:対問の資料中には,「臣意家貧,欲為人治病,誠恐吏以除拘臣意也,故移名左右,不脩家生,行游國中」とある。一般の患者を断って,貴人に取り入ったという気配は無い。
⑰不爲人治病,病家多怨之者:対問の資料中には,師の陽慶のこととして,「慶家富,善為醫,不肯爲人治病」と言う。それで誰かに怨まれたとは言わない。

司馬遷には,話を分かりやすくする為に,あるいは感動的にする為に,資料を脚色する傾向は無いか?

2012年8月1日 星期三

9月の読書会

9月2日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の 多目的室です。