2015年5月27日 星期三

お猿のシャーロット

「王女と同じ名前をサルにつけるのは極めて失礼だ。英王室や英国民は,表面上はともかく決して快く思わないだろう。」
「私もまったく同感です。」

 ああ,なんたる無知。戦前の日本で「ヒロヒト」ははばかられたろうが,あるいは禁ぜられたかもしれないが,英国にはエリザベスという庶民女性なんていやというほどいるだろう。女主人とメイドが同じエリザベスだったら,さすがになにか対策するんだろうか。
 これはファーストネームについての感性の違いであって,結局は互いに分からないことなんだろう。だから,MSもgoogleも,東洋人にファーストネームとファミリーネームを登録させて,四角い画面のむこうから,マサオとかハナコとか「親しげな振り」で呼びかけて,わたしのような旧弊なものをギョッとさせる。MSやgoogleが偉いのは,あるいは横柄なのは,日本人がちょっとやそっと苦情をいったって,変更する気配はまるで無いことだ。
 中国では,皇帝の諱の文字は避けたり,最後の一筆をわざと書かなかったりした。半島の北では,未だに最高権力者と同名のもの(本当は初代、二代目を尊敬するあまり,あやかったんじゃ無いか)は改名をせまられているとか。似たようなことが欧米で有ったかね。欧米のことには無知なんで……。
「日本人の気配りの美徳どこへ。」彼らは,お節介に,とまどっているんじゃないか。
「相手の立場に立つことが必要。」だからさあ,相手はあなたとは感性も立場も違うの。

 さて,シャーロットなんてのは,英国でも,たぶん,そんなに多い名前じゃないんじゃないか。今年はあやかって急に増えるんじゃないか。シャーロットという子犬も子猫も,爆発的に増えるんじゃないか。

2015年5月25日 星期一

菊千代

講談社の『本』に連載を書いている御仁,賢いのか物知りなのか。それはまあ,わたしなんぞより遙かに賢くて物知りに違いないのだが,ときどき何だこれは,は有る。
黒澤明監督の映画「七人の侍」で,無学な百姓あがりの乱暴者三船敏郎がどこかで拾ってきた系図を叩いて「これが俺だ」と言うと他の者が「ほうお前は菊千代か」と大笑いする所がある。当人も菊千代が子供の名前だとはわかるので間の悪い顔をする。
それは違うだろう。幼名は菊千代でも竹千代でも,今は別のごつい通称になっていて不思議はない。菊千代どのも,系図を落っことした時分には,まともに勝四郎とか,おもおもしく勘兵衛とか名乗っていたのかも知れない,そう書き足してあったかも知れない。大笑いは,優美な「菊千代」と,百姓あがりの「乱暴者」の違和感のせいだろう。つまり,拾ったにすぎないのも,文字が読めない無学なのも見え見えだという滑稽。

2015年5月12日 星期二

戴霖

明藍格鈔本『甲乙経』の巻末に:
乾隆辛卯休寧戴霖校 書内倘有當正之處因無善本靈樞姑俟異日乃定
とある。これについて,篠原孝市氏は,東洋医学研究会が1981年に影印出版したときの解説中に,「休寧の人で乾隆36(1771)年に跋を書いた戴霖について,筆者は何ら知るところがない」と言われている。それからもう何十年もたっているのであるから,すでに何か発表が有るのではないかとは思うけれど,取り敢えずgoogleで検索してもはかばかしい結果を得なかったので,贅言しておきたい。
この話はひょっとしたら,昔すでに誰かにしたかもしれないが,はっきりしないし,まして書いた記憶も無いので,……まあ取り敢えず。
中国清代の考証学の大物に,戴震というのがいますよね。生没年は1724~1777年。この人も安徽省休寧の出身なんです。で同じく雨冠の諱を持っている。としたら,戴震と戴霖は兄弟もしくは同族で同世代の人なんじゃないか。戴震は1777年に亡くなっているんだから,1771年に明鈔本『甲乙経』に跋を書いた戴霖おそらくは弟分なのだろう。
李開という人の『戴震評伝』が,2009年6月に南京大学出版社から出ているらしいから,これをみればはっきりするんじゃないかと思うけど,持ってません。

2015年5月11日 星期一

これはいったい何なんだ

中華医史雑誌2015年1月第45巻第1期ページ35の左段の上部
  《素問・示從容論》:“黃帝燕坐,臨觀八極,正八風之氣,而問雷公曰:臣請誦‘脈經上下篇’甚衆多矣,別異比類,猶未能以十全,又安足以明之……吾問子窈冥,子言‘上下篇’以對,何也?夫脾虚浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎,此皆工之所時亂也”
 (參考文獻として 王冰,黃帝内經素問注[M],北京:人民衛生出版社,1979  もとは簡體字,今,繁體字で示す。)
謹んで按ずるに,「臨觀八極,正八風之氣,而問雷公曰:」は示従容論の文では無く,陰陽類論である。示従容論ではこの部分は,「召雷公而問之曰:汝受術誦書者,若能覽觀雜學,及於比類,通合道理,爲余言子所長。五藏六府,膽胃大小腸脾胞膀胱。腦髄涕唾,哭泣悲哀,水所從行。此皆人之所生,治之過失,子務明之,可以十全。即不能知,爲世所怨。雷公曰:」のはず。そもそも「而問雷公曰」は「しこうして雷公に問うて曰く」だろう。誰が問うのか。黄帝だろう。黄帝が「臣は請う」云々などというのか。

2015年5月2日 星期六

呪術と科学と

魔法と呪術はどう違うのか。
魔法は,願えばかなう。かなうかかなわぬかは熱意の問題,あるいは聞き届ける側の都合。したがって信仰につらなり,宗教の母である。
呪術はそれとは異なる。しかるべき準備をして,しかるべく所作をしなければ,期待したような結果にはならない。そこで,科学はその孫である。
呪術と科学の差は何か。その準備と所作と結果の関係に説明を求める。しつこく問い詰める。「だってセンセイがいったんだもん」というわけにはいかない。
同じ準備をし,同じ所作をしたのに,結果が異なったとしたら,何処かに見落としが有ったからだ。あるいは,そもそも因果関係の筋道が思い違いだったかも知れない。理路のたてなおしにアタフタしているのを,けなされるのはお門違いだ。
現代科学は因果関係が明確でなければ切り捨てる,としたら,似非科学的である。阿呆かと思う。原因と結果はそこに在る。両者の関係を証明できないでいるだけじゃないか,しようともしないだけじゃないのか。

魔法とか呪術とか宗教とか科学とか,どこかで誰かから聞いたことばを使っているけれど,ここでは定義しなおして使っている,つもり。

魔女と魔術師といういいかたもする。魔女は生まれつき。魔術師には,修行してなる。魔女に生まれつかなかったら,魔術師を目指すしかない。そのカリキュラムを呪術的というか,科学的といおうか。それはまあ,魔術師になれるような人には,幾分なりとも魔女的な要素がある。それを,その人に非ざれば……,という。魔女的な要素とは何か。曰く言いがたし。「非科学的」だわなあ。

2015年4月3日 星期五

扁鵲仰天歎曰

夫子之爲方也,若以管窺天,以郄視文。越人之爲方也,不待切脉、望色、聽聲、寫形,言病之所在,聞病之陽論得其陰,聞病之陰論得其陽,病應見於大表,不出千里,決者至衆,不可曲止也。子以吾言爲不誠,試入診太子,嘗聞其耳鳴而鼻張,循其兩股以至於陰,當尚温也。
扁鵲はまだ病人に会っていないのであるから,「大表」を体表と解釈するのは誤っている,という異見が出た。

必ずしも然らず。
「病應見於大表,不出千里」を,病めばその反応は表に出るのであって,別に千里の外に求めることはない,言い換えれば天にお伺いを立てるべきものではない,と解することが出来れば,それが体表に現れると言ってもそれほどとがめることはない。扁鵲は病人に会っていなくても,予測として言えるのだと,誇っているのだと思う。
あんたの方術は管をもって天を窺い,隙間からその様子を視ようとするようなものだ。わたしの方術となると,切脈、望色、聴声、写形なんぞにたよらず とも,病の所在をいうことができる。病の陽を聞けば陰は察しがつくし,病の陰を聞けば陽は察しがつく。病の反応は大表(≒体表)に現れてそこにあるのであって,別に千里の外に求めずとも,判断材料はきわめて多いし,限界も無い。信じられないというのなら, 太子の様子をもう一度診なおしてみろ,耳が鳴り鼻が張っているはずで,太股の内を撫であげればまだ暖かいはずだ。
診るべきものは,深奥に秘められているわけでも,天の彼方に掲げられているわけでもない。

2015年4月2日 星期四

2015年3月27日 星期五

當→当

酒がかなりはいってからの,しかも話の端のことながら,「當の当用漢字を当とするのは,日本で勝手に作った形だ」,と聞いたような気がする。
醒めてつらつら考えるに,これは草書の楷書化(こんな言い方が有るのかどうかも知らない)じゃないか。
「ひらがなは草書の変化だ」とも,聞いたことが有るような気もする。で,ひらがなの形には,もとはいろいろ有ったらしい。に相当するものには,太・田・多・佗・唾・堂・當などが有る。このうち今の「た」になったのは,直接的にはやはり「太」だろう。
で,「當」の草書は下部をもう一歩整理すれば確かに「当」に近くなる。の音を表現するひらがなとして「當」の草書に見慣れていれば,「當」と書くべきときに,略して「当」に近い形を書くことは有ったろう。それを当用漢字として採用した。

ひらがなが関わっているとなると,「日本で勝手に作った形」,なのかも知れない。でも,草書の楷書化に過ぎないとなれば,中華の民だってやるんじゃないかと思って,『宋元以来俗字譜』を見たら,あっさり載ってました。通俗小説、目連記、金瓶梅、嶺南逸事。

2015年3月11日 星期三

俗字 ですらない

……さらに宋の宋祁『宋景文公筆記』巻中にいう後魏北齊の里俗に偽字「文子で學と為す」の話と,孫奕『履斎示児篇』巻二二に引く『字譜総論訛字』に「學」を俗に「斈」と書くという記載とを関連づければ,「斈」は確かに長きにわたって行われた俗字である(流行已久的俗字)。『改併四聲篇海』に引く『俗字背篇』に「𡕕」(夂の下に文)に作り,また「𢻯」(攵の下に文)に作るということについては,筆者は孤陋寡聞にして,未だそのような用例をみたことが無く,その信頼性は大いに疑わしい。……
(張涌泉『敦煌俗字研究導論』より)

2015年3月9日 星期一

郎知本『正名要錄』

敦煌文書の中には,いくつもの俗字書が有って,その一つを郎知本『正名要錄』という。ところが『舊唐書』郎餘令傳というものが有って,餘令の從父に同じ經歷の知年というのが登場する。また,『日本國見在書目』には,『正名要錄』は司馬知羊の撰ということになっている。郎知年はかつて司馬であったらしいから,これは官名を誤って姓氏としたのだろう。羊は本か年の誤り。では本なのか年なのか。よくわからないが,本の異体字に夲が有り,年の異体字に秊が有る。そりゃ間違うことも有るはなあ。あとは,傳抄された史書を信じるか,当時の俗文書を信じるか。