甲乙經卷之六・四時賊風邪氣大論第五
問曰 夫子之所言皆病人所自知也其無遇邪風又無怵惕之志卒然而病其故何也唯有鬼神之事乎
黄帝問曰今夫子之所言 病人所自知 其無遇邪風又無怵惕之志卒然而病其故何也
對曰此亦有故邪留而未發也因而志有所惡及有所慕血氣内亂兩氣相薄其所從來者微視之不見聽之不聞 故似鬼神
歧伯對曰此亦有故邪留而未發也因而志有所惡及有所慕血氣内亂兩氣相薄其所從來者微視之不見聽之不聞也
■は医統本,■は明抄本。明抄本には「鬼神」はいない?!
2018年10月18日 星期四
内は五蔵に属し 外は肢節を絡う
『霊枢』衛気第五十二の「其氣內于五藏,而外絡肢節」を,「其の気内は五蔵に于(ゆ)きて,外は肢節を絡う」と訓んでいるのをみて,びっくりした。びっくりして『漢辞海』を引いてみたら,「于」の語義として最初に載っていたのは,「赴く,ゆ-く」でした。なるほどねえ,辞書はこまめに引くべきだ,と感心した。
でもね。『太素』経脈標本でも「其氣內入于五藏,而外絡支節」だけど,楊上善注には「六府穀氣,化爲血氣,內即入于五藏,資其血氣,外則行於分肉、經絡,支節也」でした。それにね,『霊枢』海論に,「夫十二經脈者,內屬于府藏,外絡于支節」とある。『太素』四海合も同じ。
つまり,「絡」の下に「于」字を脱しているに過ぎないかもしれない。
でもね。『太素』経脈標本でも「其氣內入于五藏,而外絡支節」だけど,楊上善注には「六府穀氣,化爲血氣,內即入于五藏,資其血氣,外則行於分肉、經絡,支節也」でした。それにね,『霊枢』海論に,「夫十二經脈者,內屬于府藏,外絡于支節」とある。『太素』四海合も同じ。
つまり,「絡」の下に「于」字を脱しているに過ぎないかもしれない。
不合格!…?…!
医学部入試で女子が不利な扱いを受けていると騒いでいるけれど,何のこと?
誤解を恐れずに,というか,どのみち誤解は免れないと思うから言っちゃうけど,教育機関がどういう人材を育てたいと思うか,その為にはどういう者を受け入れるかは,基本的には自由じゃないの?
一律に女子を減点するなんぞという稚拙をやるからいけないのであって,要するに,欲する人材をより高く評価できるよう,入試問題(面接も含めて)を最大限に工夫すべきなんじゃないの?
そのようにしっかりとした問題をつくって,試験をしてみたら,女子の合格者のほうが多かったりして……。そのときあらためて,大学側に「おまえら馬鹿か?!」と言えばいいじゃない。
むかし,鍼灸師養成学校を受験したとき,一校からは合格通知をもらえなかったような気がする。どのみち第一希望じゃ無かったからどうでもいいようなものだけど(何という学校だったかも忘れた),ムッとはした。でもね,未だにまともな鍼灸師になれない(臨床家という意味ですよ)でいる現状をかえりみると,あの学校が一番正しい判断をしていたんじゃないかと思う。
誤解を恐れずに,というか,どのみち誤解は免れないと思うから言っちゃうけど,教育機関がどういう人材を育てたいと思うか,その為にはどういう者を受け入れるかは,基本的には自由じゃないの?
一律に女子を減点するなんぞという稚拙をやるからいけないのであって,要するに,欲する人材をより高く評価できるよう,入試問題(面接も含めて)を最大限に工夫すべきなんじゃないの?
そのようにしっかりとした問題をつくって,試験をしてみたら,女子の合格者のほうが多かったりして……。そのときあらためて,大学側に「おまえら馬鹿か?!」と言えばいいじゃない。
むかし,鍼灸師養成学校を受験したとき,一校からは合格通知をもらえなかったような気がする。どのみち第一希望じゃ無かったからどうでもいいようなものだけど(何という学校だったかも忘れた),ムッとはした。でもね,未だにまともな鍼灸師になれない(臨床家という意味ですよ)でいる現状をかえりみると,あの学校が一番正しい判断をしていたんじゃないかと思う。
2018年9月24日 星期一
販らんかな
明・藍格抄本の音釈の増注と重複記載は政府の再々校定によるもので,商業出版の販書目的などではなく,教育効果が目的なのだろう,といわれる。しかし。実のところ,対象の文字を誤り,奇妙な音釈をし,さらには同じ文字について,同じ一紙の中で重複記載を繰り返す。これでは抄者も頭注を施した戴霖も,さらには政府に校定を命ぜられた学者も,相当に阿呆である。
巻3の中管のところに『九巻』に云うとして,「鶻〔音許又音曷〕骭〔音旱又音干〕」とある。鶻は𩩲の誤り。しかも音は曷はいいとして,許は分からない。骭はさらに変だ。骬の誤りだが,音釈を施した人は,完全に骭と思っている。でなければ,音旱は無かろう。
少しだけ前に,鳩尾のところにも,実は同じ音釈が有る。ただし「𩩲〔音許干音旱又/曷骨音干〕」である。誰が書き足したんだか,𩩲の右下に小さく骭字が有るが,全く意味不明。
で,少しく頭を悩まして,音釈の二行目を1字ずつ下げるべきであることに気付いた。つまり3字目は左行の骨と右行の干を合わせて骭であり,その音釈として音旱又音干がある。そして上の𩩲に対する音釈の音許又音曷のうち又と音の二字を書き漏らしている。
抄者は間違えている。頭注を施した戴霖は,抄者の誤りを理解してない。そして,もとの校定をした学者は骬を骭を信じて疑わない。
本当かね。本屋が販らんかなで努力して,ぼろを出したんと違うか。
巻3の中管のところに『九巻』に云うとして,「鶻〔音許又音曷〕骭〔音旱又音干〕」とある。鶻は𩩲の誤り。しかも音は曷はいいとして,許は分からない。骭はさらに変だ。骬の誤りだが,音釈を施した人は,完全に骭と思っている。でなければ,音旱は無かろう。
少しだけ前に,鳩尾のところにも,実は同じ音釈が有る。ただし「𩩲〔音許干音旱又/曷骨音干〕」である。誰が書き足したんだか,𩩲の右下に小さく骭字が有るが,全く意味不明。
で,少しく頭を悩まして,音釈の二行目を1字ずつ下げるべきであることに気付いた。つまり3字目は左行の骨と右行の干を合わせて骭であり,その音釈として音旱又音干がある。そして上の𩩲に対する音釈の音許又音曷のうち又と音の二字を書き漏らしている。
抄者は間違えている。頭注を施した戴霖は,抄者の誤りを理解してない。そして,もとの校定をした学者は骬を骭を信じて疑わない。
本当かね。本屋が販らんかなで努力して,ぼろを出したんと違うか。
2018年9月17日 星期一
年寄=功を積んで高い位置にあるもの
わしは老人なんじゃぞ と おごそかに宣う
しかし 老人のかたわれは おおむね老人なんだろう
だれがだれを世話するのか
早い者勝ち か
しかし はやく耄碌したものが 先に逝くとは限らない
先に要介護になったかたわれよりも
介護していたものが先になる 別に珍しくもない
老人のかたわれ でなくて よりわかい世代のお役目
ということもある
きっと はやくお終いにならないかなあ と思われる
アカの他人に 業務として世話されたほうが マシかもしれぬ
しかし 老人のかたわれは おおむね老人なんだろう
だれがだれを世話するのか
早い者勝ち か
しかし はやく耄碌したものが 先に逝くとは限らない
先に要介護になったかたわれよりも
介護していたものが先になる 別に珍しくもない
老人のかたわれ でなくて よりわかい世代のお役目
ということもある
きっと はやくお終いにならないかなあ と思われる
アカの他人に 業務として世話されたほうが マシかもしれぬ
2018年9月13日 星期四
藍格抄本『甲乙経』の抄者
明・藍格抄本『甲乙経』には,誤字・脱字が甚だしいと,さんざんな言われかたであるが,重要な資料であることに疑いはない。
頭注を書いたのは,巻末に手跋を加えた戴霖であるというのには,反対意見は無さそうである。文字が似ている,らしい。戴霖が戴震の族弟であることは,他にも気付いた人はいると思うが,わたしもどこかに書いた。
では,本文を手写したのは誰だろう。まさかと思うが,本文と頭注の文字,似てないこともない。戴霖が自分で書き写したものを,自分で校正したんじゃないよね。だから,まさかなんだけど,巻二の経脈根結第五の初めのところに,「頭注」として「出靈樞二卷根結篇」とあるんです。こういうのは藍格抄本のはじめのほうだけに有るんだけど,他では本文あつかいの大字なんです。ここだけが頭注……,じゃないかな。
もし,本文の書き手も戴霖だったら,かれが頭注で指摘しているあまりにも馬鹿馬鹿しい誤字・脱字は,断らずに訂正できると思うんだが。
頭注を書いたのは,巻末に手跋を加えた戴霖であるというのには,反対意見は無さそうである。文字が似ている,らしい。戴霖が戴震の族弟であることは,他にも気付いた人はいると思うが,わたしもどこかに書いた。
では,本文を手写したのは誰だろう。まさかと思うが,本文と頭注の文字,似てないこともない。戴霖が自分で書き写したものを,自分で校正したんじゃないよね。だから,まさかなんだけど,巻二の経脈根結第五の初めのところに,「頭注」として「出靈樞二卷根結篇」とあるんです。こういうのは藍格抄本のはじめのほうだけに有るんだけど,他では本文あつかいの大字なんです。ここだけが頭注……,じゃないかな。
もし,本文の書き手も戴霖だったら,かれが頭注で指摘しているあまりにも馬鹿馬鹿しい誤字・脱字は,断らずに訂正できると思うんだが。
2018年6月29日 星期五
2018年5月29日 星期二
2018年5月27日 星期日
假廉
万暦本『金瓶梅詞話』第十七回で,弾劾された蔡京の子分に賈廉というのがいて,第十八回では王廉になっている。そこで最近出た翻訳では王廉は賈廉に改められている。で,本筋の巻き添えになりそうな西門慶が巻き添えを逃れる話は,賄賂を使って,弾劾書の名を賈慶と書き換えてもらったことになっている。書き換えたとは言うけれど,公文書ですからね,筆を加えて違う字に見せた,というようなことのはずでしょう。多分,西门を賈と誤魔化した。まあ,校正ということの理屈にもあっているように思う。でもね,岩波文庫の訳では,第十七回の弾劾された子分の中には賈廉の名は無く,したがって第十八回の王廉はそのまま,そして西門慶は賈廉と書き換えられた。慶を廉にというのも,筆書きならまあ何とかなりそう。この間,岩波文庫には,底本は本当はどうで,こうこういう理由で削ったとか改めたという注記は無い。乱暴な話だね。でもね,話の段取りとしては,賈は假に通じて,「いつわりの廉潔」のほうが「いつわりの吉慶」より,余程皮肉がきいていると思う。あるいはまた主人公の姓を,なんでわざわざ西門豹などという硬骨漢から取ったのか,の秘密もここにあるのかも知れない。そういえば,『紅樓夢』の主人公も,賈姓でしたね。賈という姓は,中国でさほど珍しくもないと思うけれど,どうしても「いつわりの」ととられてしまうのかもね。諱を避ける,なんて理不尽な習慣も,漢語というものの性質上,用心するにこしたことはない,なのかも知れない。
2018年5月23日 星期三
2018年5月22日 星期二
うつうつとして
鬱病患者と鬱傾向の人というのがいるのだろう,と。
私自身は鬱傾向であって,鬱病ではないとは思っている。
でも,インターネット上でチェックしたら,中程度警告。
しっかり「すぐに精神科に相談」を勧められた。
そんなにヤバイところにチェックをいれたつもりはない。
どうしてそうした警告になったかも,理解できてない。
普段は,もう少しヤバく落ち込んでいる。
でも,わたしはお医者さんにはかかれない。
薬は信用してない。私には救いにはならない,と思う。
鬱病患者にもなれない,そういう種類の鬱傾向です。
多分,自殺願望は無い。
それが救いになるとも思ってない。今のところ。
多分,他の人からみても,あんたなんて鬱病じゃない!
ということだと思う。
私自身は鬱傾向であって,鬱病ではないとは思っている。
でも,インターネット上でチェックしたら,中程度警告。
しっかり「すぐに精神科に相談」を勧められた。
そんなにヤバイところにチェックをいれたつもりはない。
どうしてそうした警告になったかも,理解できてない。
普段は,もう少しヤバく落ち込んでいる。
でも,わたしはお医者さんにはかかれない。
薬は信用してない。私には救いにはならない,と思う。
鬱病患者にもなれない,そういう種類の鬱傾向です。
多分,自殺願望は無い。
それが救いになるとも思ってない。今のところ。
多分,他の人からみても,あんたなんて鬱病じゃない!
ということだと思う。
2018年5月15日 星期二
專か尃か
『太素』巻2 調食に:
其大氣之■而不行者,積於胷中,命曰氣海,出於肺,循喉嚨,故呼則出,吸則入。
とある。■は木偏に専。先ず木偏は俗字で手偏と紛れるのは普通のことだから気にしない。で,ここは手偏のほうが相応しいと考える。そもそも,外の箇所では手偏も木偏も才に近い形になることが多い。
問題は声符の方で,普通には専は專の常用漢字体ということになろうが,実際には尃の右肩の一点などは,俗字では書き落とされることも多いので,手偏に専の形は,搏でハクで うつ・とる なのか,あるいは摶でタンで あつまる なのか,にわかには決定しがたい。
どの字に解すべきかとなると,先ず他の書物ではどうなっているかをみる,ということを思いつく。『太素』の調食のこの部分は『霊枢』五味にある。ところが問題の字は,我らが明刊無名氏本では搏だが,明趙府居敬堂本では摶である。
次に考えるべきは,注では何をいっているか。幸いなことに,楊上善は「謗各反,聚也」と音も義も注記しておいてくれた。謗はハウ(歴史的仮名遣い)で各はカクだから謗各反はハク。ところが「聚」という義は,代表的な古字書などには搏にも摶にも見つからない。ただ偉い先生がたの考証をみると,摶は團に通じ,團に聚の義はあるわけだから,ここは摶と判断すべきだとなる。楊上善は釈音を間違えたことになるが,まあ他でも度々間違えているわけだから……。それに原鈔の問題の字の右下にアツと書かれているらしい。これはおそらくはフリガナだろうからアツまる,聚まると,鈔者も読むつもり,読ませるつもりだったのだろう。
ここはひとまず解決がついたとして,他にも声符専に書かれた字をどう決定すべきかが不安である。『太素』と『素問』『霊枢』を対比してみると,薄あるいは揣になっていることが多い。薄ならハクで搏という関係はまあいいらしい。義は迫とか拍とかにつらなっていく。
しかし揣はどうなのか。対応関係は摶とであろうが,音はスイあるいはシである。でいろいろ調べてみると,『漢語大字典』クラスの字書になると,別にタンに近い音も載っている。(小型の辞典のなかでは『新字源』に載る。)しかも古くは團と通じて用いられたらしい。つまり揣には同形異字の,摶と異体字関係にあるものが有るらしい。傍証としては『説文』に「𨄔(足專):脚腸(ふくらはぎ)也,或作腨」と載る。形符の足と肉は同類,声符の専と耑は同音もしくは近音,で互いに取り替えて用いるというのは異体字発生の常道であった。
一応:
別本で揣 or 形右上に点なし or 音タン or 義あつまる なら 摶?!
別本で薄 or 形右上に点あり or 音ハク or 義うつ とる なら 搏?!
という関係は成立するらしいが,ことが俗の情勢にあることだから,形・音・義のどこにでもウッカリミスは発生する。結局のところは深く読み込んで判断するしか無い。たとえば長鍼の身は『霊枢』によって薄(うすい?)とすべきか,『太素』によって團(まるい?)とすべきか。真腎の脈は『太素』によって揣でタンで聚とみるべきか。いや楊上善は音は初委反(シ)というし。『素問』『甲乙経』によって薄を取って,したがって迫ってくるような脈と考えようか。楊上善が義は動也というのも,薄→迫・拍のほうが相応しいかも知れない。楊上善の釈音はここでも間違っている。いや,そもそも搏を摶と見間違って,しかも揣と書き間違えたか。なやましい。
というようなわけで,『太素』の新新校正などというお遊びは四回目で,流石に止めると言ったけれど,そうは行かないかも知れない。一年後,二年後,四年後だったから,次はきっと八年後だろうが。喜寿の祝いの引き出物に予定しておこう。
其大氣之■而不行者,積於胷中,命曰氣海,出於肺,循喉嚨,故呼則出,吸則入。
とある。■は木偏に専。先ず木偏は俗字で手偏と紛れるのは普通のことだから気にしない。で,ここは手偏のほうが相応しいと考える。そもそも,外の箇所では手偏も木偏も才に近い形になることが多い。
問題は声符の方で,普通には専は專の常用漢字体ということになろうが,実際には尃の右肩の一点などは,俗字では書き落とされることも多いので,手偏に専の形は,搏でハクで うつ・とる なのか,あるいは摶でタンで あつまる なのか,にわかには決定しがたい。
どの字に解すべきかとなると,先ず他の書物ではどうなっているかをみる,ということを思いつく。『太素』の調食のこの部分は『霊枢』五味にある。ところが問題の字は,我らが明刊無名氏本では搏だが,明趙府居敬堂本では摶である。
次に考えるべきは,注では何をいっているか。幸いなことに,楊上善は「謗各反,聚也」と音も義も注記しておいてくれた。謗はハウ(歴史的仮名遣い)で各はカクだから謗各反はハク。ところが「聚」という義は,代表的な古字書などには搏にも摶にも見つからない。ただ偉い先生がたの考証をみると,摶は團に通じ,團に聚の義はあるわけだから,ここは摶と判断すべきだとなる。楊上善は釈音を間違えたことになるが,まあ他でも度々間違えているわけだから……。それに原鈔の問題の字の右下にアツと書かれているらしい。これはおそらくはフリガナだろうからアツまる,聚まると,鈔者も読むつもり,読ませるつもりだったのだろう。
ここはひとまず解決がついたとして,他にも声符専に書かれた字をどう決定すべきかが不安である。『太素』と『素問』『霊枢』を対比してみると,薄あるいは揣になっていることが多い。薄ならハクで搏という関係はまあいいらしい。義は迫とか拍とかにつらなっていく。
しかし揣はどうなのか。対応関係は摶とであろうが,音はスイあるいはシである。でいろいろ調べてみると,『漢語大字典』クラスの字書になると,別にタンに近い音も載っている。(小型の辞典のなかでは『新字源』に載る。)しかも古くは團と通じて用いられたらしい。つまり揣には同形異字の,摶と異体字関係にあるものが有るらしい。傍証としては『説文』に「𨄔(足專):脚腸(ふくらはぎ)也,或作腨」と載る。形符の足と肉は同類,声符の専と耑は同音もしくは近音,で互いに取り替えて用いるというのは異体字発生の常道であった。
一応:
別本で揣 or 形右上に点なし or 音タン or 義あつまる なら 摶?!
別本で薄 or 形右上に点あり or 音ハク or 義うつ とる なら 搏?!
という関係は成立するらしいが,ことが俗の情勢にあることだから,形・音・義のどこにでもウッカリミスは発生する。結局のところは深く読み込んで判断するしか無い。たとえば長鍼の身は『霊枢』によって薄(うすい?)とすべきか,『太素』によって團(まるい?)とすべきか。真腎の脈は『太素』によって揣でタンで聚とみるべきか。いや楊上善は音は初委反(シ)というし。『素問』『甲乙経』によって薄を取って,したがって迫ってくるような脈と考えようか。楊上善が義は動也というのも,薄→迫・拍のほうが相応しいかも知れない。楊上善の釈音はここでも間違っている。いや,そもそも搏を摶と見間違って,しかも揣と書き間違えたか。なやましい。
というようなわけで,『太素』の新新校正などというお遊びは四回目で,流石に止めると言ったけれど,そうは行かないかも知れない。一年後,二年後,四年後だったから,次はきっと八年後だろうが。喜寿の祝いの引き出物に予定しておこう。
2018年4月9日 星期一
2018年3月25日 星期日
2018年3月24日 星期六
2018年3月20日 星期二
九竅為水 注之於器
『素問』陰陽応象大論「九竅為水注之気」について,『素問記聞』に「因竊意之,気必器」といい,『素問考』には「或曰:気,疑応作器」という。そしてどちらでも,気と器は同音であるとしたうえで,『外台』引「刪繁論」では「九竅為水注之於気」(『素問考』では「於」は剥落の模写)だという。「九竅は水を為し,これを器に注ぐ」というつもりではないか。
もつとも,『素問記聞』も『素問考』も,さらに『五行大義』に引かれた本経を引いて,そちらのほうを評価している。ところが『素問識』はまたまた再考して,やっぱり『類経』の説のほうが穏当だという。ころころ変わる。やはり難問なんだろうなあ。
なんにせよ,藍泉斎蔵書『素問考』の前言に,「将『愚案』二字改為『因竊意之』,示為於己意,実為掩善也」などと言うのは気が知れぬ。愚案は『類経』の案語であって(愚は張介賓の自遜),そこには気は器,などとはいってない。『素問考』「或曰:気,疑応作器」の前に,ここまでが『類経』の説という意味で,「以上張氏」と明示してあるのに,なんとしたことか。
もつとも,『素問記聞』も『素問考』も,さらに『五行大義』に引かれた本経を引いて,そちらのほうを評価している。ところが『素問識』はまたまた再考して,やっぱり『類経』の説のほうが穏当だという。ころころ変わる。やはり難問なんだろうなあ。
なんにせよ,藍泉斎蔵書『素問考』の前言に,「将『愚案』二字改為『因竊意之』,示為於己意,実為掩善也」などと言うのは気が知れぬ。愚案は『類経』の案語であって(愚は張介賓の自遜),そこには気は器,などとはいってない。『素問考』「或曰:気,疑応作器」の前に,ここまでが『類経』の説という意味で,「以上張氏」と明示してあるのに,なんとしたことか。
2018年3月17日 星期六
鼇城公観(金窪七朗)とは何者か
本当に、知られざる偉人なのか?
『素問記聞』と『素問考』
桂山先生口授の『素問記聞』と鼇城公観輯の『素問考』がある。『素問記聞』は、多紀元簡が『素問』を講義したときの内容を、弟子が記録したものということになっている。つまり多紀元簡が『素問』を研究しはじめた初期の水準を示すものであって、『素問識』に至る道程を窺わせる貴重な資料と考えられている。現在は、武田の杏雨書屋に蔵される。『素問考』の由来は、本当のところあまり明かではないが、一本がやはり杏雨書屋に蔵され、多紀元堅の『素問紹識』や森立之の『素問攷注』に一定の影響を与えたと評価されている。
両書の内容はそっくりである。そこで、今回の話は一言でいえば、両者の関係は如何なるものか。
多紀元簡が剽窃したのか
中国の学苑出版社から、北京中医薬大学の銭超塵教授が主となって校正したものが、最近になって「藍泉斎蔵書」などと称して出ている。その前言に、「『素問記聞』は丹波元簡(多紀元簡のこと)が親しく撰したものではなく、金窪七朗(鼇城公観のこと)の『素問考』を過録したものである」といわれる。
鼇城公観輯『素問考』→ 多紀元簡の講義 → 桂山先生口授『素問記聞』
つまり、鼇城公観のノート『素問考』を借用して、多紀元簡が『素問』の講義をし、それを事情をよく知らない受講生が書きとめて、先生から聞いた話として『素問記聞』ができた。
はたしてそうだろうか。確実に言えるのは、そっくりということまでである。どちらかがどちらかの引き写しなんだろうとは、まあ言えるかと思う。では、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観のものを写したのか、無名な鼇城公観が有名な多紀元簡のものを写したのか。どちらの可能性も有るだろうが、常識的にいえば、有名な者が無名な者の為事を取った(奪った)というためには、逆の場合よりもさらに多くの証拠を要する。教授は、鼇城公観という埋もれた大学者がいて、多紀元簡の江戸医学館における『素問』講義は、その鼇城公観輯の『素問考』を無断借用して為されたに過ぎないと言いたいようである。しかし、そこまで言うに足るだけの証拠が有るのか。
藍泉斎蔵書の前言から窺えば、その主張の重要な論拠は、以下の二点であろうと考える。
①『素問考』首頁下に「鼇城公観輯」と署名があるから、鼇城公観の為事に違いない。
② 多紀元簡の説を引くのに、桂山先生でなく、桂山である。これは、朋輩(同輩)として扱っているからだ。
証拠不十分
先ず、署名が有ることを重視しすぎるのは誤りである。そもそも「輯」は、書き手が全責任を負う作品であることを意味しない。
著とか輯とか、記とか考とか、いかなる違いが有るのか。江戸時代の日本人の常識としてはどうであったかを見るために、『和本入門』(誠心堂書店店主・橋口侯之介 平凡社 二〇〇五年)を開いてみた。
「記」は、書きとめる、書きとどめる、ありのまま記す。だから、『素問記聞』という書名は、口授された内容をそのまま記録したということだろう。
「輯」は、集とほぼ同じで、「集」は、文章や詩歌などの材料を集めてまとめることだが、「輯」にはもう少し編集に近く系統立てるという意味がある。もつとも、『素問考』の場合は、末尾には「庚戌之夏集之」とあるから、巻頭の署名の下だから「集」より「輯」という字を選んだだけとみていい。「考」は、他者の文に自分の意見を加えるときにもいう。してみると『素問考』という書名の由来は判る。鼇城公観としては、多紀元簡の『素問』講義の内容の他に集めて併せたものが有り、いくらかは自分の意見も添えたつもりなのであろう。確かに、『素問考』には『素問記聞』に無い按語が有り、そのうちのいくらかは鼇城公観のものかも知れない。他から集めて併せた内容の主なものには、張介賓の『類経』注、馬蒔の『素問註証発微』がある。
次いで、桂山先生と「先生」をつけないと無礼なのか。それほどでも無いと思う。号で呼ぶこと自体がそれなりの尊敬の現れである。
また、弟子でなく同輩、さらには先輩であっても、多紀元簡の『素問』講義を聴くということは有っただろう。講義をしたのが、『素問識』の序にいうところの、「庚戌の冬に侍医に擢でられ、公私に鞅掌、呼吸に遑なく、遂にこれを橱中に投じた」のより以前とすれば、三十代前半のころで、当時としては中年であったにせよ、未だ雲の上の人というわけではなかったはず。だから、聴講者であっても、必ずしも桂山先生と書いたりしなくてよい立場のものもいただろう。
またそもそも、当時の講義はどのように為されていたのか。聴きながらノートを取るなどということは可能だったのか。特殊な才人はともかくとして(小川環樹の中国語学講義を、尾崎雄二郎がそっくりそのまま筆録したという本が、臨川書店から出ている)、一般には難しかろう。講義用ノートを書き写させてもらったのではないか。その場合、ノートが多紀元簡がおのれの為に準備したものであれば、当然ながら「桂山先生云」などとは書かなかった。ただ「按」とか「云」とか、あるいは「桂山云」とだけ記した。それは確かに、『素問記聞』の場合のように、抄者が「先生」を加えるほうが鄭重だろうし、『素問考』のようではいささか粗忽なのかも知れない。しかし、声を荒げて叱責すべきほどのこととは思わない。
多紀元簡が自分で書いたノートがあったはず、ということのついでに言っておくが、現存する『素問記聞』の筆者の教養レベルはお話しにならない。誤りだらけである。そしてその誤りの大部分は形誤である。聴講した内容を速記した場合とは誤りかたが違う。
故に、二点の証拠は、いずれも確たるものとは言い難い。
継承関係の異見
書名と署名の意義から推測すれば、継承関係のあらましはむしろ次のようなものではないか。
多紀元簡の講義ノート → 桂山先生口授『素問記聞』
↘
鼇城公観輯『素問考』
「類注」・「註証」etc. ↗
多紀元簡は『素問』の講義の為に、何らかのノートは用意したはず。そのノートは恐らくは受講生、あるいは少なくとも受講生の一部には書き写すことを許されていた。次々と転写されて、抄本はいくつかできていたのではないか。その内の一つは(あまりできのよくない受講生の書き写した)桂山先生口授『素問記聞』として残った。別の一つは、鼇城公観の手に入り、彼は省略されたりして不足と感じた『類経』注や『素問註証発微』を、ながながと書き足した。鼇城公観には、そうしたことができる程度の教養と資料の持ち合わせがあった。
その他の差異をどう判断するか
さて、『素問考』と『素問記聞』の内容の違いには、見方を変えればむしろ私の考える筋道を支持するものが有る。
『素問記聞』上古天真論の「故美食數然也 也猶邪」について、この条は誤りが甚だしく、『素問考』では3条であるものを合成して1条としたものであり、あまつさえ厳重な抄誤が有るのは、『素問記聞』が『素問考』から出たものである確証といわれるが、どうしてそんな理屈になるのか。単に『素問記聞』の書き手の粗忽さを露呈するに過ぎなかろう。
金匱真言論「故冬不按蹻」条について、『医学綱目』が「按蹻」は衍文かどうかをいうのに対する元簡の按語が、『素問考』にはあるのに、『素問記聞』にないのも、なんの不思議もない。『素問記聞』も『素問考』も同一のノートからの抄写であるとは認めているはずであるが、元のノートが改変と増補を繰り返す過程で写されているはずである。原著者の理解は日々に進んでいたと想像される。それが反映されていても何の不思議もない。一方にあって、他方にない内容があるのも、むしろ当たり前である。そもそも『素問考』は、『医学綱目』が衍文説なのかどうかの根本を誤っている。「桂山云:『医学綱目』以按蹻二字為衍文者、妄也。其言有衍文錯簡者、可也。」(按蹻の二字が衍文だというのは思い違いである。どこかに衍文もしくは錯簡が有るという意見なら、まあ良い。)『素問識』ではきちんとした引用をしている。「楼氏『綱目』云:按蹻二字非衍文。其上下必有脱簡。即冬不蔵精者、春必温病之義也。」(按蹻の二字は衍文ではない。ただその上下に何かを脱しているはずだ、云々。)これなどはむしろ、『素問記聞』は『素問考』を書き写したものではない証拠といえそうである。『素問考』の緝者は、多紀元簡の講義を聴きまちがえて記録した可能性がある。
また、陰陽離合論の厥陰に関する項、どちらにも「漢書・貨殖志:天下之財産、焉得不厥足。師古註:厥足、盡竭也」とある。この貨殖志は食貨志の、厥足は蹷の誤りである。これらは(多紀元簡の『素問』研究の集大成)『素問識』では修正してある。ところがもう一つ、『漢書』を調べると、師古註は応劭註「傾竭也」の誤り。やはり、最初の多紀元簡のノートの誤りを、『素問識』として整理したときに正したと考えたい。貨殖志を食貨志と訂正した。蹷はもともと誤ってなかった可能性も高い。誰の註であるかの誤りはそのまま。訂正が中途半端なのは、常識によって処理したからで、それはもともと(多紀元簡)自身の按語だからであろう。もし他人の為事から取ったのであって、短い引用の中に二つもの誤りを見出せば、残りの部分についても直接『漢書』を紐解いて確認しそうなものではないか。応劭註を師古註と誤るなどということは、どうしておこったのか。『康煕字典』ではない。誤りのもととなった書物を突き止めれば、『素問識』成書の秘密にまた一歩近づけそうなんだが。(以前、井上雅文先生から、『素問識』はすごいけれど、『康煕字典』が有ればかなりのところまではできる、神業というほどのことではないらしい、と聞いた。伊沢棠軒『素問釈義』は幕末の戦に従軍中に書かれた。どうしてそんなことができたのか。実は『素問識』と『素問紹識』が有れば、その他の資料は行李一つにも入ったかも知れない。別に牛に負わせて汗をかかせるには及ばない。)
またあるいは、陰陽離合論の「陰摶陽別謂之有子」の条、『素問考』に桂山曰と有りながら、『素問記聞』に無いのは、『素問記聞』が『素問考』から出る確証といわれるが、何のことやらさっぱり合点がいかない。『素問考』は上に類註を引いたから、ここからは張介賓の考えではなく多紀元簡の説と、はっきりさせたいから「桂山曰」を途中に必要としただけのこと。紛れそうにないところでは、ほとんど誰の按語であるかは記すことはない。上古天真論「分別四時」の按語でも、『素問記聞』はわざわざ桂山曰などとはしない。無くともわかるはず。
『素問記聞』も『素問考』も、同系のノートを元にしていると仮定して、どちらがより後期のものに拠っているかははっきりしない。ただ、『素問考』には汚れか剥落の痕を模写したと思しい箇所が有る。陰陽応象大論「九竅為水注之気」の条に、『外台』十六引刪繁論に云うとして「九竅為水注之○気」とある。『素問記聞』ではキチンと「九竅為水注之於気」になっているから、『素問考』抄写の対象となる講義ノートのほうがより後期のもの(汚れてしまってからのもの、あるいは墨で塗りつぶされた後のもの)だからと考えられる。もし、『素問考』のほうが、多紀元簡の講義ノートの源であったと仮定すれば、『素問考』の集め手と書き手は別人(つまり書き手は鼇城公観ではない)で、しかも現存のものは、汚れてしまった後のものからの書き写しということになりはせぬか。鼇城公観とその弟子もしくは朋輩によるサークルのごときものの存在が必要になりはせぬか。もしそうだとしたら、鼇城公観の周囲にも、そこそこ事情を知る人がいたはずで、しかも江戸の学界には半世紀もの間、誰もその書物の存在を知るものがなかった、ひょっこり「偉大な先学の為事」として出てきた、というのは異様ではないか。
喜多村直寛の酷評
どうも学界は、多紀元簡に対して厳しすぎるように思う。これには、喜多村直寛の言い分からくる悪印象の影響が有るのだろう。『黄帝内経素問講義』の跋文の中に、多紀元簡の『素問識』は偉大な著作には違いないが、先人の為事を剽窃したところが有ると批判されている。すなわち目黒道琢に十の七を、稲葉通達に十の二を負うている、その他にも芳邨恂益などというのもいる。こんなことを言われるのは、多紀元簡の身から出た錆(他にも人格に問題が有るとする評判が残っている)でもあろうが、いささか酷に過ぎるとも思える。『素問識』の業績のほとんどが、目黒道琢や稲葉通達に由来する、明記しないのはけしからんと言うのであれば、どうして『黄帝内経素問講義』に、「劉(多紀元簡のこと、多紀氏は後漢霊帝の後裔を称している)云」が多いのか。とても十に一どころではない。喜多村直寛の主張するところに叶うには、おおもとを確かめて、片端から「驪(目黒道琢のこと)云」や「稲(稲葉通達のこと)云」に改めるべきだったのではないのか。我々としては、平心につとめ、初めから色眼鏡で見るのは控えるべきだろう。
校正本の粗忽
名高い多紀元簡の為事にだって、それは粗忽は有るだろう。例えば、『素問記聞』も『素問考』も、張志聡を張思聡と書き間違えるのは共通している。こういうのは多紀元簡のノートにすでにあったことかもしれない。
藍泉斎蔵書にだって粗忽は有る。前言に取り上げられていることのいくつかは勇み足である。例えば『素問記聞』の抄者のレベルをあげつらって、「侖」は「訛字である、当に論に作るべし」というのには同意しがたい。なるほど見慣れない文字ではあるが、これは古字もしくは略字というべきものである。『漢語大字典』にも、「侖」は「論」と同じとちゃんと載っている。
この他にもいろいろなことを言われているが、藍泉斎蔵書自体それほどの精校とはいえないし、継承関係の証拠とされるものもさして確かとは思えない。かつて、『霊枢識』が『素問識』より劣るのは、『素問考』に相当するものが無かったからだと言われたことも有るが、それは主観的な感想であって、論拠には為しがたい。藍泉斎蔵書には、さすがにこんなのは載せてはいない。
はっきりしているのはそっくりということ。どちらがどちらを剽窃したかを確言できる証拠は、未だ見つからない。だから、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観の為事を奪ったなどと、誹謗し、常識を逆転させるに足るだけの証拠は無い、と無名な粗忽者が有名な学者に抵抗するだけのことである。
鼇城は稲葉氏の居城
ただ、教授の、鼇城公観のほうが先輩であるという意見を、後押ししかねない些細な情報なら、実は一つ見つけてある。
「鼇城公観 後改姓名為金窪七朗」とあるのを、七朗の字は公観、号は鼇城と解するのには疑問が有る。当たり前なら、鼇城という姓を金窪に、公観という名を七朗に改めたという意味の注記だろう。
確かに鼇城というのは日本人の苗字(姓と氏と苗字の違い、などというややこしい話は省く)としては異様であるが、豊後臼杵の城の異名に亀城というのがある。さらに巨きな神話的な亀ということで、鼇城という場合もあった。出身地を苗字代わりとするのは、むしろ伝統的である。してみると、豊後臼杵の(藩主)稲葉氏の出のものが、鼇城という戯れの苗字を称する可能性はある。(亀城という異名を持つ城は、全国にいくつも有るが、確かに鼇城と呼ばれたものは、他には知らない。)思い起こせば、『素問研』の稲葉通達は、豊後臼杵の人らしい。確かに稲葉氏の通字の「通」を用いている。稲葉通達の係累が、稲葉の一族とあからさまに名乗っては拙い場面で、鼇城公観と戯称するのはそう突飛、不可思議ではない。医家としての稲葉一族の端くれであれば、家学の発露としての『素問考』を集する能力くらいは期待できそうである。得体の知れない者が、得体の知れない学識者でありうるのかという疑問は払拭できる。
あるいはまた、鼇城というのは署名における、ひそかな矜恃の表現に過ぎなかったかも知れない。それで、誰にも存在を知られなかった。時がたってさすがに鼇城公観という異様な名では通らなくなって、金窪七朗となった。あるいは世間にはもともとそう称していたのかも知れない。稲葉氏を名乗らなかったのは、そちらの方面にもはばかるところが有って、母方の氏でも採ったのかも知れない。ただ、そもそも金窪某としても、受講生仲間に記憶されるほどの存在ではなかったらしい。
だから、結局のところ鼇城公観とは何者か、よくわからない。桂山先生の聴講生中のオッチョコチョイか、あるいは稲葉通達の係累のはぐれものか。
『素問記聞』と『素問考』
桂山先生口授の『素問記聞』と鼇城公観輯の『素問考』がある。『素問記聞』は、多紀元簡が『素問』を講義したときの内容を、弟子が記録したものということになっている。つまり多紀元簡が『素問』を研究しはじめた初期の水準を示すものであって、『素問識』に至る道程を窺わせる貴重な資料と考えられている。現在は、武田の杏雨書屋に蔵される。『素問考』の由来は、本当のところあまり明かではないが、一本がやはり杏雨書屋に蔵され、多紀元堅の『素問紹識』や森立之の『素問攷注』に一定の影響を与えたと評価されている。
両書の内容はそっくりである。そこで、今回の話は一言でいえば、両者の関係は如何なるものか。
多紀元簡が剽窃したのか
中国の学苑出版社から、北京中医薬大学の銭超塵教授が主となって校正したものが、最近になって「藍泉斎蔵書」などと称して出ている。その前言に、「『素問記聞』は丹波元簡(多紀元簡のこと)が親しく撰したものではなく、金窪七朗(鼇城公観のこと)の『素問考』を過録したものである」といわれる。
鼇城公観輯『素問考』→ 多紀元簡の講義 → 桂山先生口授『素問記聞』
つまり、鼇城公観のノート『素問考』を借用して、多紀元簡が『素問』の講義をし、それを事情をよく知らない受講生が書きとめて、先生から聞いた話として『素問記聞』ができた。
はたしてそうだろうか。確実に言えるのは、そっくりということまでである。どちらかがどちらかの引き写しなんだろうとは、まあ言えるかと思う。では、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観のものを写したのか、無名な鼇城公観が有名な多紀元簡のものを写したのか。どちらの可能性も有るだろうが、常識的にいえば、有名な者が無名な者の為事を取った(奪った)というためには、逆の場合よりもさらに多くの証拠を要する。教授は、鼇城公観という埋もれた大学者がいて、多紀元簡の江戸医学館における『素問』講義は、その鼇城公観輯の『素問考』を無断借用して為されたに過ぎないと言いたいようである。しかし、そこまで言うに足るだけの証拠が有るのか。
藍泉斎蔵書の前言から窺えば、その主張の重要な論拠は、以下の二点であろうと考える。
①『素問考』首頁下に「鼇城公観輯」と署名があるから、鼇城公観の為事に違いない。
② 多紀元簡の説を引くのに、桂山先生でなく、桂山である。これは、朋輩(同輩)として扱っているからだ。
証拠不十分
先ず、署名が有ることを重視しすぎるのは誤りである。そもそも「輯」は、書き手が全責任を負う作品であることを意味しない。
著とか輯とか、記とか考とか、いかなる違いが有るのか。江戸時代の日本人の常識としてはどうであったかを見るために、『和本入門』(誠心堂書店店主・橋口侯之介 平凡社 二〇〇五年)を開いてみた。
「記」は、書きとめる、書きとどめる、ありのまま記す。だから、『素問記聞』という書名は、口授された内容をそのまま記録したということだろう。
「輯」は、集とほぼ同じで、「集」は、文章や詩歌などの材料を集めてまとめることだが、「輯」にはもう少し編集に近く系統立てるという意味がある。もつとも、『素問考』の場合は、末尾には「庚戌之夏集之」とあるから、巻頭の署名の下だから「集」より「輯」という字を選んだだけとみていい。「考」は、他者の文に自分の意見を加えるときにもいう。してみると『素問考』という書名の由来は判る。鼇城公観としては、多紀元簡の『素問』講義の内容の他に集めて併せたものが有り、いくらかは自分の意見も添えたつもりなのであろう。確かに、『素問考』には『素問記聞』に無い按語が有り、そのうちのいくらかは鼇城公観のものかも知れない。他から集めて併せた内容の主なものには、張介賓の『類経』注、馬蒔の『素問註証発微』がある。
次いで、桂山先生と「先生」をつけないと無礼なのか。それほどでも無いと思う。号で呼ぶこと自体がそれなりの尊敬の現れである。
また、弟子でなく同輩、さらには先輩であっても、多紀元簡の『素問』講義を聴くということは有っただろう。講義をしたのが、『素問識』の序にいうところの、「庚戌の冬に侍医に擢でられ、公私に鞅掌、呼吸に遑なく、遂にこれを橱中に投じた」のより以前とすれば、三十代前半のころで、当時としては中年であったにせよ、未だ雲の上の人というわけではなかったはず。だから、聴講者であっても、必ずしも桂山先生と書いたりしなくてよい立場のものもいただろう。
またそもそも、当時の講義はどのように為されていたのか。聴きながらノートを取るなどということは可能だったのか。特殊な才人はともかくとして(小川環樹の中国語学講義を、尾崎雄二郎がそっくりそのまま筆録したという本が、臨川書店から出ている)、一般には難しかろう。講義用ノートを書き写させてもらったのではないか。その場合、ノートが多紀元簡がおのれの為に準備したものであれば、当然ながら「桂山先生云」などとは書かなかった。ただ「按」とか「云」とか、あるいは「桂山云」とだけ記した。それは確かに、『素問記聞』の場合のように、抄者が「先生」を加えるほうが鄭重だろうし、『素問考』のようではいささか粗忽なのかも知れない。しかし、声を荒げて叱責すべきほどのこととは思わない。
多紀元簡が自分で書いたノートがあったはず、ということのついでに言っておくが、現存する『素問記聞』の筆者の教養レベルはお話しにならない。誤りだらけである。そしてその誤りの大部分は形誤である。聴講した内容を速記した場合とは誤りかたが違う。
故に、二点の証拠は、いずれも確たるものとは言い難い。
継承関係の異見
書名と署名の意義から推測すれば、継承関係のあらましはむしろ次のようなものではないか。
多紀元簡の講義ノート → 桂山先生口授『素問記聞』
↘
鼇城公観輯『素問考』
「類注」・「註証」etc. ↗
多紀元簡は『素問』の講義の為に、何らかのノートは用意したはず。そのノートは恐らくは受講生、あるいは少なくとも受講生の一部には書き写すことを許されていた。次々と転写されて、抄本はいくつかできていたのではないか。その内の一つは(あまりできのよくない受講生の書き写した)桂山先生口授『素問記聞』として残った。別の一つは、鼇城公観の手に入り、彼は省略されたりして不足と感じた『類経』注や『素問註証発微』を、ながながと書き足した。鼇城公観には、そうしたことができる程度の教養と資料の持ち合わせがあった。
その他の差異をどう判断するか
さて、『素問考』と『素問記聞』の内容の違いには、見方を変えればむしろ私の考える筋道を支持するものが有る。
『素問記聞』上古天真論の「故美食數然也 也猶邪」について、この条は誤りが甚だしく、『素問考』では3条であるものを合成して1条としたものであり、あまつさえ厳重な抄誤が有るのは、『素問記聞』が『素問考』から出たものである確証といわれるが、どうしてそんな理屈になるのか。単に『素問記聞』の書き手の粗忽さを露呈するに過ぎなかろう。
金匱真言論「故冬不按蹻」条について、『医学綱目』が「按蹻」は衍文かどうかをいうのに対する元簡の按語が、『素問考』にはあるのに、『素問記聞』にないのも、なんの不思議もない。『素問記聞』も『素問考』も同一のノートからの抄写であるとは認めているはずであるが、元のノートが改変と増補を繰り返す過程で写されているはずである。原著者の理解は日々に進んでいたと想像される。それが反映されていても何の不思議もない。一方にあって、他方にない内容があるのも、むしろ当たり前である。そもそも『素問考』は、『医学綱目』が衍文説なのかどうかの根本を誤っている。「桂山云:『医学綱目』以按蹻二字為衍文者、妄也。其言有衍文錯簡者、可也。」(按蹻の二字が衍文だというのは思い違いである。どこかに衍文もしくは錯簡が有るという意見なら、まあ良い。)『素問識』ではきちんとした引用をしている。「楼氏『綱目』云:按蹻二字非衍文。其上下必有脱簡。即冬不蔵精者、春必温病之義也。」(按蹻の二字は衍文ではない。ただその上下に何かを脱しているはずだ、云々。)これなどはむしろ、『素問記聞』は『素問考』を書き写したものではない証拠といえそうである。『素問考』の緝者は、多紀元簡の講義を聴きまちがえて記録した可能性がある。
また、陰陽離合論の厥陰に関する項、どちらにも「漢書・貨殖志:天下之財産、焉得不厥足。師古註:厥足、盡竭也」とある。この貨殖志は食貨志の、厥足は蹷の誤りである。これらは(多紀元簡の『素問』研究の集大成)『素問識』では修正してある。ところがもう一つ、『漢書』を調べると、師古註は応劭註「傾竭也」の誤り。やはり、最初の多紀元簡のノートの誤りを、『素問識』として整理したときに正したと考えたい。貨殖志を食貨志と訂正した。蹷はもともと誤ってなかった可能性も高い。誰の註であるかの誤りはそのまま。訂正が中途半端なのは、常識によって処理したからで、それはもともと(多紀元簡)自身の按語だからであろう。もし他人の為事から取ったのであって、短い引用の中に二つもの誤りを見出せば、残りの部分についても直接『漢書』を紐解いて確認しそうなものではないか。応劭註を師古註と誤るなどということは、どうしておこったのか。『康煕字典』ではない。誤りのもととなった書物を突き止めれば、『素問識』成書の秘密にまた一歩近づけそうなんだが。(以前、井上雅文先生から、『素問識』はすごいけれど、『康煕字典』が有ればかなりのところまではできる、神業というほどのことではないらしい、と聞いた。伊沢棠軒『素問釈義』は幕末の戦に従軍中に書かれた。どうしてそんなことができたのか。実は『素問識』と『素問紹識』が有れば、その他の資料は行李一つにも入ったかも知れない。別に牛に負わせて汗をかかせるには及ばない。)
またあるいは、陰陽離合論の「陰摶陽別謂之有子」の条、『素問考』に桂山曰と有りながら、『素問記聞』に無いのは、『素問記聞』が『素問考』から出る確証といわれるが、何のことやらさっぱり合点がいかない。『素問考』は上に類註を引いたから、ここからは張介賓の考えではなく多紀元簡の説と、はっきりさせたいから「桂山曰」を途中に必要としただけのこと。紛れそうにないところでは、ほとんど誰の按語であるかは記すことはない。上古天真論「分別四時」の按語でも、『素問記聞』はわざわざ桂山曰などとはしない。無くともわかるはず。
『素問記聞』も『素問考』も、同系のノートを元にしていると仮定して、どちらがより後期のものに拠っているかははっきりしない。ただ、『素問考』には汚れか剥落の痕を模写したと思しい箇所が有る。陰陽応象大論「九竅為水注之気」の条に、『外台』十六引刪繁論に云うとして「九竅為水注之○気」とある。『素問記聞』ではキチンと「九竅為水注之於気」になっているから、『素問考』抄写の対象となる講義ノートのほうがより後期のもの(汚れてしまってからのもの、あるいは墨で塗りつぶされた後のもの)だからと考えられる。もし、『素問考』のほうが、多紀元簡の講義ノートの源であったと仮定すれば、『素問考』の集め手と書き手は別人(つまり書き手は鼇城公観ではない)で、しかも現存のものは、汚れてしまった後のものからの書き写しということになりはせぬか。鼇城公観とその弟子もしくは朋輩によるサークルのごときものの存在が必要になりはせぬか。もしそうだとしたら、鼇城公観の周囲にも、そこそこ事情を知る人がいたはずで、しかも江戸の学界には半世紀もの間、誰もその書物の存在を知るものがなかった、ひょっこり「偉大な先学の為事」として出てきた、というのは異様ではないか。
喜多村直寛の酷評
どうも学界は、多紀元簡に対して厳しすぎるように思う。これには、喜多村直寛の言い分からくる悪印象の影響が有るのだろう。『黄帝内経素問講義』の跋文の中に、多紀元簡の『素問識』は偉大な著作には違いないが、先人の為事を剽窃したところが有ると批判されている。すなわち目黒道琢に十の七を、稲葉通達に十の二を負うている、その他にも芳邨恂益などというのもいる。こんなことを言われるのは、多紀元簡の身から出た錆(他にも人格に問題が有るとする評判が残っている)でもあろうが、いささか酷に過ぎるとも思える。『素問識』の業績のほとんどが、目黒道琢や稲葉通達に由来する、明記しないのはけしからんと言うのであれば、どうして『黄帝内経素問講義』に、「劉(多紀元簡のこと、多紀氏は後漢霊帝の後裔を称している)云」が多いのか。とても十に一どころではない。喜多村直寛の主張するところに叶うには、おおもとを確かめて、片端から「驪(目黒道琢のこと)云」や「稲(稲葉通達のこと)云」に改めるべきだったのではないのか。我々としては、平心につとめ、初めから色眼鏡で見るのは控えるべきだろう。
校正本の粗忽
名高い多紀元簡の為事にだって、それは粗忽は有るだろう。例えば、『素問記聞』も『素問考』も、張志聡を張思聡と書き間違えるのは共通している。こういうのは多紀元簡のノートにすでにあったことかもしれない。
藍泉斎蔵書にだって粗忽は有る。前言に取り上げられていることのいくつかは勇み足である。例えば『素問記聞』の抄者のレベルをあげつらって、「侖」は「訛字である、当に論に作るべし」というのには同意しがたい。なるほど見慣れない文字ではあるが、これは古字もしくは略字というべきものである。『漢語大字典』にも、「侖」は「論」と同じとちゃんと載っている。
この他にもいろいろなことを言われているが、藍泉斎蔵書自体それほどの精校とはいえないし、継承関係の証拠とされるものもさして確かとは思えない。かつて、『霊枢識』が『素問識』より劣るのは、『素問考』に相当するものが無かったからだと言われたことも有るが、それは主観的な感想であって、論拠には為しがたい。藍泉斎蔵書には、さすがにこんなのは載せてはいない。
はっきりしているのはそっくりということ。どちらがどちらを剽窃したかを確言できる証拠は、未だ見つからない。だから、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観の為事を奪ったなどと、誹謗し、常識を逆転させるに足るだけの証拠は無い、と無名な粗忽者が有名な学者に抵抗するだけのことである。
鼇城は稲葉氏の居城
ただ、教授の、鼇城公観のほうが先輩であるという意見を、後押ししかねない些細な情報なら、実は一つ見つけてある。
「鼇城公観 後改姓名為金窪七朗」とあるのを、七朗の字は公観、号は鼇城と解するのには疑問が有る。当たり前なら、鼇城という姓を金窪に、公観という名を七朗に改めたという意味の注記だろう。
確かに鼇城というのは日本人の苗字(姓と氏と苗字の違い、などというややこしい話は省く)としては異様であるが、豊後臼杵の城の異名に亀城というのがある。さらに巨きな神話的な亀ということで、鼇城という場合もあった。出身地を苗字代わりとするのは、むしろ伝統的である。してみると、豊後臼杵の(藩主)稲葉氏の出のものが、鼇城という戯れの苗字を称する可能性はある。(亀城という異名を持つ城は、全国にいくつも有るが、確かに鼇城と呼ばれたものは、他には知らない。)思い起こせば、『素問研』の稲葉通達は、豊後臼杵の人らしい。確かに稲葉氏の通字の「通」を用いている。稲葉通達の係累が、稲葉の一族とあからさまに名乗っては拙い場面で、鼇城公観と戯称するのはそう突飛、不可思議ではない。医家としての稲葉一族の端くれであれば、家学の発露としての『素問考』を集する能力くらいは期待できそうである。得体の知れない者が、得体の知れない学識者でありうるのかという疑問は払拭できる。
あるいはまた、鼇城というのは署名における、ひそかな矜恃の表現に過ぎなかったかも知れない。それで、誰にも存在を知られなかった。時がたってさすがに鼇城公観という異様な名では通らなくなって、金窪七朗となった。あるいは世間にはもともとそう称していたのかも知れない。稲葉氏を名乗らなかったのは、そちらの方面にもはばかるところが有って、母方の氏でも採ったのかも知れない。ただ、そもそも金窪某としても、受講生仲間に記憶されるほどの存在ではなかったらしい。
だから、結局のところ鼇城公観とは何者か、よくわからない。桂山先生の聴講生中のオッチョコチョイか、あるいは稲葉通達の係累のはぐれものか。
(2014年1月12日 日本内経医学会 新年研究発表会)
『季刊内経』No.194 に公開済み
☞『内経』No.55 『素問考』について
2018年2月20日 星期二
之
錢超塵『内經語言研究』
(三〉與介詞“於”的用法相同,可不譯。例如《素問·宣明五氣篇》:“邪入於陽則狂,邪入於陰則痹,搏陽則為巔疾,搏陰則為瘖。陽入之陰則靜,陰出之陽則怒”。這段文章中的兩個“之”字都相當介詞“於”,也就是“陽入於陰則靜,陰出於陽則怒”。試看本段開頭兩句話“邪入於陽則狂,邪入於陰則痹”,句式完全相同,從比較中更可以看出“之”的用法與“於”相同。王冰對“之”的注釋是錯誤的。王冰云:“隨所之而為疾也。之,往也。”宋林億《新校正》指出:“《千金方》云:陽入於陰病靜,陰出於陽病怒。”林億引《千金方》,用意之一,在於說明“之”的用法與“於”相同。日本丹波元簡《素問識》說:“簡按:孫奕《示兒編》云:之字訓變,《左傳》:遇觀之否,言觀變為否也。蓋陽病在外則躁,若入而變陰刑靜,下文‘出之陽’意同。王訓之為往,似未妥。”按丹波氏批評王訓“不妥”是正確的,但他引用《示兒編》的解釋來訓釋此文“之”字也是不對的。“之”固然可以訓“變”,但用在這句話裏就不妥當。《內經》“之”的用法與“於”相同,例子也很少,但也應引起重視。
『太素』卷二十七・邪傳
五邪入:邪入於陽則爲狂;邪入於陰則爲血痹;邪入於陽,摶則爲癲疾;邪入於陰,摶則爲瘖;陽入之於陰,病靜;陰出之於陽,病喜怒。
楊上善注:熱氣入於陽脈,重陽故爲狂病。寒邪入於陰脈,重陰故爲血痹。陽邪入於陽脈,聚爲癲疾。陽邪入於陰脈,聚爲瘖不能言。陽邪入〇陰者,則爲病好靜。陰邪出之於陽,陽動故多生喜怒也。
之於の之は何なんだ!?
(三〉與介詞“於”的用法相同,可不譯。例如《素問·宣明五氣篇》:“邪入於陽則狂,邪入於陰則痹,搏陽則為巔疾,搏陰則為瘖。陽入之陰則靜,陰出之陽則怒”。這段文章中的兩個“之”字都相當介詞“於”,也就是“陽入於陰則靜,陰出於陽則怒”。試看本段開頭兩句話“邪入於陽則狂,邪入於陰則痹”,句式完全相同,從比較中更可以看出“之”的用法與“於”相同。王冰對“之”的注釋是錯誤的。王冰云:“隨所之而為疾也。之,往也。”宋林億《新校正》指出:“《千金方》云:陽入於陰病靜,陰出於陽病怒。”林億引《千金方》,用意之一,在於說明“之”的用法與“於”相同。日本丹波元簡《素問識》說:“簡按:孫奕《示兒編》云:之字訓變,《左傳》:遇觀之否,言觀變為否也。蓋陽病在外則躁,若入而變陰刑靜,下文‘出之陽’意同。王訓之為往,似未妥。”按丹波氏批評王訓“不妥”是正確的,但他引用《示兒編》的解釋來訓釋此文“之”字也是不對的。“之”固然可以訓“變”,但用在這句話裏就不妥當。《內經》“之”的用法與“於”相同,例子也很少,但也應引起重視。
『太素』卷二十七・邪傳
五邪入:邪入於陽則爲狂;邪入於陰則爲血痹;邪入於陽,摶則爲癲疾;邪入於陰,摶則爲瘖;陽入之於陰,病靜;陰出之於陽,病喜怒。
楊上善注:熱氣入於陽脈,重陽故爲狂病。寒邪入於陰脈,重陰故爲血痹。陽邪入於陽脈,聚爲癲疾。陽邪入於陰脈,聚爲瘖不能言。陽邪入〇陰者,則爲病好靜。陰邪出之於陽,陽動故多生喜怒也。
之於の之は何なんだ!?
2018年2月3日 星期六
『医古文基礎』≒異古文の奇想
復旦大学出版社の重修版(多分,人民衛生出版社の原著も同じ)のp.281に:
これはそもそも原著者のウッカリミスではないか。
この部分の翻訳,わたしが担当したことになっている。あんなふうに下訳したのかねえ,どこからか手直しがはいったのかねえ。未熟だったのか,それとも従順だったのか。本来,『医古文の基礎』は以下のようにすべきだったとおもう。
青くした文字については,次のページに:
(一)代词
3.作指示代词。多数是近指,可译为“这”、“这样”、“这种”。
若痎疟之病,未有不由饮食、劳役、瘴疠之气为之。(危亦林《世医得效方·集病说》)――像痎疟这种病,没有不是由于饮食不节或劳累过度或遭受瘴疠的疫气所造成的。(下点の文字は色を朱にして表現した。)
これはそもそも原著者のウッカリミスではないか。
この部分の翻訳,わたしが担当したことになっている。あんなふうに下訳したのかねえ,どこからか手直しがはいったのかねえ。未熟だったのか,それとも従順だったのか。本来,『医古文の基礎』は以下のようにすべきだったとおもう。
若痎瘧之病,未有不由飲食、労役、瘴癘之気為之。
(痎瘧の病の若きは、未だ飲食・労役・瘴癘の気に由らずして之を為すこと有らず。――危亦林《世医得效方·集病説》)(現代語訳は省略)
青くした文字については,次のページに:
(二)助词
1.用在定语和中心词之间,表示领属性的或修饰、限制的关系。这是最常见的用法。相当于现在汉语的“的”。
2018年1月21日 星期日
『太素』の人迎脈口診
なぜ人迎脈口診が気にかかるのか
なんだかうしろめたさがつきまとうから。『霊枢』は人迎脈口診というけれど、そして、『素問』は三部九候診というけれど、周囲を見渡しても、そんな脈診をやっているのは、いない。古典を宣揚しておきながらこれでは、それはまあ、うしろめたい。
もともとの三部九候診はすでに変質してしまって、通行本の『素問』にはない①。『霊枢』は、その根本理念からすれば、「五蔵に疾有れば、応は十二原に出る」の原穴診でいいはずなのに、人迎脈口診が導入された。
導入するには、それだけの必要があったのだとしても、『霊枢』経脈篇のものを標準として考えたのでは、間違いの素ではないか。経脈の連環には流注と病症があり、それは馬王堆の陰陽十一脈を祖型としているとして、治法とカンジンの脈診はどこからきたのか。『霊枢』禁服篇あたりからかと思われるが、そんなところから持ってくるべきではなかったろうし、持ってきかたも拙かった。経脈篇にとっては余計な付けたしであり、また、その人迎脈口診そのものが、おそらくは失敗作にすぎない。
もう少しマシな人迎脈口診はないものか
『太素』巻14の診候之一に、ずばり人迎脈口診という篇がある。
L48禁服(人迎/寸口)
L49五色(人迎/脈口)
L05根結(脈口)
S11五蔵別論(気口)
L09終始(人迎/脈口)(一部はS09六節蔵象論に類文)
S46病能論(人迎)
L74論疾診尺(人迎/寸口)②
『霊枢』を経典として尊重するのなら、これらの人迎寸口診のすべてを総合し採用すべきなのか。そんなことはなかろう。無理だし、ただ混乱を招くだけ。そもそも最初に、人迎脈口診なんてやっているものはないと、貶したのだし、経脈篇の人迎寸口診は、失敗作ではないかと、疑ったのであるから、むしろ『霊枢』の中に「本来の人迎脈口診」を探し求めるべきである。『素問』『霊枢』の中に完成されたものの如く記述される、言い換えれば行き詰まった方式に、拘ることはない。
『霊枢』禁服篇の人迎寸口診
経脈篇の人迎寸口診が禁服篇から持ってこられたとすると、禁服篇のもののほうが、まだしも発想の原点に近いことになる。もっとも、ここには実は二つの異なった脈診法がある。
一つは、人迎と寸口の脈動を比較して病処を判断する。「人迎大なること寸口より一倍なれば、病は足少陽に在り、一倍にして躁なれば、手少陽に在り」などと、陽を診る人迎と、陰を診る寸口の、どちらが何倍大きいかで、病が三陰三陽のどこに在るかを割り出す。
もう一つは、外を人迎に、中を寸口に分担させて、脈状によって病状を判断する。
人迎(外 寒)
|
寸口(中 食)
|
|
盛
|
熱
|
脹満,寒中,食不化
|
虚
|
寒
|
熱中,出縻,少気,溺色変
|
緊
|
痛痺
|
痺
|
代
|
乍甚乍間
|
乍痛乍止
|
人迎が盛んなのは、身内に陽気が盛んなのであって、したがって熱を病む。人迎が虚しているのは、身内の陽気が虚しているのであって、したがって寒を病む。寸口が盛んなのは、身内に陰気が盛んなのであって、したがって腸胃が冷えて、脹満し、食物が化さない。寸口が虚しているのは、身内の陰気が虚しているのであって、(それに陽気が乗じるから)したがって腸胃が熱して、便は粥状になり、気が乏しく、溺も色を変ずる。緊と代は、痛痺あるいは痺と乍甚乍間あるいは乍痛乍止で同じようなものだろうが、治法に微妙な違いがあるようだから、病症の実際にもいささかの差はあるのかもしれない。ただし、治法の記述には文字の疑問(衍?奪?)が多くて、どうにも解釈に自信がもてない。人迎(主外)の代になぜ飲薬なのか、なぜ寸口(主内)の緊にだけ施灸なのか。さらには、後文に「大数」といい、その内容も前文と微妙に異なるのか。そもそも、ここの病症と治法も、出自が異なるのではないか。なににせよ、治法は脈状に拠って判断した病状に対するもので、病処を判断する脈診とセットにして、L10経脈篇に持っていくべきものではなかった。
『霊枢』五色篇に与後をいう
脈口と人迎の脈状を診て病状を判断することは、五色篇にもあって、予後の見立てをいう。
脈(右)
|
人(左)
|
||||
滑小緊沈
|
病益甚
|
在中
|
気大緊浮
|
病益甚
|
在外
|
滑 浮
|
病日損③
|
滑 沈
|
病日損
|
||
滑 沈
|
病日進
|
在内
|
滑盛 浮
|
病日進
|
在外
|
脈の滑は新病か、そうでなくともまだまだ病勢は盛んであることを意味する④。それでも、脈口が浮、人迎が沈となれば、病は日に日に衰えるだろう。脈口が沈、人迎が浮となっては、ますますひどくなる。
次いで病因の大略として、気口(『太素』は脈口)の盛堅は食に傷なわれたのであり、人迎の盛堅は寒に傷なわれたのである。これはむしろ禁服篇の、寸口が中を主り、人迎が外を主るというはなしと呼応する。中から食に傷なわれると、腸胃が冷える。外から寒に傷なわれると、発熱する。もともと、診るのは、食なり寒なりに傷なわれての、その結果として身体の内に、何が起こっているかである。あたりまえのはなしだが、人迎が外を主るといっても、脈にふれることで、外界の気象を知ろうとするのではない。
脈診でわかることは、もともと病処(どこに)ではなく、病状(どんな)である。そうはいっても、他に方法、器具がないのであれば、病処も脈診で知りたい。
『霊枢』終始篇で「どこで」を診る
人迎で陽の量、脈口で陰の量を診て、その程度に拠って病処の三陰三陽を割り出そうとするのは、陰陽学説を利用した新たな工夫としては評価できる。それにしても、終始篇に見えるもののほうがより古いと思われる⑤。「人迎が一盛であれば。病は足少陽に在り、一盛にして躁であれば、病は手の少陽に在り」という。別に人迎と脈口を比較、検討するわけではない⑥。平常時との違いを感じ取る。
類文が、S09六節蔵象論にも見える。同じような人迎脈口診が、『素問』『霊枢』の双方にあるわけで、結局、これが(「どこで」を診る)古来の方法(工夫)ではなかったか。
脈口だけ診ていても人迎脈口診か
『霊枢』根結篇の、脈口を持して、何十動かに一代すれば、五蔵のうちいくつかに気が無いと判断するのは、人迎は診ないのに、『太素』の人迎脈口診に在る。なぜか。おそらくは、診者は人迎脈口診をやっているつもりなのであろう。ただ、今、問題にしているのは中(五蔵の気)であるから、中を主る脈口を診る。人迎はひとまず棚上げになる。別に否定し廃止したつもりはない。
変は気口に見れる
『素問』では五蔵別論にみえる「気口何以て独り五蔵の為に気を主るか」云々も、気口だけしか登場しないのに、『太素』の人迎脈口診に在る。これが一番わからない。
「凡そ病を治するには、必ずその上下を察す」とある上と下とを、楊上善は説明なしに人迎と寸口とする(上は人迎を察し、下は寸口を診る)。しかし、経文に人迎という詞は出ないのだから、にわかには同意しがたい。
上下で察する気を、口から入って胃に蔵される気と、鼻から入って心肺に蔵される気であるとすれば、飲食の気は足の太陰の気口で、呼吸の気は手の太陰の気口で診るのかもしれない。わかりやすいような気もするが、手足の太陰の気口を診て、それを人迎気口診というのは、いかになんでも無理ではないか。
窮余の一案として、あるいは胃に蔵された気については、「胃脈の気口としての人迎穴」を診るというつもりなのかもしれない。確かに、脈の端の拍動処を、気の発する口=気口と呼ぶことも、その詞の原義からすれば不可能ではないだろう。結句、楊上善の説でいいのかもしれない。
人迎だけを診る
逆に、『素問』病能論の胃脘癰の診には、人迎だけしか登場しないのに、これも『太素』の人迎脈口診に在る。
楊上善のつもりとしては、胃脘癰であれば胃脈を得て、この胃脈とは寸口の脈のことであって、その脈状は沈細であり、下の寸口が沈細であれば、気が逆している、逆していれば、上の胃脈すなわち人迎の脈は甚だ盛んとなり、それは熱が胃口に聚っているということだから、つまり胃脘の癰である、ということらしい。しかし、経文に「人迎は胃脈なり」といいながら、注文に「胃脈を得るとは、寸口の脈なり」はおかしいだろう。多紀元簡の『素問識』にも、楊上善の説は否定されている。
そこで、清の尤怡『医学読書記』(多紀元堅『素問紹識』に引く)には、沈細である胃脈を足の趺陽とする。趺は足の甲、衝陽穴である。つまり、胃脈とは足陽明の脈であり、その下の趺陽と上の人迎を診る。あるいは、そうかもしれない。
副次的にわかったこととして、妙な脈診が『太素』の人迎脈口診という篇に在って、楊上善は解釈に苦労している。これから推せば、前からあった『太素』に対して、辻褄合わせの注を施したことになる。楊上善が『太素』を撰して注したのではない。ただし、楊上善は経文に人迎、脈口が登場しない箇所で、しばしば注に人迎、脈口を持ち出す。当時、実際に診るのは脈口に限られるようになりつつも、人迎と対であるという意識も相当に根強かったらしい。
人迎の脈を診ていても、必ずしも人迎脈口診というわけではない。『太素』巻19脹論(L57水脹)に「水(水湿痰飲の類)の始めて起るや、目果の上微かに癰し、臥して新たに起きるの状の如し、頚脈動じ、時に欬し、陰股の間寒え、足脛癰し、腹乃ち大なるは、其の水已に成るなり」とあり、楊上善の注に、頚脈とは「足陽明人迎の脈」という。他に『太素』巻15尺寸診(S18平人気象論)にも「頚脈動疾喘欬は水と曰う」とある。特定の病症を診るべき特定の脈処という知識は集積されつつあった。ここでは頚脈の動なら、水という病症である。いわゆる人迎脈口診とは関わらない。本当は、頚の人迎で胃脘癰を診るのだって、同じことではなかったかと思う。
人迎と寸口の大小浮沈が等しい
『太素』の人迎脈口診の篇末の一段(L74論疾診尺)には、病んでいるのに寸口と人迎の脈の大小および浮沈が等しいものは、已え難いという。脈状は四時に応じて変化すべきであり、人迎と寸口では応じかたも異なる。同じになるはずがないものが同じだとしたら、事態はより深刻である。それに、病んでいるとは陰陽バランスが崩れているということであり、治療とはその回復をはかることのはずなのに、そのバランスに崩れがみえないとあっては、調整の方針もたたない。
これで『太素』の人迎脈口診という篇を構成する文章の、そこに在るべき理由の穿鑿は一応終わった。ただし、実のところ、何故そこに在るのかわからない断片はまだまだ残っている。『太素』の編撰は基本的には鋏と糊である。人迎脈口診を説いているとみられた文章を集めてくるのに、ついてきてしまっただけというものも多いのではないかと思う。
左人迎 右気口
普段は、独り気口を取って、中のことだけを気にすればよいとして、特に外をも探りたければどうするか。やはり頚の人迎脈を診るべきなのか、それとも左の腕関節部で代用できるのか。
ダメだという意見としては、『太素』巻09脈行同異の楊上善注に、人迎、寸口は、黄帝の正経(『素問』『霊枢』)にきちんと上下といってあるのに、近ごろの人は憑りどころもなく、かってに左右に持ってこようとする、と嘆いている⑦。
しかし、左右の脈には違いがあって、そのどちらがより敏感に外界と相い応ずるかを、考えていた可能性は有る。『太素』巻16雑診(『素問』では病能論だが、『太素』の文字のほうがわかりやすい)に、黄帝が、右の脈を診たら沈、左の脈はそうではなかった、病主はどこに在るのかと問うて、岐伯は、冬に診たのであれば、右の脈が沈で緊なのは当然のことであって、これは四時に応じているわけだが、左の脈が浮いて遅いのは、四時に逆している云々と答えている。おそらくは、右脈は、気象のより大きなサイクルに応じていて、寒いはずの季節なのに、妙に温かくて反ってそれに傷なわれたなどというときは、その応は先ず左脈に診える。未だ正解を得たという自信はないが、左人迎、右気口もあながち無理では無いのかもしれないとは思う。
『史記』倉公伝に付録する診籍にも、斉郎中令循、斉中尉潘満如、済北王侍者韓女などの病に、脈の左右をいうが⑧、上下(人迎、脈口)の陰陽を左右に代行させて大丈夫かについて考えるには、やはり『素問』病能論のほうが適当であろう。うまくいけば、両手左右を以て人迎、寸口とするのにも、正経に憑るべきところがあると、なるかもしれない⑨。
結論として 人迎脈口診は 比較脈診ではない
比較しないで、どうして大小や浮沈がわかるのか、という人がいるかもしれない。しかし、ちょっと考えてみてほしい。例えば、電線に雀がとまつているとする。何羽かと問われたらどうするか。端から数える、というのが科学的な態度というものかもしれない。しかし、一目見て、直感的に答える態度、比較しないでも四羽や五羽は、勘でわかると主張する態度も、伝統医学というような世界においては、案外と貴重なのかもしれない。努力して、より多くを一目で把握できるように修行せよ、と(西洋の)魔法入門書にあった。
人迎脈口診は 脈状診である
『霊枢』編著者が、首篇で「五蔵に疾有るや、応は十二原に出る」と宣言しておきながら、人迎脈口診を導入したのは、かれ(原穴診)は「どこで」であり、これ(人迎脈口診)は「どんな」であるべき、ということなのかもしれない。人迎脈口診にとって「どこで」とは、分担した「中か外か」だけである。
①通行本の『素問』三部九候論で、診脈処をいう一段はもと篇末に在った。どうして「義不相接」な、そんなところに置かれたのか。後世の人が工夫して、書き加えたものだからではないか。そもそも,上部では現場の脈状で現場の病状を診るのに、中・下部では,本(ねもと)の脈状によって、標(こずえ)の病状を診る。これではチグハグではないか。
②脈口か、気口か、寸口か。どう違うのか、どれを標準とすべきか。よくわからないが、しいていえば、寸口はより新しく、かつ腕関節部に限定されるのだろう。この稿では原則として、話題にする篇での表現に拠る。
③脈口の滑浮は、『霊枢』では病日進だが、『太素』は病日損。劉衡如は拠って改めるべきだといい、柳長華主編の精校叢書は改めている。
④類似の文(滑だと病が日に進む)が、L19四時気に「気口人迎を持して以てその脈の堅、かつ盛かつ滑を視れば病は日に進み、脈の軟なるは病将に下る」とあるが、『太素』では巻23雑刺に置く。明らかに「持気口人迎」というのに、なぜ人迎脈口診と名付けた篇に取り込まなかったのかはわからない。
⑤もっとも、より古いといっても、利用された陰陽学説はすでにかなり成熟している。例えば、陽明と太陽の、どちらの陽がより盛んであるかも、すでに解決ずみである。
⑥そうでなければ、脈口と人迎と倶に少とか、俱に三倍、四倍以上とは表現しえないはず。もともと、脈口と人迎のどちらが大きいかという問いは、ナンセンスだったおそれもある。清の何夢瑤『医碥』に、「人迎の脈は、恒に両手寸口の脈より大なること数倍、もとより寸口の反って人迎より大なるもの無し」という。
⑦これを教えてくれたのは、原塾の初めのころの井上雅文先生。「だって使えるんだからしかたがない」と笑ってみえた。
⑧五蔵を、左右の手首に配当するらしい。むしろ三部九候診の系統か。
⑨ただ、つらつら考えるに、人迎脈口診には、何らかの意味で上下を取るという一面がありそうである。最も代表的なものは無論のこと頚と腕だろうが、頚と足甲もありそうに思う。腕と踝の関係だってわからない。もともと、本の脈状によって、標の病状を診るということがあったはずである。それが原穴は五蔵の診断兼治療点であるという方向にまとまっていくのと同様に、標は人迎に、本は脈口に代表させるという方向にも整理はすすんだのではないか。左右に持ってきたのでは、上下の関係の重視という路線からは逸脱になる。
2018年1月12日 星期五
2018年1月1日 星期一
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