2015年12月22日 星期二

戦え!

子供たちは戦争が好きだ。マンガもゲームもほとんどが戦争ごっこだ。
戦え!で,まあまあ無事なのはスポーツの分野ぐらいだろう。
今どきの日本人には闘争心が欠ける,と監督たちは嘆く。
いや,別に今どきではないだろう。バトミントンと羽根突き,サッカーと蹴鞠,どちらが長閑かは誰でも知っている,と思う。
闘争心に欠ける?いいじゃないか,誇っていいんじゃないか。

フレデリック・ブラウンのSF短編小説に,「スポンサーから一言」というのが有る。
ある時,世界中の国のラジオやテレビから,まったく「同時刻」に,「スポンサーから一言,戦え!」,と流れる。世界中が驚き調べるが,どこから発信されたものか解らない。そもそも,当時の技術では,世界中のそれぞれの現地時間X時ぴったりにそれぞれ送信する,なんてことは不可能ということになっている。で,驚き怪しみ,散々迷ったすえ,人類はこの何処の誰だかわからない「スポーンサー」からの命令には,少なくともスポンサーの正体が(例えば,神さまだか悪魔だか)分かるまでは,従わないことにした。
勿論,こんなの夢物語ですよ。人類はそんなに賢くない。本当は,ハイハイと,素直にミサイル発射のボタンを押しちゃうと思う。

2015年12月17日 星期四

姓・氏・名

自分の苗字を,あんまり好いてない。
まずもって単純な音読で,意味不明で,つまり名前に景色が無い。
また,変わった苗字で,匿名性が乏しい。なんだかいつなにをしても,ははああいつかと,ばれそうな気がする。
そして,画数が少ないので,だだくさに書くと,なんだかバランスが悪い。

いずれも自意識過剰です。

意味不明だったけど,いろいろ調べて,どうも寒い川と関係が有るらしい。
人は他人の苗字なんかすぐ忘れる。それにわたしみたいな苗字と名前でも,じつは全く同じというのが,全国を探せば少なくとも一人はいる。グーグルの検索で発見した。それに佐藤、田中のたぐいでは,逆につまらんと思ったかも知れない。
画数のせいでバランスを欠きがちなんてのは,下手くその言い訳。

苗字と姓は違います。わたしの本姓は,どうもらしい。源平藤橘のしんがりです。これは結構気にいっている。だけど,いまさらタチバナ・ノ・ナニガシと名乗れるように,法律を改正しろと言ってもねえ。
あ,氏はまた別ものです。それと,日本的な姓氏と,中国的な姓氏も別です。橘だというのは,どちらかというと,中国的な方の話し。

2015年10月31日 星期六

身之徴

『太素』巻六の首編冒頭近くに「故精之來謂之精,兩精相,謂之神」とある。「搏」は誤りで「摶」に改めるべきだという説が有力だけど,卷二の六気に「兩神相,合而成形,常先身生,是謂精」云々と有りますからね,私は「搏」に軍配を挙げる。
で,楊上善の注に,「即前兩精相搏,共成一形,一形之中,靈者謂之神者也,斯乃身之也」という。この「」,実際には几の部分が夕の様に書かれている。その字形は『干祿字書』で「」の通なんだから,「身之」で問題無さそうなんだけど,でも仁和寺本『太素』では,「」も同じ形に書かれることが多いんです。例えば五音の一つとしての(チ)もそうなんです。夢診断の「夢」もそうなんです。
」は,隠蔽された,きわめて小さい,かすかなもの。まあ,身にあるきわめてかすかなものでも,意味不明では無い。でも,「」は,きざし,しるし,何かが起こる気配。両精が相い迫って,形を成して,その中に生じた霊妙なものを神という,これすなわち生命を宿した何ものかになろうとする気配である。このほうが良いような気がするんだが。

2015年10月30日 星期五

臍の下の玉

中国の戦国時代から秦・漢代にかけて,死者の九竅に玉製品を詰める習慣があったのは知っていたし,胸に環を抱くのもまあなるほどと思う。先日韓国の博物館で観たものには,人がたの線描のしかる位置にそうして玉が展示してあった。で,その他に臍の下に相当するあたりに,二~三寸ばかりの玉が縦に置かれていた。臍下丹田を護るという意味だろうか。

2015年10月29日 星期四

『太素』楊注の形音義

 例えば,巻2調食に「血与鹹相得則血涘,血涘則胃汁注之」云々とあり,楊上善は「涘,音俟,水厓,義当凝也」と注する。この場合,はたして凝の意という場合にも,アイという音のつもりなのだろうか。ここでは意義から推して,別の字「凝」の省略であると主張しているのではないか。一般的かつ常識的な説明と,この場での意義を並列させた場合も有るように思う。
 また例えば,巻8陽明脈病に「陽明厥則喘如悗,悗則悪人」とあり,楊上善は「悗,武槃反,此経中為悶字」と注する。これなどは,「悗は,普通はバンと読む字だけれど,この経では(モンと読む)悶の字として使われている」と言っているのではないか。他の処の楊注には繰り返し「悗,音悶」とある。楊上善は「悗」にバンとモンと,二通りの音が有って,それぞれ意味が異なることを認識していたはずである。
 また或いは,巻11気府に「大椎以下至尻廿節間各一,胝下凡廿一節,脊椎法」とあり,楊上善は「胝,竹尸反,此経音抵,尾窮骨,従骨為正」と注する。同じ形の字が,普通は竹尸反つまり音チであるが,この『太素』経では音テイで尾骶骨の意味の別の字と言うのだろう。意符を交換してできた俗字と,従来から有る字を区別しているのであって,音と義の齟齬が有るわけでは無い。経絡の絡を「胳」とするのと同様に,もとは胼胝(皮膚の表面が角質化して厚く固くなったもの)の意義の「胝」に同形異字を造ってしまっているから,その違いを述べたのだと考えられる。
 つまり最も丁寧には,音はしかじか,ただしここでは別の音,だからここではしかじかの義と書く(ex.胝)べきである。ところが「ここでは別の音」は多くの場合に略される。時には別の箇所だけで,『太素』に於ける音が示される(ex.悗)。最もひどい例では,『太素』での義に相応しい釈音が,どこにも(少なくとも目につきやすいところには)見当たらない(ex.涘)。それで深刻な音義の齟齬が有るように見えることになった。実は訓詁の記述形式が粗略であるだけなのかも知れない。

 勿論,二つの文字が俗字では同形となり,混同されて,一方の音を取り,もう一方の義を取る,それで音と義の齟齬が生じるということも有るだろう。例えば巻2調食に「其大気之{扌専}而不行者,積於胸中,命曰気海」とあり,楊上善は「謗各反,聚也」と注する。謗各反なら「搏」である。聚なら「摶」だろう。

2015年9月19日 星期六

いかになんでも舌足らず……

『太素』巻25五蔵痿に「各補其榮而通其輸,調其虚實,和其逆順」云々とあり,楊上善は「五藏熱痿,皆是陰虚,故補五藏陰經之榮,陰榮,水也。陰輸是木少陽也。故熱痿通其輸也」と注する。
榮は滎の誤りということになっている。『素問』は滎に作る。はて,陰経脈の滎は火,輸は土のはずなじゃなかったか。ここで水といい,木というのは,それを剋している。ひょっとすると熱症であるから,陽の滎輸を取って押さえ込めとでもいうつもりか。
そもそも経文の本来は,その逆順出入の会を営じ,その血気を調え,その経脈を通じる,というようなことをいっているに過ぎないような気もする。流れるべきものを力づけ,流れるべきところを通じさせる。医統本『甲乙経』は榮を営に作る。

2015年9月18日 星期五

ヘイワボケ ケッコウ

誰かが守ってくれると思うのは暢気すぎるとか平和ボケだとか,自分の大事な人を守るために行動するのも嫌なんて卑怯だとか。あるいはそうかも知れないけれど,こんなことについては,殺されたくない,殺したくないという,ごくごく素朴な言い方にもっとも値打ちが有ると思う。戦うべき理由なんて,どうとでもつく。

とりあえず,少なくともこのさき数年間は,今の与党には金輪際投票しないようにしましょう。たとえ個人的には信頼できそうな人でも,地域には貢献している人でも。反対する党に投票しましょう。たとえ支持政党で無くても,嫌いな主義を標榜する党でも。このさき数年間だけは。

2015年9月16日 星期三

淳于意の生涯のあらまし

 『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝記の中で異例に長いものだと言う人があるが,本当にそうなのか?
 そんなことはない。
 太倉公者,齊太倉長,臨菑人也,姓淳于氏,名意。少而喜醫方術。高后八年,更受師同郡元里公乘陽慶。慶年七十餘,無子,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黄帝,扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,爲人治病,決死生多驗。然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病,病家多怨之者。
 文帝四年中,人上書言意,以刑罪當傳西之長安。意有五女,隨而泣。意怒,罵曰:「生子不生男,緩急無可使者!」於是少女緹縈,傷父之言,乃隨父西。上書曰:「妾父爲吏,齊中稱其廉平,今坐法當刑。妾切痛死者不可復生,而刑者不可復續,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身爲官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。」書聞,上悲其意,此歳中亦除肉刑法。
これで全てである。そう長くもない。また,その長くもない文章の後半分には,医家の伝記としての価値は無い。付録されている資料としての詔問と応対の文章が長いので,伝記の文章が長いと錯覚されるだけである。

 倉公が活躍した年代と,司馬遷の『史記』編纂はそれほど時を隔ててない。したがって,その内容は信頼性が高かろうと期待される。しかしながら,実際にはかなり混乱した記述も有って,古来,読者を困惑させてきた。伝記本文と詔問・応対との齟齬が解結すれば,倉公・淳于意という人物が存在していた意義がより明らかになると信じる。以下に説明を試みる。

 斉の太倉長であった。どの程度の身分なのかは分からない。ただ,緹縈の上書に「妾の父は吏と為って,斉中にその廉平を称された」というのだから,そこそこの身分ではあったと思われる。ではどの斉王のときの太倉長なのか?悼恵王肥(高祖六年~恵帝六年)から哀王襄(~文帝元年),さらに文王則(~文帝十五年)まで,一応はいずれも可能であろう。しかし,淳于意の年齢からして,悼恵王の下での重職はいささか難しかろう。文帝の十六年に初めて立った斉王(もとの陽虚侯将閭,後に呉楚七国の乱に際して自殺して,孝王と諡される)の太倉長が,詔対の時にはすでに「故太倉長」というのは,なおさら難しかろう。
 臨菑の人で,姓は淳于氏,名は意である。これは『史記』の標準的な書き方である。例えば,扁鵲の伝にも「勃海郡鄭人也,姓秦氏,名越人」と言う。淳于意という氏名にまちがいはなかろうが,臨菑の人であるとは,問対では明言してない。淳于氏は,春秋の頃に山東地方にあった小国の名と関わる。臨菑の東南東に菑川があり,陽慶より前に師事した公孫光は,菑川の人である。そう遠くはないが,淳于は菑川のさらに東南東にあたる。臨菑の人であったかも知れないし,そうでないかも知れない。有名な先人に、先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠,さらには秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越がいる。すでに発祥の地に留まっている時代ではない。
 わかいころから医術に関心があり,高后八年から,臨菑の公乗陽慶に師事したというのは,問対と齟齬しない。「更」とあるから,少なくとも陽慶が最初の師匠というわけでない。問対を調べれば,より詳しいことがわかる。最初は郷里の人に学んだのだろう。問対の初めには「意少時喜醫藥,醫藥方,試之多不驗者」と言っている。ところが,後の陽慶に師事するに至る経緯の説明の中では,「意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗精良」と言う。これは齟齬ではなく,過去についての認識とその表現の違いだろう。そこそこの効果は有ったから,小成に甘んじるのならば,一番はじめの師匠だけでも満足できたのだろうが,菑川の公孫光が古方を伝えていると聞けば,出かけていって師事し,その方が尽きたところでは,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年のことである。しかも,これで医術修行が終了したわけではない。問対の中では,斉の文王の病は治らないと判断し,吏によって拘束されるのを恐れて自ら隠れ,「出行游國中(おそらくは斉国中),問善爲方數者事之久矣,見事數師,悉受其要事,盡其方書意,及解論之」(国中を遊歴し,医術を善するものを求めて,久しい間これに師事しました。数人の師にまみえ,これにつかえて,その秘伝をつくし,その医書の奥義を窮め,かつこれを解釈し論究しました)と言っている。
 淳于意が師事した時,陽慶はすでに七十余歳で,「無子」という。しかし,問対の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。文章を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。『史記』の文では,陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
 伝えられた医書とは如何なるものであったか?おそらくは「黄帝,扁鵲之脈書」であろう。問対の資料中の詳しい篇名などは,伝記では省かれている。診籍を見ると,診断法の中心は脈診である。それによって,人の生死を知り,嫌疑を決し,治すべきを定める。しかし,望診も重視されるから,「五色診病」というのはそれと関連しているのかも知れない。「薬論」も,診籍中の治療が概ね投薬であるのと呼応する。
 これを承けること三年というのは,三年で学び終えたのか,師匠が死んでしまったのか?おそらくは,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,またそのころ師匠の陽慶が死亡したので学び終えることになった。陽慶亡き後にも,国中を遊行してさらに師を求め,方を承けているのは上述のとおり。
 訴えられたのという文帝四年は,十三年の誤りである。『史記』孝文本紀にはそうなっている。文章自体も,ほとんど同じで,要するに文帝の名君ぶりを言いたいだけのことである。なぜ,十三年を四年に誤るというようなことが起こりえたのか?古代にも十三を一三とする表記法が有ったとすれば,一三が亖に誤られた可能性が生じる。亖は四の古字である。むしろ,高后の八年に師事して,三年余がたって,陽慶が死んで,文帝の四年に訴えられて,とトントンと進んだ方が,話は分かりやすいから,そう書いたのではないか。
 ただ,このとき淳于意は何歳だったのだろう?「子が有っても男の子がいないから,ことあるときに役にたたない」と罵ったというけれど,頼りになるような男の子が有り得るというと何歳くらいに想定すべきなんだろう?百納本をはじめとする諸本の問対の資料中では,「至高后八年」に徐広が注して「意年二十六」という。罪を問われたのが,文帝十三年のこととしても,三十八歳にしかならない。いくら当時でも,これでは罵るほうが無理かも知れない。ところが滝川亀次郎が『史記会注考証』の底本に選んだ金陵書局本では,「意年三十六」となっているらしい。中国でも,一九五九年以降に中華書局から二十四史の標点本の第一弾として刊行された三家注合刻の『史記』が,やはり金陵書局本を底本とする。
 ここでは「今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歳也」の解釈が鍵になる。「今,師匠に死なれてから,すでに十年ばかりたちます。師匠が死んだのは,私が師事して三年を経た三十九歳のときのことでした」と解したい。『史記』の文章だけでは,陽慶が死んですぐに訴えられたと誤解されがちだが,そうではない。また,三十九歳というのは,師匠が死んで,図らずも学び終えることになった歳である。すると訴えられたときに四十八歳であるから,五人いたという内の季の女が上書するのも不可能ではなさそうである。
 淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと一般に理解されている。しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか?当時の刑法の詳細が分からないのだが,どうも釈然としない。「然左右行游諸侯,不以家爲家」というのは,問対では斉の文王が病んで,召されそうになり,治せないと判断して避けた際の「臣意家貧,欲為人治病,誠恐吏以除拘臣意也,故移名左右,不脩家生,行游國中」と関わる。「左右行游諸侯」は,あちこちと諸候に遊ぶだろうが,「移名左右」は,名籍をよそに移してだろう。「左右」の意味が微妙に異なる。問対の文章に,一般の患者を断って,貴人に取り入ったという気配は無い。むしろ逆であろう。また,「不爲人治病」には,陽慶は富豪であって医者ではないという話において,「不肯爲人治病,當以此故不聞」とある文章が影響しているだろう。「病家多怨之者」は,司馬遷による作文である可能性が高い。これが淳于意が訴えられたのは,治療を断ったからだと誤解される理由となった。
 実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのかも知れない。上で,陽慶には実は子が有ったと言った。この子は医者ではなく,また淳于意が陽慶に師事するについての仲介をなしている様子なので,この人が訴えた可能性は排除して良いだろう。しかし,問対の中に,公孫光の言として,「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」とある。これを,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいしたもので,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶には医者の同胞がいることになる。あるいは一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。陽慶は成功して富豪となって,医者はやめた。子も医者にはならなかった。そこで,みこんだ弟子の淳于意に秘伝書を伝えた。遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説が有る。しかし,同胞にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。問対の資料の後ろのほうにある「愼毋令我子孫知若學我方也」は,「愼毋令我同産知若學我方也」であるべきなのかも知れない。しかし,民間人が秘伝書の窃盗を訴えたとしても,朝廷が取り上げてくれるだろうか?それに,師匠の陽慶が死んでから訴えるまでに,時間がかかりすぎている。当時の刑法の詳細が分からないのだが,やっぱり釈然としない。
 実は,仕えていた斉の文王の治療をしなかったのを,咎められたのではないか。斉の文王の死は,淳于意が訴えられた文帝十三年より後であるが,当然すでに病んでいただろうし,許されたのは,実は斉の文王に死んでもらった方が,好都合だからではないか。朝廷側にしてみれば,東方の大封である斉の王が死んで,その領土をその親族たちに分割できれば,そのほうが好都合である。で,季女の上書を口実にして,名君ぶって淳于意を赦し,結果として,斉の文王は死んで,斉は分割された。高后(呂后)歿き後,誰が皇帝になるかについての二大候補の一方であった斉国自体が,文帝の朝廷からしてみれば,仮想敵国のごときものである。
 あるいはまた,淳于意は,斉に於ける政治的立場を買いかぶられたのかも知れない。太倉長として仕えた斉王というのが哀王であったとすると,高后が崩じたとき,宮中に呂氏の諸族を誅戮して,斉王を立てようとする動きが有り,哀王もそれに応じようとしていた。突拍子もない説のようだが,季女の上書中にも「妾父爲吏,齊中稱其廉平」とあり,太史公曰には,「士無賢不肖,入朝見疑」云々とある。この司馬遷の「言いたいこと」からすれば,「宮廷で目立ちすぎた」という珍説も案外と馬鹿にならないかも知れない。
 訴えられたのが文帝の十三年であるとして,詔問のことは何時なのか?文中に登場する斉の文王の死は,文帝の十五年であり,その結果として,文王の叔父や従弟が分割された国の王に封ぜられたのは,文帝の十六年である。その爵位が問対の資料中にしばしば登場するのであるから,詔問のことは文帝の十六年以降である。どうして罪に問われ許された文帝の十三年から,数年とはいえ遅れたのか?おそらくは,朝廷が淳于意の医術の価値を認めるのに,気付くのに,それだけの時間を要したということだろう。我々は,後代のものとしての先入観で淳于意のことを考えがちであるが,当時はさしたる有名人でもなかったろう。医療の実績も,ほとんどが斉国内でのことに限られる。
 淳于意の問対のころの年齢については,弟子についての話からも想像できる。最も重要な師である陽慶に事えたのが三年余,その前は勿論その後にも数師に事えて研鑽を怠らなかった。それにひきかえ,弟子が淳于意に事えたのは一年余とか二年余とかである。臨葘召里の唐安に至っては,「未成」であるのに斉王の侍医になっている。淳于意は,本当はげっそりしていたのではないか。「今どきの学生は……」と慨嘆するのは,古来のことらしい。淳于意はこの頃には既に引退していたのではないか。当時の五十数歳なら,まあ可能性は有るだろう。
 さらに,今ひとつ。問対のはじめに「詔召問」と「詔問」が出るのは,詔問のことは数度におよんだからという説が有るが,どうしてそんな理屈になるのか理解できない。そもそも,こうした問対はどのようにして行われたのだろう。いくつかの問いを記した文書が発せられ,それに文書で対えたのだとすれば,「問臣意,所診治病,病名多同,而診異,或死,或不死,何也」などには,診籍を見た上での再質問である可能性を感じる。文書の往復は何度も有ったかも知れない。獄中に在って問対したのではない。家居と言っている。家は臨菑に在ったはず。長安と臨菑では,詔問と応対に要する時間も,今日のようにはいかない。その間に,爵位が変わる可能性は無くは無い。しかし,問うための役人が派遣され,それに口頭で対えたのであれば,やはり,それは一度にまとめて行われたのだろう。

 『史記』の文章と,詔問・応対の文章に齟齬が有るのは何故か。つまるところ,歴史とは事実の羅列ではないからである。それを如何様に認識するかである。司馬遷が書く必要が有ったのは,文帝が名君であるということであり,本当に言いたかったのは,武帝に対する密かなる恨みではなかったか。淳于意には緹縈がいて,申し開きをしてくれて,しかも文帝が慈悲深かったので,罪を免れた。ところが,匈奴に降った李陵を弁護したかどで罪に問われた司馬遷には,緹縈に相当するものはいなかったし,武帝は文帝ほどはものわかりが良くなかった。古代中国においては,史書は所詮,プロパガンダであった。

(季刊内経 no.188 の初稿を修改)

2015年9月5日 星期六

もういいかい?

『儒林外史』第六回の冒頭に:
さて厳監生が死に臨んだとき,二本の指を伸ばして,どうしても息を引き取ろうとしなかった。幾人もの甥と幾人もの家人がみなやってきてあらそい問うた。あるものはふたりの人だといい,あるものはふたつの物だといい,あるものは二カ所の田地だといい,さまざまにいったが,いずれにも首をふって肯かなかった。(妾あがりの妻)趙氏が人々を押しのけて,進み出ていった。「旦那様,旦那様のお気持ちがわかるのはわたしだけでございます。旦那様はあの灯明皿に灯心が二本も入っているのが,油を余計に費やさないかとご心配なのでしょう。わたしがいま取り去りますからね」。そう言い終わって,灯心を一本取り去った。人々が厳監生を見ると,一つうなづいて,手を下ろし,すぐに息を引き取った。
してみると,人間というものは,最後の最後,「もういいよ」あるいは「まあこんなものだろう」,あるいはいっそ「もう面倒くさい」と思うまでは息を引き取らないものらしい。いつまでも生きていられるという意味じゃないですよ。そんなに時間をおかずに,結局は「もういいよ」になるんだということ。

南京行きの予行演習のつもりで,『儒林外史』を読み始めました。南京や揚州が(一部の)舞台になっているらしい。物好きだね。

2015年8月28日 星期五

『西湖夢尋』大仏頭  いやはや

しつこいけど

原文:燓太廟者,漸殿帥
東洋文庫の訳:太廟を燓いた者は、長官指揮官を切る

ここの「者」字は,動詞や動詞句の後に置いて,それを体言化する用法ではない。

謹んで案ずるに,ここの「者」字は,条件の後に置いて,仮定の意を表す。例えば『史記』楚世家に「伍奢有二子不殺者,為楚国患」(伍奢に二子有り殺さざれば,楚国の患いと為らん)。『漢辞源』にも載っている。例はそこから引いた。

改訳:太廟を燓いたならば,指揮官を切る!

2015年8月27日 星期四

奇貨可居

『西湖夢尋』巻一の「昭慶寺」に「奇貨居く可し」という古典のことばが持ち込まれていて,東洋文庫に収められた訳本の注に,「戦国時代末期のこと,商人であった呂不韋が,若い微賎な秦の始皇帝を見つけ出して言ったことば」云々とある。はて,呂不韋が見つけ出したのは,始皇帝の父親となる子楚じゃなかったかね。大丈夫かい本当に,この訳註者。開く度に,何かしら見つかる。奇書です。


固めを為す?

『太素』卷三・調陰陽
陰者,藏精而極起者也;陽者,衞外而爲固者也。
楊上善注:五藏藏精,陰而陽也;六府衞外,陽而陰也。故陰陽相得,不可偏勝也。

陰者藏精と五藏藏精,陽者衞外と六府衞外は,ぴったり重なる。そして,極起を,(陰が)極まって(陽が)起こると訓んだ。してみれば,楊上善は,爲固を,(陽が)爲って(陰が)固まると訓ませるつもりではなかったか。

2015年8月14日 星期五

有と在

仁和寺本『太素』巻三・陰陽大論に「故清陽出上竅,濁陰出下竅」とあって,その楊注中に「起於中膲,並於胃口,出上膲之後」と言う。この「有」は「在」の誤りとして,新新校正には:
新校正は「有於胃口」の「有」を「行」に作るが,大正模写本を見れば「有」である。ただし,これは和訓が同じであることからきた誤りで,正しくは「在」とあるべきところだろう。
としておいた。ところがである。明藍格抄本『甲乙経』巻三・手少陽及臂凡二十四穴第二十八に「消爍肩下臂外開腋斜肘分下胻刺入六分灸三壯」とあって,戴霖が欄外に「有乃在之誤」と書き込んでいる。まさか,明藍格抄本『甲乙経』の抄者も日本人,なんてことは無かろう。してみれば,中国人にも「有」と「在」を間違える理由が有ることになる。実は鍼灸古典聚珍『新校正 黃帝三部針灸甲乙経』(と言っても,試作本の複印)でも,巻六・内外形診老壯肥瘦病旦慧夜甚大論第六の「在内者,五藏爲陰,六府爲陽;在外者,筋骨爲陰,皮膚爲陽。」を「内者,五藏爲陰,六府爲陽;外者,筋骨爲陰,皮膚爲陽。」に誤っていた。

2015年8月12日 星期三

禁之則逆其志

『太素』巻二・順養に:
黃帝曰:胃欲寒飲,腸欲熱飲,兩者相逆,便之奈何?且夫王公大人,血食之君,驕恣從欲輕人,而無能禁之,禁之則逆其志,順之則加其病,便之奈何?治之何先?
歧伯曰:人之情,莫不惡死而樂生,告之以其馭,語之以其道,示之以其所便,開之以其所苦,雖有無道之人,惡有不聽令者乎?
「示」の下の「之」は前後文例に拠って補った。
『霊枢』師伝は「馭」を「敗」に作る。では「敗」と「馭」では,いずれが是か。
「馭」は「御」に通じ,節制の意が有る。「道」は「道理」。つまり,これに告げるにその制を以てし,これに語るにその理を以てする。(これに告げるにその欲に順わずに節制すべきを以てし,これに語るにその志に逆らっても道理によるべきを以てする。)「馭」を取る。
また新校正は,「馭」は下の「苦」、「乎」とみな古韻魚韻に在るといい,したがって「馭」の方がいいだろうとする。

2015年7月31日 星期五

あくたがわ

みなさん,騒いでらっしゃるけど,芥川賞ってそんなに大層なものなんですかね。 そりゃまあ大層なんだろうけど,芥川賞作家の小説なんて読んだ記憶が無い。 そりゃまあ読んだんだろうけど,だれが取ってたのか,なんて知らない。 それにそもそも,芥川龍之介の小説なんて,そんなに佳いかね。中国種の短編なんて,もとの中国の伝奇のほうがずっと佳い。 ああ,『支那遊記』は結構,好きです。つまりわたしにとって,芥川は小説じゃないんだけど。

2015年7月17日 星期五

東洋文庫861『西湖夢尋』p201 葛嶺

……瓶の中には蓮の実のような丸薬があり,それを食べるとまったく味がしなかったので捨て(漁翁に施し)たが,施された老漁師が一つだけ食べると,のちに年は百六歳になった。……

注に,原文を修訂して「捨てようと思ったが,老漁翁に与えたところ,漁翁は一つだけ食べた」の意に取った,と言うが然らず。「絶無気味,乃棄之」,不味かった(効能が有るとも感じなかった)ので,吐き捨てた。「施漁翁独啖一枚」,老漁師にやったら一つだけ食べた。だから,老漁師は長寿を得た。井戸の主は,吐き出したので,なんのことも無かった。

……瓶の中には蓮の実のような丸薬があり,それを食べるとまったく味がしなかったので吐き出し,残りを漁翁に施した。施された老漁師が一つだけ食べると,のちに年は百六歳になった。……

東洋文庫861『西湖夢尋』p198 蘇軾「六一泉銘」

……八極をも指図して斥けているからには,どこに至らないことがあろうか。……

原文は「公麾斥八極,何所不至」。
案ずるに,「麾斥」は,縦横奔放の貌。蘇軾の詩に,「麾斥八極隘九州,化為両鳥鳴相酬」(八極に麾斥にして九州を隘しとし,化して両鳥と為りて鳴いて相い酬ゆ)とある。
八極を縦横奔放に引っかき回すからには,どこに至らないことがあろうか,だと思うがね。

2015年7月16日 星期四

この道は,どこへ行き着くのか?

だって自分たちで選んだ人がやったことでしょう?

行ってらっしゃい! お元気で!


2015年7月15日 星期三

東洋文庫861『西湖夢尋』p155 秦楼

(1)原文「数百武」、古くは距離の単位として半歩を武といった。

これは拙いだろう。言っていることは間違いではないが,普通の人は当然誤解する。古くは,例えば右足を出して,つづいて左足を出して,それで一歩とした。今の言い方なら,二歩である。古くは,例えば右足だけを出したのであれば,一武とした。今の言い方なら,一歩である。

2015年7月10日 星期五

東洋文庫861『西湖夢尋』p80 岳王墳

……(秦檜・王氏・万侯卨・張俊の)四人は反対向きになり(岳飛の)祠廟の赤い壇に向かってひざまづいた。……

四人が反対向きになって,どうやって一つの祠廟に向かうのか,と不審に思って原文を調べたら,「反対向きになり」に相当するのは「反接」でした。反接が「後ろ手に縛る」という意味だということくらいは,『漢辞海』にだって載っている。


2015年6月28日 星期日

張岱『西湖夢尋』に引く

袁宏道『西湖總評』詩:
  龍井饒甘泉,飛來富石骨。蘇橋十里風,勝果一天月。
  錢祠無佳處,一片好石碣。孤山舊亭子,涼蔭瀟林樾。
  一年一桃花,一歳一白發。南高看雲生,北高見月沒。
  楚人無羽毛,能得幾遊越。

ある人曰く,白發は,髮が生するとの意とみる,と。ならば前文に桃花とあるのは,對句的となるためには,赤い桃の花を言うのではなく,さくとの意とみるべきではないか。

2015年6月22日 星期一

咽か嗌か

『山海経』の郭璞注に,「嗌,咽也,今呉人呼咽為嗌」とある。
ところで,『霊枢』経脈篇の心手少陰之脈には,流注には「從心系,上俠」といい,是動病には「乾,心痛,渴而欲飲」という。どうしたことか。
実は馬王堆の陰陽十一脈灸経(甲本)には「【心】痛,益()渴欲飲」とある。流注は咽には至ってない。
あるいは,流注と病症は,由来を異にするのではないか。つまり,古い資料の病症に「嗌渴」あるいは「嗌乾」とあったので,それをそのまま用い,流注に増補された文中には,その当時に普通の字「咽」を用いた。

曲鬢

『甲乙経』巻三に列する穴は先ず,前髮際に中央から左右へ神庭・曲差・本神・頭維,正中線を前から後ろへ上星・顖会・前頂・百会・後頂・強間・脳戸・風府,正中線の両傍一寸五分を前から後ろへ五処・承光・通天・絡却・玉枕,目の上眥から直上して前から後ろへ臨泣・目窓・正営・承霊・脳空,耳の上を行く天衝・率谷・曲鬢・浮白・竅陰・完骨,後髮際を中央から左右へ瘖門・天柱・風池。これらが頭部の諸穴であって,それぞれおおむね一本の線上に配される。
しかし,耳の上だけは,現在の教科書的な説明では,天衝・率谷・曲鬢と前へ行き,天衝・浮白・竅陰・完骨と後ろへ行くことになっている。これはおかしいのではないか。
そこで古い図を探ってみると,例えば呉崑の『鍼方六集』に附属の伏人図では,天衝・率谷・浮白・竅陰・完骨と,前から後ろへきちんと並んでいる。考えてみれはそもそも「頭縁耳上却行至完骨」と題されていた。ところが曲鬢だけは,やはり前の方の正人図に載る。本当は,より古く率谷と浮白の間に曲鬢を配する資料が有ったのではないか。あるいはいっそ曲鬢に関する記述は錯簡してここに在るのではないか。

2015年6月14日 星期日

関長生

名前がらみで変なことを思い出しました。『三国志』の関羽,字は雲長といってますが,元の字は長生などとわざわざいってます。
東晋末期に孫恩というのが反乱を起こしています。五斗米道系の道教集団の反乱で,その一党を「長生人」と呼んでます。五斗米道は,後漢末に張陵が蜀の成都で起こした道教教団で,三代目の張魯が『三国志』にも登場してます。
なにか関係有るんですかね

2015年5月27日 星期三

お猿のシャーロット

「王女と同じ名前をサルにつけるのは極めて失礼だ。英王室や英国民は,表面上はともかく決して快く思わないだろう。」
「私もまったく同感です。」

 ああ,なんたる無知。戦前の日本で「ヒロヒト」ははばかられたろうが,あるいは禁ぜられたかもしれないが,英国にはエリザベスという庶民女性なんていやというほどいるだろう。女主人とメイドが同じエリザベスだったら,さすがになにか対策するんだろうか。
 これはファーストネームについての感性の違いであって,結局は互いに分からないことなんだろう。だから,MSもgoogleも,東洋人にファーストネームとファミリーネームを登録させて,四角い画面のむこうから,マサオとかハナコとか「親しげな振り」で呼びかけて,わたしのような旧弊なものをギョッとさせる。MSやgoogleが偉いのは,あるいは横柄なのは,日本人がちょっとやそっと苦情をいったって,変更する気配はまるで無いことだ。
 中国では,皇帝の諱の文字は避けたり,最後の一筆をわざと書かなかったりした。半島の北では,未だに最高権力者と同名のもの(本当は初代、二代目を尊敬するあまり,あやかったんじゃ無いか)は改名をせまられているとか。似たようなことが欧米で有ったかね。欧米のことには無知なんで……。
「日本人の気配りの美徳どこへ。」彼らは,お節介に,とまどっているんじゃないか。
「相手の立場に立つことが必要。」だからさあ,相手はあなたとは感性も立場も違うの。

 さて,シャーロットなんてのは,英国でも,たぶん,そんなに多い名前じゃないんじゃないか。今年はあやかって急に増えるんじゃないか。シャーロットという子犬も子猫も,爆発的に増えるんじゃないか。

2015年5月25日 星期一

菊千代

講談社の『本』に連載を書いている御仁,賢いのか物知りなのか。それはまあ,わたしなんぞより遙かに賢くて物知りに違いないのだが,ときどき何だこれは,は有る。
黒澤明監督の映画「七人の侍」で,無学な百姓あがりの乱暴者三船敏郎がどこかで拾ってきた系図を叩いて「これが俺だ」と言うと他の者が「ほうお前は菊千代か」と大笑いする所がある。当人も菊千代が子供の名前だとはわかるので間の悪い顔をする。
それは違うだろう。幼名は菊千代でも竹千代でも,今は別のごつい通称になっていて不思議はない。菊千代どのも,系図を落っことした時分には,まともに勝四郎とか,おもおもしく勘兵衛とか名乗っていたのかも知れない,そう書き足してあったかも知れない。大笑いは,優美な「菊千代」と,百姓あがりの「乱暴者」の違和感のせいだろう。つまり,拾ったにすぎないのも,文字が読めない無学なのも見え見えだという滑稽。

2015年5月12日 星期二

戴霖

明藍格鈔本『甲乙経』の巻末に:
乾隆辛卯休寧戴霖校 書内倘有當正之處因無善本靈樞姑俟異日乃定
とある。これについて,篠原孝市氏は,東洋医学研究会が1981年に影印出版したときの解説中に,「休寧の人で乾隆36(1771)年に跋を書いた戴霖について,筆者は何ら知るところがない」と言われている。それからもう何十年もたっているのであるから,すでに何か発表が有るのではないかとは思うけれど,取り敢えずgoogleで検索してもはかばかしい結果を得なかったので,贅言しておきたい。
この話はひょっとしたら,昔すでに誰かにしたかもしれないが,はっきりしないし,まして書いた記憶も無いので,……まあ取り敢えず。
中国清代の考証学の大物に,戴震というのがいますよね。生没年は1724~1777年。この人も安徽省休寧の出身なんです。で同じく雨冠の諱を持っている。としたら,戴震と戴霖は兄弟もしくは同族で同世代の人なんじゃないか。戴震は1777年に亡くなっているんだから,1771年に明鈔本『甲乙経』に跋を書いた戴霖おそらくは弟分なのだろう。
李開という人の『戴震評伝』が,2009年6月に南京大学出版社から出ているらしいから,これをみればはっきりするんじゃないかと思うけど,持ってません。

2015年5月11日 星期一

これはいったい何なんだ

中華医史雑誌2015年1月第45巻第1期ページ35の左段の上部
  《素問・示從容論》:“黃帝燕坐,臨觀八極,正八風之氣,而問雷公曰:臣請誦‘脈經上下篇’甚衆多矣,別異比類,猶未能以十全,又安足以明之……吾問子窈冥,子言‘上下篇’以對,何也?夫脾虚浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎,此皆工之所時亂也”
 (參考文獻として 王冰,黃帝内經素問注[M],北京:人民衛生出版社,1979  もとは簡體字,今,繁體字で示す。)
謹んで按ずるに,「臨觀八極,正八風之氣,而問雷公曰:」は示従容論の文では無く,陰陽類論である。示従容論ではこの部分は,「召雷公而問之曰:汝受術誦書者,若能覽觀雜學,及於比類,通合道理,爲余言子所長。五藏六府,膽胃大小腸脾胞膀胱。腦髄涕唾,哭泣悲哀,水所從行。此皆人之所生,治之過失,子務明之,可以十全。即不能知,爲世所怨。雷公曰:」のはず。そもそも「而問雷公曰」は「しこうして雷公に問うて曰く」だろう。誰が問うのか。黄帝だろう。黄帝が「臣は請う」云々などというのか。

2015年5月2日 星期六

呪術と科学と

魔法と呪術はどう違うのか。
魔法は,願えばかなう。かなうかかなわぬかは熱意の問題,あるいは聞き届ける側の都合。したがって信仰につらなり,宗教の母である。
呪術はそれとは異なる。しかるべき準備をして,しかるべく所作をしなければ,期待したような結果にはならない。そこで,科学はその孫である。
呪術と科学の差は何か。その準備と所作と結果の関係に説明を求める。しつこく問い詰める。「だってセンセイがいったんだもん」というわけにはいかない。
同じ準備をし,同じ所作をしたのに,結果が異なったとしたら,何処かに見落としが有ったからだ。あるいは,そもそも因果関係の筋道が思い違いだったかも知れない。理路のたてなおしにアタフタしているのを,けなされるのはお門違いだ。
現代科学は因果関係が明確でなければ切り捨てる,としたら,似非科学的である。阿呆かと思う。原因と結果はそこに在る。両者の関係を証明できないでいるだけじゃないか,しようともしないだけじゃないのか。

魔法とか呪術とか宗教とか科学とか,どこかで誰かから聞いたことばを使っているけれど,ここでは定義しなおして使っている,つもり。

魔女と魔術師といういいかたもする。魔女は生まれつき。魔術師には,修行してなる。魔女に生まれつかなかったら,魔術師を目指すしかない。そのカリキュラムを呪術的というか,科学的といおうか。それはまあ,魔術師になれるような人には,幾分なりとも魔女的な要素がある。それを,その人に非ざれば……,という。魔女的な要素とは何か。曰く言いがたし。「非科学的」だわなあ。

2015年4月3日 星期五

扁鵲仰天歎曰

夫子之爲方也,若以管窺天,以郄視文。越人之爲方也,不待切脉、望色、聽聲、寫形,言病之所在,聞病之陽論得其陰,聞病之陰論得其陽,病應見於大表,不出千里,決者至衆,不可曲止也。子以吾言爲不誠,試入診太子,嘗聞其耳鳴而鼻張,循其兩股以至於陰,當尚温也。
扁鵲はまだ病人に会っていないのであるから,「大表」を体表と解釈するのは誤っている,という異見が出た。

必ずしも然らず。
「病應見於大表,不出千里」を,病めばその反応は表に出るのであって,別に千里の外に求めることはない,言い換えれば天にお伺いを立てるべきものではない,と解することが出来れば,それが体表に現れると言ってもそれほどとがめることはない。扁鵲は病人に会っていなくても,予測として言えるのだと,誇っているのだと思う。
あんたの方術は管をもって天を窺い,隙間からその様子を視ようとするようなものだ。わたしの方術となると,切脈、望色、聴声、写形なんぞにたよらず とも,病の所在をいうことができる。病の陽を聞けば陰は察しがつくし,病の陰を聞けば陽は察しがつく。病の反応は大表(≒体表)に現れてそこにあるのであって,別に千里の外に求めずとも,判断材料はきわめて多いし,限界も無い。信じられないというのなら, 太子の様子をもう一度診なおしてみろ,耳が鳴り鼻が張っているはずで,太股の内を撫であげればまだ暖かいはずだ。
診るべきものは,深奥に秘められているわけでも,天の彼方に掲げられているわけでもない。

2015年4月2日 星期四

2015年3月27日 星期五

當→当

酒がかなりはいってからの,しかも話の端のことながら,「當の当用漢字を当とするのは,日本で勝手に作った形だ」,と聞いたような気がする。
醒めてつらつら考えるに,これは草書の楷書化(こんな言い方が有るのかどうかも知らない)じゃないか。
「ひらがなは草書の変化だ」とも,聞いたことが有るような気もする。で,ひらがなの形には,もとはいろいろ有ったらしい。に相当するものには,太・田・多・佗・唾・堂・當などが有る。このうち今の「た」になったのは,直接的にはやはり「太」だろう。
で,「當」の草書は下部をもう一歩整理すれば確かに「当」に近くなる。の音を表現するひらがなとして「當」の草書に見慣れていれば,「當」と書くべきときに,略して「当」に近い形を書くことは有ったろう。それを当用漢字として採用した。

ひらがなが関わっているとなると,「日本で勝手に作った形」,なのかも知れない。でも,草書の楷書化に過ぎないとなれば,中華の民だってやるんじゃないかと思って,『宋元以来俗字譜』を見たら,あっさり載ってました。通俗小説、目連記、金瓶梅、嶺南逸事。

2015年3月11日 星期三

俗字 ですらない

……さらに宋の宋祁『宋景文公筆記』巻中にいう後魏北齊の里俗に偽字「文子で學と為す」の話と,孫奕『履斎示児篇』巻二二に引く『字譜総論訛字』に「學」を俗に「斈」と書くという記載とを関連づければ,「斈」は確かに長きにわたって行われた俗字である(流行已久的俗字)。『改併四聲篇海』に引く『俗字背篇』に「𡕕」(夂の下に文)に作り,また「𢻯」(攵の下に文)に作るということについては,筆者は孤陋寡聞にして,未だそのような用例をみたことが無く,その信頼性は大いに疑わしい。……
(張涌泉『敦煌俗字研究導論』より)

2015年3月9日 星期一

郎知本『正名要錄』

敦煌文書の中には,いくつもの俗字書が有って,その一つを郎知本『正名要錄』という。ところが『舊唐書』郎餘令傳というものが有って,餘令の從父に同じ經歷の知年というのが登場する。また,『日本國見在書目』には,『正名要錄』は司馬知羊の撰ということになっている。郎知年はかつて司馬であったらしいから,これは官名を誤って姓氏としたのだろう。羊は本か年の誤り。では本なのか年なのか。よくわからないが,本の異体字に夲が有り,年の異体字に秊が有る。そりゃ間違うことも有るはなあ。あとは,傳抄された史書を信じるか,当時の俗文書を信じるか。

2015年2月22日 星期日

有無

 宇宙は,ごく微小のたった一点から,ビッグバンによって始まり,137億年間膨張を続けているとして,そのビッグバンの前には何が有ったのか何も無かったのか。

2015年2月16日 星期一

太素の滎輸

05(四海合)岐伯曰必先明知陰陽表裏輸所在四海定矣【胃脈以為陽表也手太陰足少陰脈為陰裏也衝脈為十二經脈及絡脈之海即亦表亦裏也】
10(經脈根結)足太陽根于至陰流于京骨注于崐崘入于天柱飛陽也【輸穴之中言六陽之脈流井輸原經合……
11(府病合輸)黄帝曰余聞五藏六府之氣輸所入為合今何道從入入安連過願聞其故【問藏府脈之輸之合行處至處也】岐伯答曰此陽脈之別入于内屬于府者也【此言合者取三陽之脈別屬府者稱合不取陰脈以陽脈内屬於府邪入先至於府後至於藏故也】黄帝曰輸與合各有名乎岐伯答曰輸治外經合治内府【五藏六府輸未至於内故但療外經之病此言合者唯取陽經屬内府者以療内府病也】
12(營衞氣行)知取足太陽輸【取前二穴不覺愈者可取足太陽第二穴及第三輸也】氣在於臂足先去於血脈後取陽明少陽之輸【手足四厥可先刺去手足盛絡之血然後取於手足陽明之與輸及手足少陽及輸也】
14(人迎脈口診)通其輸乃可傳於大數大數曰盛則徒寫虚則徒補【候知五藏六府病之所在先須鍼藥通其輸然後傳於灸刺大數謂空補寫之數也】
22(九刺)一曰輸刺輸刺者刺諸經輸藏輸也【取五藏經輸藏輸故曰輸刺】
24(真邪補寫)有餘不足補寫於輸余皆以知之矣
26(寒熱雜説)冬取經輸【冬時腎氣方閉陽氣衰少陰氣緊太陽沈故取經井之輸以下陰氣取輸實於陽氣療於骨髓五藏之病也】

この他にも滎輸はいくらも有るが,井滎輸経合の滎輸として現れるもので,ちゃんと滎輸と書かれているものは省いた。經脈根結の楊注中の「井榮輸原經合」も,単なる書き間違いとして省いてよかろう。営衛気行も第二とか第三とかいうことばが出てくるのだから,滎に改めてよいだろう。寒熱雑説の楊注中の「経井の輸を取って以て陰気を下し,榮輸を取って陽気を実す」も,井滎輸経合の内からの選穴による効能の違いのはなしであろうから,滎輸の誤りとみてよかろうと思う。

残るところは,府病合輸、人迎脈口診、九刺、真邪補寫であるが,『太素』ではもともと明らかに「滎輸」になっている。はて,「榮輸」などということばは本当に有ったのか。全部を「滎輸」としては拙いんだろうか。四海合に「營輸」などと出てくるのがいささか微妙ではあるが。

2015年2月2日 星期一

何が出来ると思ったのか

かの女子大生は狂犬じみている,には違いないが,それにちょっかいを出して,より添っていたとやらいう,宗教家とやらいうオバサンにも,いささか,げんなりする。

わが家にも,宗教家とやらいうオバサンはしばしば訪れる。そのたびに無言で,手で制して,慇懃に,拒絶する。するとオバサンは,おだやかに,丁寧に,会釈して去る。そしてわたしは,その日一日,ずっと不愉快でいる。



2015年1月18日 星期日

はずかしい

朝日新聞社が「天声人語書き写しノート」なんてものを作って,「思考力が刺激されて,まさに老化防止,頭の体操に最適です」なんていう感想文を使って販売する。何だか恥ずかしい。何故恥ずかしいのかうまく説明できないけど,やっぱり何だか,とっても恥ずかしい。

2015年1月13日 星期二

移乖和

『太素』巻22三刺の篇末近く,「必一其神,令之在針,淺而留之,微而浮之,以移其神,□□□□」についての楊注を,「和(也),針下和氣,六也」と読み解いたところ,最初の字は「移」には見えないという異見が出た。見えるかどうかは争いようが無いが,とりあえず似た「移」は有る。『太素』巻28痺論の「黄帝曰:善。願聞周痺何如?岐伯對曰:周痺者,在血脈之中,隨脈以上,循脈以下,不能左右,各當其所」についての楊注に「言周痺之状,痺在血脈之中,循脈上下,不能在其左右不其處,但以壅其真氣,使營身不周,故名周痺之也」の「移」は以下の如きものです。如何。なお,「換」ではどうか,という意見も有ったように思うが,換はおろか渙も喚も奐も『太素』には見えないようなので,似ているかどうか判断のしようがない。


迎随について

『霊枢』九針十二原の冒頭付近,小鍼の要の後半部分について,逢・逆・迎は通じて迎撃の意味であり,追・順・随は通じて追撃の意味であるという新解釈を聴いた。きわめて明快で魅力的なのだが,得心できないところも有る。「往者為迎,来者為迎」と言い換えられて互文であるとされるところもそうだが,『霊枢』逆順の「無撃堂堂之陣」に拠って,病勢が盛んなときには手を下さないという。症状が出ないうちに何とかするのが理想だが,たいしたことがないうちに何とかするのが次善,それもかなわなければ病勢が衰えてからにする。この説明も魅力的だし,それ自体に異論は無い。ただ「空中の機は清静にして微」であるといい,「掛けるに髪を以てもすべからず」といい,「これを叩けども発せず」あるいは「これを扣えて発せず」というところからすると,やはりタイミングを外すな,という語気をここには強く感ずる。つまり,刺すべき瞬間に刺し,抜くべき瞬間に抜け,はやまるな(来てないものを迎えにいってはダメ,ジッと待て),遅れるな(往ってしまったものを追いるようではダメ),躊躇するな。躊躇するなという注意は,『霊枢』には繰り返し説かれていると思う。粗(工)は闇の中にいるようなもので何もわからない,タイミングをはっきりとさとって外さないのは(上)工にのみ可能なのである。してみれば「往者為逆,来者為順」だけは,そのままの文字で,「(神気が)往ってしまうのは拙い,来てくれるのは喜ばしい」と解しておきたい。

2015年1月5日 星期一

并州大都督楊暉

581 隋の文帝の即位。
589 楊上善,生まれる。
604 文帝崩じ,煬帝の即位。并州(山西省)総管・漢王楊諒の反乱,鎮圧。
617 太原(并州)留守・李淵の挙兵。
618 李淵即位し,唐の成立。
675 李賢,皇太子に。楊上善(87),太子文学に。
680 太子李賢,廃される。
681 楊上善,死す。
684 李賢,自殺。
705 武后死去。
711 李賢の名誉回復。

楊上善の墓誌銘にいう父親の暉が,并州大都督だったというのは本当のことなのか。本当だったとして,それはいつのことなのか。まさか,唐の高祖・李淵が挙兵の最初に戦った相手じゃ無いよね。楊上善は,そこまでの有力者の末裔じゃ無いよね。